『偽イスラエル政治神話』(21)

第2章:二〇世紀の諸神話

電網木村書店 Web無料公開 2000.4.7

第3節:"六百万人"の神話/ホロコースト 1

 ナチがユダヤ人に加えた虐待を定義するために、三つの用語が、しきりに使われている。ジェノサイド、ホロコースト、ショア[訳注1]である。

訳注1:ジェノサイドは、ポーランド生れのユダヤ人、法律家、ローズヴェルト大統領の顧問、シオニスト、ニュルンベルグ裁判の企画者の一人、ラファエル・レムキンによる一九四四年の造語。この新造語は、ニュルンベルグ裁判の背後で「ガス室」に関する世論形成に威力を発揮した彼の名の本、『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の支配』によって急速に広まった。ラテン語系のジーヌス[種]とサイド[殺人]を組み合わせているので、いかにも法律用語的な響きがある。巻末資料収録の『ジェノサイドを発明した男』に詳しい。拙著『アウシュヴィッツの争点』でも簡単に紹介した。

 ホロコーストは、普通の英和辞典で「ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に捧げる」儀式の用語などと説明しているが、大型の『オックスフォード英語辞典』(OED)によると、ギリシャ語からラテン語、フランス語を経て英語に加わった単語。いかにも宗教的で厳かな響きがある。

 ショアは、イスラエル国家が公用語にして復活させたヘブライ語。ユダヤ人「絶滅」の特別な恐ろしい響きがある。

 “ジェノサイド”という用語は、語源そのものからして、正確な意味を持っている。一つの人種の絶滅である。ユダヤ人という“人種”が存在するという仮定は、ヒトラーの人種主義の主張そのままなのだが、同じ主張をイスラエルの指導者が支持しているのである。

 だが実際に、戦争の最中に、ユダヤ人の“ジェノサイド”が行われたのだろうか?

 “ジェノサイド”という用語には、あらゆる辞書で、正確な意味が与えられている。『ラルース辞典』[フランスで最も有名な辞書]では、たとえば、こういう定義している。

《ジェノサイド…個々人の絶滅による一民族の組織的破壊》

 このような定義が字義通りに当てはまるのは、ヨシュアによるカナンの征服の場合をおいて他にない。ヨシュアは、あらゆる町の征服に関して、《一人も生き残らせなかった》(たとえば『民数記』21章35節)と語っているのである。

 つまり、ニュルンベルグでは、この用語が、まったく間違った方法で用いられていたことになる。なぜならば、そこでは、この用語が、アモリ人に対して行われたような“聖なる絶滅”や、カナン人やその他に対してヨシュアが行ったような、たとえば、エグロンからヘブロンに至る進軍では、《一人も生き残らせなかった》(『ヨシュア記』10章37節)とか、ハガルに至る進軍では、《人は皆、剣を持って滅ぼし尽くし、息のある者は一人も残さなかった》(同11章14節)と語っているような、すべての成員の全滅を意味してはいなかったからだ。

 反対に、ユダヤ教徒(“人種”としての定義はヒトラー主義の語彙として登場したもの)は、一九四五年以来、世界中で目覚ましい飛躍を遂げた。

[ヒトラーの歴史的犯罪を“ポグロム”に矮小化]

 ユダヤ人は疑いもなく、ヒトラーが好んで選ぶ標的の一つだった。その理由は、“アリアン人種”の優越性に関する彼の人種主義理論、および、共産主義者とユダヤ人とを組織的に同一視する理論にある。ヒトラーは、この混合体に関して、“ユダヤ=ボルシェヴィズム”という用語を創造した。だが、あくまでも、ヒトラーの主要な敵は、共産主義者であった。その証拠となるのは、多数のドイツ人の共産主義者の処刑と、その後の戦争中の“スラヴ”の捕虜に対しての、仮借のない取り扱いである。

 彼は、“国家社会主義”の党を創設して以後、共産主義の一掃だけではなく、すべてのユダヤ人の、まずはドイツからの、続いて彼が支配下に置いた全ヨーロッパからの、追放を考えた。そのやり方は、ますます非人間的になっていった。最初には移民、続いて追放、そして戦争中には、まずはドイツの集中収容所への収監、続いて、最初はマダガスカルに想定された流刑である。流刑の地は、ヨーロッパのユダヤ人のための巨大なゲットーとして設立されるものである。続いて候補に上がったのは占領地の東ヨーロッパであり、とりわけポーランドでは、スラヴ人、ユダヤ人、ロマ人[ジプシー]が、大量に殺された。最初は軍需品製造のための強制労働によって、続いて、恐るべき伝染病の発疹チフスによってであり、その犠牲者の多さは、火葬場の焼却炉の増大によって証明されている。

