『偽イスラエル政治神話』(23)

第2章:二〇世紀の諸神話

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第4節:"民なき土地に土地なき民を"の神話 1

 シオニストのイデオロギーは、非常に簡単な公理の上に成り立っている。それは、『創世記』(15章18~21節)に、つぎのように書かれている。

《主はアブラハムと契約を結んで言われた。〈わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで〉》

 ここから出発して、神との契約の内容が何だったか、約束が誰に対してなされたのか、神の選択は無条件だったのか、などということは問題にしようともせず、シオニスト指導者たちは、不可知論者であろうと無神論者であろうと異口同音に、パレスチナは神からわれわれに与えられたのだと宣言するのである。

 イスラエル政府の統計によってすら示されているように、信心深いイスラエル人は一五%しかいない。このことは、しかし、イスラエル人の九〇%が、この土地は彼らに神……信じていないのに……から与えられたのだと断言する妨げにはなっていない。

 現在のイスラエル人の圧倒的多数は、信仰を持たず、宗教的活動に参加していない。イスラエル国家で決定的な役割を演じている様々な“宗教政党”は、極少数の市民しか組織していない。

 この明らかな逆説的現象について、ナタン・ヴァインストックは、著書、『イスラエルに背くシオニズム』の中で、つぎのように説明している。

《もしも法師たちの反啓蒙主義がイスラエルで勝利を収めるとすれば、その理由は、シオニストの神話がモーゼ信仰としか結び付いていないからである。“選ばれた民”と“約束の土地”の概念を取り除けば、シオニズムの土台は崩壊する。宗教政党が不可知論者のシオニストに荷担することによって、彼らの勢力を逆説的に引き出すことができるのは、この理由による。イスラエルのシオニストの構造の内部的な結び付きは、彼らの指導者に、聖職者の権威の強化を課題として課する。だから、宗教政党ではなくて、ベン=グリオンの強い影響下にある社会民主主義政党の“マパイ”の方が、学校教育の義務課程に宗教の講座を組み込んだのである》(『イスラエルに背くシオニズム』69)

《この国は、神自身が結んだ約束の実現として存在している。その正統性を問題にするのは馬鹿気ている。これが、ゴルダ・メイヤ夫人によって定式化された基本的な公理である》(『ル・モンド』71・10・15)

 ベギンは繰り返して語った。

《この土地は、われわれに約束されたものであり、われわれは、それを所有する権利を有する》(オスロにおけるベギンの宣言。『ダーヴァール』78・12・12)。

《聖書を所有し、聖書の民と同様に考えるものは誰でも、聖書に記された土地すべての所有を要求すべきである。審判者の土地と、族長の土地と、エルサレムと、ヘブロンと、エリコと、その他の土地である》(モシェ・ダヤン将軍、『エルサレム・ポスト』67・8・10)

 非常に意味深いことだが、ベン=グリオンは、アメリカの“先住民族”問題に注意を向けている。アメリカでは実際に、一世紀にわたって、フロンティアが太平洋までの前進を続けた。そこでは、“フロンティアの閉鎖”の公布が、“インディアン追放”の成功を保証し、彼らを追い立て、彼らの土地を奪う役割を果たしたのである。

 ベン=グリオンは、つぎのように明確に語っている。

《現状維持は必要ではない。われわれが創設した国家は、活力に溢れており、拡張する運命にある》

 政治的な実践は、この特異な理論と呼応する。土地を奪う。住民を追い出す。モーゼの後継者のヨシュアがした通りのことだ。

 メナヘム・ベギンは、最も強烈に旧約聖書の影響を受けており、つぎのように宣言した。

《エレツ・イスラエルの土地のすべては、永遠にイスラエルの民に与えられた》(メナヘム・ベギン『反乱/イルグンの歴史』)

 こうして一挙に、イスラエル国家は、すべての国際法に上に立つことになった。

 アメリカの意志により一九四九年五月一一日、国連の勧告が議論された際にも、イスラエルは、つぎの三つの条件しか受け入れなかった。

1……エルサレムの現状に変更を加えない。

2……アラブ人であるパレスチナ人が自分の家に戻るのを許可する。

3……国連の分割決議で定められた国境線を尊重する。

 この国連の“分割”に関する決議について語るのであれば、それを承諾するどころの話ではない。ベン=グリオンは、こう宣言したのである。

《イスラエル国家は、一九四七年一一月二九日の国連決議は無価値であり無効であると考える》(『ニューヨーク・タイムズ』53・12・6)

