『読売新聞・歴史検証』(5-4)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第五章 新聞業界が驚倒した画期的異常事態 4

「帝人事件」から「陰鬱なサムシング」の数々への疑惑の発展

 番町会は、しかし、決して天下無敵ではなかった。福田諭吉が創設した政論紙の時事新報が、一九三四年(昭9)初頭から、実名入りの大キャンペーン連載「番町会をあばく」を始めた。番町会は正力の提案を受けて、いったん告訴の方針を決めたが、それを断行できなかった。

 前出の生き証人、古江の最近の表現を借りれば、「番町会というのは、佐川急便以上に、叩けばホコリの出るところだった」のである。時事がキャンペーンを開始して三か月後には、番町会が深く関わっていた著名な大疑獄、帝人事件で、帝人株買取りの関係者として河合良成、永野護、中島久万吉らが検挙された。正力も背任幇助の嫌疑で地検に召喚され、市ヶ谷刑務所に収監された。事件そのものは、四年もかかって「無罪」判決となるが、正力が株取引で巨額の利益を得ていた事実に関しては、様々な証言が残されている。

 さて、さきに紹介した『現代新聞批判』(34・6・1)の記事には、つぎのような意味深長な文句があった。

「正力には番町会との腐れ縁が禍して、とにかく陰鬱なサムシングが付き纏っている」

「陰鬱なサムシング」とは何だろうか。もしかして、はっきりとは言いにくい問題だったのだろうか。そうではないのである。むしろまったく逆で、当時の読者には、一言の説明の必要がないほどの大事件が起きていたのである。

 先頭に立って「番町会をあばく」の大キャンペーン記事を連載していた時事新報の社長、武藤山治が、その年の三月九日、大船の自宅から出たばかりの裏道で襲われ、書生と一緒に五連発のコルト拳銃で殺された。犯人の失業者、福島信吉も、なぜか、その場で自殺した。ただし、自殺した「ことになっている」と付け加えるべきなのかもしれない。殺人現場の目撃者は誰も現われなかったのである。

 当然、当時も、番町会の背後関係を疑う議論が、あらゆる場で広がった。疑惑報道もなされたし、検察当局も番町会関係者を召喚して事情聴取した。番町会の河合と弁護士の清水が、事件の三日前に犯人の福島と会ったことを認めた。おそらく、会ったことだけは認めざるを得ない材料を、検察が握っていたのだろう。だが、捜査は、なぜか、途中で打ち切られてしまった。

 本書のテーマ上、いちばん興味深いのは、時事新報の武藤が「番町会をあばく」の大キャンペーンをはじめた個人的動機である。『巨怪伝』によると、それがどうやら、競争相手として急速にのし上がってきた正力経営の読売の、資金源への疑惑にあったらしいのである。

 翌年の一九三五年(昭10)二月二二日、今度は正力が襲われた。読売本社に入るところを、背後から日本刀で首筋を切られた。番町会の「バ」の字も出てこない『読売新聞百年史』といえども、この事件だけは無視するわけにはいかない。「正力遭難にも屈せず」の見出しで、読売の診療所で「医者を呼べ」と命じた正力の「バイタリティー」を、おおげさにたたえたりしている。犯人の長崎勝助は右翼団体「武神会」の会員だったが、この背景も、やはり、大変な疑惑だらけだった。『読売新聞百年史』では、つぎのように簡略に記している。

「武神会会長の熱田佐ほか数十人が取り調べを受けたが、結局単独犯ということで、長崎は傷害罪で懲役三年となった。事件そのものは落着したが、激烈をきわめた新聞販売合戦のさ中でもあり、業界にはいろいろうわさが飛んだ。熱田が東日関係から金をもらったこと、東日販売部長丸中一保がその後行方不明となり、伊豆山中で白骨死体で発見されたことなどが、うわさに輪をかけた。それほど、当時の販売競争はものすごかったし、読売の伸びっぷりは目についていたのである」

 白骨死体の発見後、事件は再び東京日日への恐喝事件として審理され、熱田には懲役六か月の判決が下った。『巨怪伝』では六頁も費やしている丸中事件を、これ以上要約紹介するのは不可能である。要は、読売が仕掛ける「販売競争」の結果が、これだけ「陰鬱なサムシング」を世上に撒き散らしていたということである。

 番町会のボスだった郷誠之助は男爵の位を得て、戦争中の一九四二年(昭17)に死んだ。しかし、番町会の伝統は、戦後の政財界にも引き継がれた。戦後の自由党結成、吉田茂首相の実現については、児玉誉士夫の通称「児玉機関」など、怪しげな様々の資金源が取り沙汰されているが、一九五二年(昭27)に初版が発行された『この自由党』(復刻版、晩聲社)の前編「民衆なき政治」には、「悪名高き番町会」の見出しがあり、つぎのように記されている。

「日本貿易会会長中島久万吉氏も吉田の遠縁に当っており、[中略]かつて郷誠之助男爵をとりまいて財界を荒らしまわった悪名天下に高い『番町会』のメンバーである。彼は第一次吉田内閣以来、吉田の経済顧問として、同じく番町会の、産業復興営団会長長崎英造を推薦し、すでにこのころから吉田の周辺に、永野護、河合良成、さらに大政翼賛会の前田米蔵、大麻唯男ら番町会のお歴々が戦後勢力として大きな発言権をもつようになったのである。[中略]永野護の弟重雄が経済安定本部次長から富士製鉄の社長におさまり、今や財界にゆるぎない地位をきずいたのも、このグループの力を示すものである」

 この内、永野護は、「昭和の妖怪」の異名を取った岸信介の指南役だったといわれている。岸内閣では運輸大臣になり、岸とともにインドネシア賠償疑獄の主となった。戦後処理の賠償の中に一〇隻の船があり、その内の九隻が、永野が関係する木下商店の扱いだったのである。この件は関係書にくわしいが、うやむやのまま検挙にはいたらなかった。正力との関係では、永野護が関東レース倶楽部の取締役、弟の重雄が日本テレビ創立時からの社外取締役であった。


(5-5)「大きな支配する力を握って見たい」という珍しい本音の告白