『読売新聞・歴史検証』(6-11)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 11

明治維新の元勲、山県有朋の直系で、仏門出身の儒学者

 清浦奎吾(一八五〇~一九四二)、晩年に伯爵、一九四一年(昭16)に東条英機を首相に推す重臣会議に出席したのが、最後の政治活動として記録されている。

 この清浦が、虎の門事件で引責辞職した山本権兵衛のあとをつぎ、一九二四年(大13)一月七日から六月一一日まで、わずか一五七日という半年にも満たない短命内閣を組織していた。その間に、正力の読売乗りこみが果たされ、しかも、のちになっての正力の自慢話によると、郷社長に正力専務という体制で、民間のラディオ放送株式会社が発足しかけたというのである。

『読売新聞百年史』では、この間の事情をつぎのように記している。

「正力は後藤新平伯を動かし、財界を味方にして、後藤から当時の逓信大臣藤村義朗をくどいてもらった。時の政府、清浦奎吾内閣も『もし正力の力で、有力な競願五社を統一できるなら免許を考えよう……』というところまで折れてきた」

 ただし、認可直前に清浦内閣は倒れてしまった。翌年には、公益法人の東京・名古屋・大阪放送局の設立、翌々年には日本放送協会への統一、という経過をたどる。この間の動きは、大変にあわただしいのである。

 清浦内閣は当時「貴族院内閣」と呼ばれていた。すでに紹介したように、松山経営の最終末期の読売の紙面では、「閥族」支配、「非立憲内閣」の典型、政党政治に逆行する反動内閣として、第二次護憲運動の倒閣の対象となっていた。一九二四年(大13)一月二一日付け読売社説の四段抜き見出しは、つぎのようであった。

「清浦内閣を倒壊し、併せて非立憲内閣の出現を根絶せよ」

 清浦その人は、さほど有名な歴史上の人物ではない。しかし、それだけにかえって、明治・大正期の内務行政の化身そのもののような観がある人物なのである。

 特徴がないわけではない。仏門出身で、儒学者として世に出たといえば、士族出身の元尊王志士や元軍人が多かった明治の政治家の中では、珍しい部類であろう。政治的には、明治維新の元勲、元老、長州閥、閥族、老狗などの呼び名の典型、山県有朋(一八三八~一九二二)の直系とされている。行政的には、山県が確立した陸軍、内務、司法の三分野のうち、内務と司法の継承者として評価されてきた。山県の死後には、天皇の最高諮問機関としての枢密院議長の地位をも引き継いでいる。それまでも枢密院の副議長だった。

 著書には、一八九九年(明32)発行の『明治法制史』がある。

 官職の経歴は司法省ではじまっている。司法省所属の検事から、内務省に転じて警保局長になる。その後、司法大臣、内務大臣兼農商務大臣、枢密顧問官、二度の首相という経歴だから、戦前の警察と司法の一体だった関係を、一身で表わしているような人物である。

 以上のような経歴の、いわば元老山県有朋の陰の半身とでもいうべき清浦が、二度までもショート・リリーフの組閣を命ぜられたのは、大正期の政治状況の不安定さを象徴的する事態だったといえよう。

 一度目は、海軍大臣がえられずに組閣が失敗し、「流産内閣」とか、鰻の蒲焼の匂いだけかいだという意味で、「鰻香(まんこう)内閣」などとあざけられた。これが一九一四年(大3)、海軍が中心のシーメンス汚職事件で海軍出身の山本権兵衛内閣が総辞職したあとのことである。ショート・リリーフに立って、ボロ負け先発投手の仲間内の海軍から忌避されたのだから、何とも運のない初投手の無投球首相である。

 二度目は、今度も同じ山本権兵衛内閣が虎の門事件で引責総辞職したあとのことだから、よくよく薩摩、または海軍閥の山本の尻拭いに縁があるらしい。一九二四年一月のことだから、山県はすでに死に、清浦自身は、天皇の最高顧問という組織的位置づけの、枢密院議長の立場であった。「貴族院内閣」とよばれたのは、貴族院議員を中心に閣僚を選んだからである。虎の門事件の後始末という特別な事態だったこともあり、さすがに今度は海軍の忌避はなかったが、さきにも記した通りの一五七日の短命内閣だった。最後のとどめは、衆議院選挙で護憲を旗印にした「護憲三派」に多数を制されたことである。