 先にもアメリカ人のオルブライトの著作を引用して、アメリカ人とシオニストの領土拡張の比較に関する理論を紹介したが、この拡張の理論に呼応するかのように、モシェ・ダヤン将軍は、こう書いている。

《アメリカの独立宣言を例に取って考えてみよう。この宣言には、領土の限界についての記述は、まったく含まれていない。われわれには、国家の領土の限界を固定する義務はない》(『エルサレム・ポスト』67・8・10)

 イスラエルが採用した政策は、このジャングルの掟と正確に一致する。国連の決議に起因するパレスチナ“分割”の国境線は、一度たりとも尊重されたことはない。

 一九四七年一一月二九日、当時は圧倒的多数の西欧諸国が構成する国連総会によって採択された分割決議には、すでに、西欧諸国のための“前進基地”としての意図が色濃く印されていた。この時期には、ユダヤ人の人口比率は三二%であり、土地の保有率は五・六%だった。ところが、彼らには五六%の、しかも最も肥沃な土地が配分された。この決定は、アメリカの圧力の下に獲得されたものである。

 トルーマン大統領は、史上空前の圧力を国務省に掛けた。当時の国務次官、サムナー・ウェルズは、こう書いている。

《ホワイトハウスの直接の命令により、……最終投票での過半数確保に向けて、……われわれ役人は、直接、間接を問わず、ありとあらゆる圧力を行使しなければならなかった》(サムナー・ウェルズ『失敗は許されない』48)

 当時の国防長官、ジェイムズ・フォレスタルは、つぎのように認めている。

《国連の奥座敷で、他国に圧力を掛けたり、牽制したりした手段の数々は、スキャンダルとして暴露される寸前の状態だった》(『フォレスタル回想録』51)

 独占的私企業の力も動員された。『シカゴ・デイリィ』紙の一九四八年二月九日号には、デックス・ピアソンが寄せた詳細な情報が載っていた。たとえば、こんな話である。

《リベリアのゴム農園の所有者、ハーヴェイ・ファイアストンは、リベリア政府に対して自分の影響力を行使した》

 一九四八年当時からすでに、分割決議そのものの蹂躙が始まっていた。

 アラブ諸国は、この不正行為に抗議し、分割決議を拒否したが、イスラエルの指導者たちは、その拒否をもっけの幸いとして、さらに新しい領土を奪い取るために利用した。特に、ジャファとサン・ジャン・ダクルでは、早くも一九四九年までに、シオニストが国土の八〇%を支配していた。こうして、七七万人のパレスチナ人が追い出された。

[英植民相暗殺のテロリストを“英雄廟”に埋葬]

 駆使された手段はテロであった。その最も甚だしい例は、デイル・ヤシンの事件である。

 一九四八年四月九日、[フランスの]オラドゥールでナチが行った住民の全員虐殺と同じ手口で、メナヘム・ベギンと、彼が指揮する“イルグン”の部隊は、デイル・ヤシンの町の男、女、子供、老人を含む二五四人の住民を虐殺した。

 その著書、『反乱/イルグンの歴史』の中で、ベギンは、デイル・ヤシンでの・勝利・なしにはイスラエル国家は存在し得なかったと記し、つぎのように付け加えている。

《ハガナは別の戦線で勝利につながる効果的な攻撃を行った。……パニックに襲われたアラブ人たちは、〈デイル・ヤシン〉と叫びながら逃げ出した》(同書)

 一九四八年八月一日以前に自分の家から逃げ出したパレスチナ人はすべて、“不在”と見なされた。

 このようにして、アラブ人が所有していた土地、一一万ヘクタールの内の七万ヘクタール、実に三分の二が、イスラエル国家によって没収された。一九五三年になって土地所有権の法律が公布されたが、没収の補償金額は一九五〇年当時の地価で固定されており、その間に、イスラエルのリーブルの購買力は五分の一に下がっていた。

 その他にも、ユダヤ人の移民が始まって以来、彼らは、ここでもまた最も単純な植民地主義の手法に従って、土地を不在地主の封建的所有者、“エフェンディ”から購入した。その結果、貧しい農民のフェラーは、自分の預かり知らない間に昔の主人が新しい土地占有者と結んだ契約を盾に、自分が耕し続けてきた土地から追い出されることになった。土地を奪われた彼らに残された道は、流浪の旅しかなかった。

 国連は、調停者として、フォルケ・ベルナドッテ伯爵を任命した。最初の報告の中で、ベルナドッテ伯爵は、こう書いている。

《紛争の犠牲者となった無実の人々が、故郷に戻るに際しての基本的な要素が、ここでは侵害されている。ユダヤ人の移民者がパレスチナに溢れるように入ってきて、その上に、何世紀も耕し続けてきた土地を奪われたアラブ人の難民を、常に同じ手法で脅かし、彼らと入れ替わろうとしている》。