 しかし、短命は清浦内閣だけのことではなかった。大正年間には安定政権はほとんどない。一四年ほどの間に一一の内閣が組織されたが、三年以上続いたのは原敬内閣だけで、これも最後は原敬その人の暗殺で終わっている。二年以上は大隈重信内閣、二年弱が寺内正毅内閣だが、第一次世界大戦、シベリア出兵、米騒動と、国際的動乱、国内的混乱の絶え間がなかった。

 このような動乱と混乱の時代、しかも、人心ゆれうごく思想変革期の真っただ中で、資本主義社会の真の支配者たる財界の大立者たちは、いかなる政権を必要としていたのであろうか。

 明治維新の元勲、元老が、カイライの天皇を擁して絶対的権力をふるった時代は、明治とともに去りつつあった。藩閥、軍閥、官僚閥、貴族院閥などによる閥族政治とよばれて、厳しい批判の的になりつつあった。議会とは名のみで、憲法にも記されていない元老会議と枢密院が、天皇の顧問という資格で政治の骨格を定めえていた時代は、もう終りになるかに見えた。新しい支配体制が求められていた。政党政治への移行が提唱され、具体化もされたが、これも順調には進まなかった。政友会で議席の多数を占めて政権を握ったのが原敬だが、原の政党政治は旧来の閥族との妥協の産物でしかなかった。旧来の閥族政治への「非立憲」的な揺り戻しがつづく状況下、明治の元勲たちの意志を継ぐ最後の仕方なしの受け皿こそが、清浦奎吾だったのではないだろうか。

 清浦の人となりを探る手がかりとしては、『子爵清浦奎吾伝』と『伯爵清浦奎吾伝』(徳富蘇峰監修)、および本人の講話をまとめた『奎堂夜話』がある。これらの中から、新聞に関係する部分を抜き出してみよう。

 清浦が内務省の警保局長、今でいうならば警察庁長官の立場にあったとき、すでに本書第一部の冒頭でふれた保安条例が公布された。

 一八八七年(明20)に公布された保安条例の目的は、民権派の言論の圧殺にあった。おりから政治論議の焦点になっていた条約改正問題で、民権派の政府批判が再燃していたのである。政府は、保安条例をふりかざすことによって、東京から危険人物を追放し、立ち入りを禁ずることができるようになった。その直後には逆に、新聞紙条例を改正して、発行許可制を届出制に緩和したりしている。いわゆるアメとムチの新聞支配のねらいである。

 保安条例は、しかも、極秘裏に準備された。警視庁が芝公園で忘年会を開くという偽装までして、一挙に反対派を検束し、市外に追放したのである。そのときの清浦警保局長の活躍について、『子爵清浦奎吾伝』(日本魂社)では、つぎのように興奮ぎみに持ち上げている。

「警保局長としての手腕を要したこともちろんである。異常な場合には、異常な人材を要するのである。彼の得意時代は、こうした騒々しい時代だったのである」

 だが清浦は、決して暴れ者というばかりではなかった。もともとは仏門出身の儒学者上がりである。むしろ、陰に回ってメディアを統制する方が、肌に合っていたのではないだろうか。保安条例公布後の一八九一年(明24)には、ヨーロッパの新聞通信事業を視察し、帰国後に「東京通信社」を設立している。『伯爵清浦奎吾伝』(伯爵清浦奎吾伝編纂所)には、このときの事情についての本人の談話が収録されている。正力元警務部長の読売乗りこみは、ここで「あの頃」とされている時代から三分の一世紀ほどへだたっているのだが、合わせて読みくらべてみると、いささかギクリとする話なのである。

「あの頃までは、まだ新聞の通信社は少なかった。二つ位あったかと記憶する。[中略]政府の趣旨が誤りつたえられて、政府の不利になることがあるから、一つ通信社をおこして、その弊を除き、正確なる材料を提供したいものだというのが、警保局長としての私の意見であった。[中略]当時警保局でやっていた警官練習所に大分県から選抜入所せしめられていた警部で、五十嵐光彰というのがいて、これが思いのほか、漢学の力もあり、文章も立つというので、あれにやらせたらどうかということになり、五十嵐を辞職させてやらせることにした。もちろん、経費も警保局の方で助けていたし、随分、公平にやっていたが、新聞社側からは、やっぱり御用通信だというような批評もあった」