 彼は、《大掛りで明らかに軍事的な必要性なしに町の破壊をするシオニストの強奪振り》を描き出した。

 この報告(国連記録)は、一九四八年九月一六日付けで提出されている。翌日の一九四八年九月一七日、ベルナドッテ伯爵とフランス人の助手、セロト大佐は、エルサレムのシオニストの支配下の地区で暗殺された。暗殺の状況は、ベルナドッテ伯爵の車に同乗していたルンドシュトロム将軍が同日、国連に提出した報告書、および二周年記念に同将軍が発表した『ベルナドッテ伯爵暗殺事件』、ラルフ・ヒューインズ著『ベルナドッテ伯爵/その生涯と業績』に詳しく記されている。暗殺犯、バルーフ・ナデルの告白が、ミラノの週刊誌、『ヨウロパ』に載り、『ル・モンド』(71・7・4&5)に引用されている。

 これは、シオニストの欺瞞の告発者に対しての、初めての犯罪ではなかった。

 当時はカイロ駐在のイギリス植民地担当国務大臣だったモイン卿は、一九四二年六月九日、貴族院で、「ユダヤ人は古代ヘブライ人の子孫ではない[訳注1]から、聖なる土地の“正統な領土回復要求権”を持っていない」と言明した。パレスチナへのユダヤ人の移民を抑制する政策の賛成者だった彼は、《ヘブライ人の独立に対する執念深い敵》として非難の的となった(アイザック・ザール『救助と解放/イスラエル誕生にアメリカが果たした役割』54)。

 一九四四年一一月六日、カイロにいたモイン卿は、イツァク・シャミール[のちのイスラエル首相]指揮下のシャミール集団のメンバー、二人によって射殺された[犯人二人はアラブ側に逮捕され、処刑された]。

 その後、二〇余年を経て、オークランドの『イヴニング・スター』紙の一九七五年七月二日に掲載された記事によると、処刑された二人の死体をエルサレムの“英雄廟”に埋葬するために、二〇人のアラブ人の捕虜との交換が行われていた。イスラエルが暗殺者を褒めたたえ、英雄扱いしたことを知って、イギリス政府は慨嘆した。

訳注1:いわゆるユダヤ人、またはユダヤ教徒の約九割は、モイン卿の発言の通り、「古代ヘブライ人の子孫ではない」。ユダヤ教を採用したカザール帝国の末裔とその係累である。タタール系の民族を中心とするカザール帝国は、七世紀から一〇世紀に掛けて南ロシア周辺で栄え、その後に滅び、住民は離散した。巻末の「訳者解説」で資料等を紹介する。

 一九四六年七月二二日には、イギリス軍が司令部を置いていたエルサレムのキング・デーヴィッド・ホテルが爆破され、イギリス人、ユダヤ人、アラブ人合わせて、ほぼ一〇〇人の人命が失われた。イルグンの仕業であり、指揮官のメナヘム・ベギン[のちのイスラエル首相]が犯行声明を発した。

 イスラエル国家は、こうして、旧来の植民地主義者たちの跡継ぎとなり、同じ方式を踏襲した。たとえば、農業に対する公共投資の場合には、灌漑施設の普及の仕方が差別的で、ユダヤ人の土地占有者が組織的に優遇された。一九四八年から一九六九年の間に灌漑された土地の面積は、ユダヤ人地区の場合、二万から一六万四千ヘクタールへと増加したが、アラブ人地区の場合には、八百から四千百ヘクタールに増加しただけであった。このように、植民地主義の仕組みは存続し、むしろ悪化している。ローゼンフェルト博士は、一九七〇年にエルサレムのヘブライ大学から出した著書、『アラブ人の移民労働者』の中で、アラブ人の農業について、イギリスの委任統治時代の方が現在よりも繁栄していたという評価を下してる。

 差別は住宅政策にも同様に表われている。イスラエル人権同盟の議長で、エルサレムのヘブライ大学の教授、イスラエル・シャハク博士の著書、『イスラエル国家の人種主義』によって、われわれは、その具体例を知ることができる。イスラエルには、その町のどの地区であろうとも、非ユダヤ人の居住が法律によって公式に禁止されている町が存在するのである。それは、カルメル、ナザレト、イリト、ハゾル、アラド、ミツフェン=ラメン、その他の町である。

 文化的な水準も、植民地主義者と同程度の精神に支配されている。

《教育省は一九七〇年、高等中学校の“イツコル”[近親者の霊を弔う祈祷]の祈りの文句として、二つの異なる案を示した。その案の一つでは、死の収容所を建てたのは、“悪魔的なドイツ政府と人殺しのドイツ人”となっていた。もう一つ案の方では、“人殺しのドイツ人”として、ひとまとめにされていた。……どちらの案もともに、つぎのように神に訴える一節を含んでいた。……“われわれの目の前で犠牲者の血の復讐を見せたまえ”》(教育文化省『われわれが求める同胞』エルサレム、90)

 このような人種的な憎悪の文化は実を結んでいる。

《カハネ[前出の暗殺された極右シオニスト。本訳書90頁の訳注1参照]に見習って、ジェノサイドの歴史を全身に染み込ませ、あらゆる種類のアラブ人絶滅に向けての戦闘計画を心に描く兵士が、年々、さらに増大していた》。

 このように回想しているのは、軍隊の教授団の責任者だった将校、イェフード・プラヴァーである。

《ジェノサイドが、このように、ユダヤ人の人種主義を正統化する状況は、非常に憂慮すべきである。今後のために不可欠なことは、ジェノサイドの問題を論じるだけでなく、同時に、ファッシズムの増大傾向に関しても、その本質や民主主義に対する危険性について説明することである》。プラヴァーによれば、《非常に多くの兵士が、どのような恥ずべき行動でも、ジェノサイドによって正当化できると信じ始めている》(前出『ベン=グリオンとシェルトック』)

[政治的シオニズムの解決法は植民地主義的計画]

 この難問は、イスラエル国家自体の存在以前に、非常に明確な表現で提起されていた。すでに一九四〇年には、“ユダヤ国民基金”の総裁、ヨセフ・ヴァイツが、つぎのように書いていたのである。

《この国には明らかに二つの民族が一緒に暮らすだけの余地はない。アラブ人が立ち去れば、十分な余地ができるだろう。……彼らをすべて移住させる以外に道はない。一つの町も、一つの部族も、残してはならない。……ローズヴェルトと、その他の友好国の元首たちに対して説明する必要がある。もしも、すべてのアラブ人が出て行けば、そして、北の方はリタニ川まで、東の方はゴラン高原まで、ほんの少し国境線を広げれば、イスラエルの領土は、それほど狭くはない》(テル・アヴィヴ発行『ジュルナル』65)

 イスラエルの第一級の日刊紙『イディオット・アハロノート』(72・7・14)では、ヨラム・ベン・ポラトが、つぎのように激しく、獲得すべき目標への注意を喚起していた。

《イスラエルの指導者たちには、時とともに忘れられがちな事実の数々を、国民に対して明確に、そして勇気を奮って説明する義務がある。一番重要なことは、アラブ人の追放と彼らの土地の徴収なくしては、シオニズムも、植民も、ユダヤ人国家も、成り立ち得ないという事実である》

 われわれは、ここで再び、シオニストの思想体系の最も苛酷な論理に直面しているのである。つまり、どうすれば、パレスチナ生え抜きのアラブ人の共同体が成立している国の中で、ユダヤ人の多数派を形成できるのだろうかという難問である。

 政治的シオニズムは、唯一の解決法を植民地主義的計画に見出した。パレスチナ人を追い出し、ユダヤ人の移民を促進することによって、植民者が増える植民地を実現するという方法である。

 パレスチナ人を追い出して、彼らの土地を奪うのは、熟考の上での組織的かつ系統的な事業なのである。

 バルフォア意志表示の時代、一九一七年には、シオニストが所有していた土地は、わずかの二・五%だった。パレスチナ分割決議の時期には六・五%だった。一九八二年には、九三%が彼らの所有に帰していた。

 生え抜きの住民から土地を奪うために使用された方式は、数ある植民地主義的方式の中でも、最も執念深いものであり、シオニズムの性格を、同様に最も強く特徴づける人種主義の彩り濃いものであった。

 最初の段階には、植民地主義の古典的な特徴としての、現地の労働力からの搾取が見られる。これは、エドゥワァール・ドゥ・ロートシルド[フランスのロスチャイルド家]男爵の手法であった。アルジェリアで、彼は、ブドウ畑を経営し、フェラーの労働力を安く買い叩いて、搾取の限りを尽くした。彼は、遠慮なしにパレスチナでも畑仕事を広げ、ブドウ畑でアルジェリア人とは別のアラブ人から搾取した。