 この『東京通信社』の実態および実績はよく分からない。わたしの知る限りでは、『日本マス・コミュニケーション史』に、「警保局長清浦奎吾が政府の命令で『東京通信社』を創設した」と記されているのみである。経過だけを押さえておくと、抜き打ちの保安条例公布で「危険人物」を一挙に検束し、市外に追放したのちに、官費で助ける「御用通信」社を設立したのである。のちの『同盟通信社』への一本化につながる発想と実践が、すでに明治時代に存在したわけである。

 警保局長という地位は、現在ならば警察庁長官に当たる現場の最高指揮官である。そういう現場の経験を持つ清浦が、約三分の一世紀後に、首相の立場でメディアの状況を見下ろしていたのである。その胸中には、いかなる策謀が渦巻いていたのであろうか。メディア操作について、清浦が何を考えていたかを明確に示す資料はない。だが、その基本姿勢は、晩年の講話をまとめた『奎堂夜話』(今日の問題社)からも、明白に読み取れるのである。

 たとえば、「国民思想統一の要」と題する講話は、「明治の元勲」の衣鉢を継ぐ教えである。清浦自身は、その「遺訓」を受けた経過を、つぎのように重々しく解説する。

「山県公は、いうまでもなく、明治の元勲で、文官としても、また武将としても、国家のために、維新以来、非常に力をつくした方である。山県公が、なくなられる前々年であったが、わたしに、最後の書簡をおくられた。それは、絶筆というべきものであるが、これも、この場合参考になると思うから、肝要なところだけをのべてみよう」

 山県の書簡の内容は、つぎのように「(要領)」としてまとめられている。

「『欧州大戦終了後は、全世界にわたり、物質上、非常な変化をきたすべく、しかして、この競争は、東亜の天地を中心として、襲来いたすべきものと信ずる。また、その競争は、政治上、経済上、直接間接、種々の形式をもってあらわれ、列強、東亜の天地に、覇を争うにあたりては、帝国の地位は、戦後に起るべき大颶風の衝にあたると、覚悟しなければならぬ。この強風怒濤にむかっては、挙国一致、人心を結合して、国家の基礎を、鞏固ならしむる覚悟が、必要である。しかれども、これを実行するのは、容易なことではない。実に想うてここにいたれば、帝国の前途は憂慮にたえない次第である。老兄もまた御同感と信ずる。同志とともに、憂国の志士をかたらい、将来ますます帝国の光輝を、発揚せらるること、切望にたえない』(要領)」

 この「遺訓」のキーワードは、二度までも出てくる「競争」であり、「覇を争う」であり、その目的のために「挙国一致」することである。このキーワードの配列が示す通りの方向に「国民思想統一」を図った結果は、すでに、あまりにも明らかになりすぎている。さきにも簡略に指摘したが、歴史的分岐点における最悪の選択、「旧帝国主義支配の維持」すらを突き抜ける侵略の拡大であった。日中一五年戦争であり、アジア太平洋戦争であり、最後には、「国体護持」だけのために「神風特攻隊」を発進し、お返しに二発の核爆弾の投下までを招く敗戦であった。

 新聞業界も「挙国一致」の先頭を切り、「国民思想統一」のための要の役割を果たした。業界をまとめる団体は、現在と名称を同じくする「日本新聞協会」であった。『伯爵清浦奎吾伝』の「通信新聞事業に盡力」という項目には、つぎのように記されている。

「日本の新聞、通信事業が異常の発達をとげた今日において、伯が全国新聞、通信社を網羅し、かしこくも東久邇殿下を奉戴して、日本における同業団体の最大組織たる日本新聞協会の会長に就任したことも、決して偶然ではなかった」

 つまり、ここに、かつて後藤新平が画策し、その伝記には、「機遂に熟せずして、新聞連盟の事は中絶するに至ったのである」と記されていた「新聞利用」の政治構想が、名前こそ違え、元首相を会長に奉戴しつつ実現したのである。

 そこで、また話を本来の主人公の読売に戻すと、正力松太郎は、読売乗りこみの二年後、一九二六年(大15)三月一五日に歌舞伎座を買い切って、「社長就任披露の大祝賀会」を開いた。『読売新聞八十年史』によれば、正力はそこで、三〇〇〇名の各界名士を前にして「新聞報国への固い決意を開陳した」のである。「激励、祝辞」をのべた「各界の代表」のなかには「首相若槻礼次郎、新聞協会会長清浦奎吾」と並んで、「後藤新平」の名も連ねられている。


第七章 メディア支配の斬りこみ隊長
(7-1)「蛮勇を揮った」ことを戦後も自慢話にしていた元「鬼警視」