 一九〇五年頃から歴史的な転換期に入った。一九〇五年の革命が押し潰されて以後、ロシアからの新しい移民の波が加わってきた。彼らは、その場に踏み止まって、他の革命的なロシア人とともに闘う代わりに、敗北した革命からの逃亡者となったのだが、パレスチナに奇妙な“シオニストの社会主義”を持ち込んだ。彼らは、パレスチナ人のフェラーを排除しながら、ユダヤ人の労働者と農民の階級に支えられる経済機構を目的とする生産共同組合と農民のキブーツ[訳注1]を創設した。この結果、イギリスまたはフランス型の古典的な植民地主義から、植民者が増加する植民地への転換が進んだ。政治的シオニズムの論理の下で、溢れるように流入する移民“のための”植民政策が行われ、クライン教授の表現を借りれば誰の意にも“反する”ことなく、土地と仕事が用意された。結局は、パレスチナの人々を他の人々によって置き換えることになるのだから、必然的に、パレスチナ人たちは土地を奪われることになった。

訳注1:「キブーツ」の形成に関しては、移住者の主体的条件以前に、つぎに出てくる“ユダヤ国民基金”の土地取得および貸与方針が決定的である。訳者は旧著『湾岸報道に偽りあり』二五二頁以下で、巻末に紹介する『アラブ近現代史』から、「入植したユダヤ教徒の一部は定着できず海外に再流出」、「入植者の不在地主化」、「一九〇九年、シオニスト機構の指導によりキブーツ方式が導入された」などの記述を引用した上で、つまりは「アラブ人に小作をさせる不心得者が出た」事実を重視し、「軍隊の駐屯地型といわれたキブーツ方式で、しばりつける必要があったほど」だと記した。

 本書でも巻末の「訳者解説」に略記したが、シオニスト運動助走期の一八六七年、すでにパレスチナ現地の天然資源を調査し、「数百万人の人口を移住させる可能性」、ただし、「北部」(不法占領地のゴラン高原とレバノン南部)の「豊富な水資源」の「導水」の必要性を報告している。「数百万人」とは、周囲のアラブ諸国と対抗できる国民皆兵国家の存立条件であって、その後に「四百万人から五百万人」と具体化し、現在の人口が約四百万人となっている。この歴史的な事実経過から見ると、一八九七年に結成された世界シオニスト機構(発足当時の名称は「会議」)は、ユダヤ人社会全体からの批判も抱えながら、移住計画の極端な遅延にいらだち、強制力のある手段を工夫したという判定が成り立つ。

 大作戦の開始を告げた事業は、一九〇一年の“ユダヤ国民基金”の創設である。この基金は、他の植民地主義との比較においても、基本的な性格を発揮した。基金が取得した土地は、転売ができず、非ユダヤ人には貸すこともできない。

 この“ユダヤ国民基金”(「ケレン・カイッヤメット」)[永続するブドウ園の意味]には、二つの異なる法律が関係している。一つは、一九五三年一一月二三日に採用された“ユダヤ国民基金”に関する法律である。もう一つは、一九五六年一月一〇日に採用された“ユダヤ建設基金”(「ケレン・ハイェソド」)[ブドウ園の基礎の意味]に関する法律である。

 《この二つの法律は、》とクライン教授は書いている。《いくつかの特権を与えることによって、社会構造の変革を促した》。彼は、それらの特権を列挙せずに、一つの単純な“注意事項”として、“ユダヤ国民基金”の所有に帰した土地を“イスラエルの土地”であると宣言し、これらの土地の譲渡禁止を宣言する基本的な法律ができたのだと説明する。これらの法律は、一九六〇年に採用された四つの“基本法”の一つになっている。“基本法”は将来できる憲法の要素なのだが、イスラエル国家は創建以来五〇年も経ているのに、いまだに憲法を制定できていないのである。残念なことに法学者たちは、細かい条文を気に病む習性の持ち主なのに、この“譲渡禁止”に関しては、まったく何の注釈も加えていない。定義さえもしていない。ユダヤ国民基金によって“救われた”土地(土地の買い戻し)は、一つの“ユダヤの”土地になる。この土地は、“非ユダヤ人”に売ることができず、“非ユダヤ人”に貸すことができず、この土地の上では、“非ユダヤ人”を、働かすことさえできないのである。

 いったい全体、誰が、この基本法の、人種差別的な性格を否定できるというのだろうか?

 イスラエルの指導者たちの農業政策は、アラブ人の田園生活からの、このような組織的系統的略奪の上にのみ成り立ち得ているのである。


(24)イギリス委任統治時代の"緊急事態法"を活用