 これらの政治的および人種主義的な犠牲者に対するヒトラーの仮借ない残虐行為は、どのような結末をもたらしたのであろうか。

 第一次世界大戦での死者は、約五千万人であり、その内の千七百万人はソ連人、九百万人はドイツ人である。ポーランド、その他の占領されたヨーロッパ諸国と同様に、アフリカやアジアからも何百万人もの兵士が、この戦争に動員された。第一次世界大戦の時と同様に、アフリカやアジアの植民地の住民は、ヨーロッパ列強の争いの犠牲者となって、生命という重大な貢ぎ物を捧げたのである。

 ヒトラーの支配は、このように、ある種のプロパガンダが意図的に流布し続けているような、唯一ではないにしても少なくともユダヤ人を中心とする“ポグロム”とは、様相を異にするものであった。それは、人間社会の一つの破局なのだが、不幸なことに、先例がないわけではない。ヒトラーが白人に対して加えた行為は、欧米の植民地主義者たちが、五世紀にもわたって“有色人種”に対して加え続けてきた行為である。アメリカ・インディアンの場合には、同様に武器によるよりも強制労働と疫病によって、その人口、八千万人の内の六千万人が殺された。さらに酷い目に合ったのはアフリカ人である。一千万人から二千万人のアフリカ人がアメリカに運ばれたが、奴隷証人が奴隷を獲得する戦いでは、その十倍の人数を殺したとされている。この“貿易”は、アメリカで一億から二億人を殺した計算になる。

[“ガス室”騒ぎに紛れて列強の犯罪を雲散霧消]

 神話は、皆にとって都合が良かった。《史上最大のジェノサイド》を語ることは、すなわち、欧米の植民地主義者たちにとっては、アメリカ・インディアンの大量殺戮やアフリカの奴隷貿易という彼ら自身の犯罪を忘れさせることであり、スターリンにとっては、自分が行った野蛮な弾圧を消しゴムで抹殺することであった。

 英米の指導者にとっては、一九四五年二月一三日のドレスデン爆撃による大量虐殺の直後のことであった。ドレスデンでは、燐爆弾の炎が、数時間で二〇万人の民間人の命を奪ったのだが、この爆撃には、何らの軍事的な必要性もなかった。ドイツの軍隊は、すでにソ連軍の猛攻を前に壊滅し、すべての東部戦線から敗走しており、一月にはソ連軍がオデル川に達していた。

 アメリカにとっては、さらに、広島と長崎で原子爆弾を投下した直後のことであり、そこでは、《二〇万人以上が殺され、約一五万人が長期にわたって苦しむ傷を負った》(『一九三九~一九四五・知られざる戦争』95)

 目的は、軍事的ではなく、政治的だった。チャーチルは、著書、『第二次世界大戦』(第四巻)の中で、こう書いている。

《日本の運命が原子爆弾で決まったと考えるのは間違っている》

 アメリカの提督、ウィリアム・A・リーヒは、著書、『私は、そこにいた』の中で、つぎのように断言している。

《誓って言うが、この野蛮な兵器の広島と長崎での使用は、日本に対する戦争への重要な助力ではなかった》

 事実、日本の皇帝ヒロヒト[裕仁]は、すでに一九四五年五月二一日から、当時はまだ日本との戦争状態に入っていないソ連を通じて、彼の国の降伏に向けての交渉を始めていた。仲介役は、日本の外務大臣と駐日ソ連大使のマリクだった。

《公爵コノエ[近衛]は、モロトフとの直接交渉を行うために、モウクワに行く準備をしていた》(前出『一九三九~一九四五・知られざる戦争』95)

《ワシントンでは、日本の意図を、誰しもが完全に知り尽くしていた。“マジック”[暗号解読機関]が、日本の外務大臣と、モスクワにいる日本の通信員との間の通信内容を報告していた》(同前)

 だから、追及された目的は軍事的ではなく、政治的だった。アメリカの空軍長官、フィンレターは、原子爆弾を使用した理由について、《ロシアが参戦する以前に日本を“ノック・アウト”するための》手段(『土曜文学批評』94・6・5)として説明し、その使用の政治的な意図を認めている。

 アメリカの海軍提督、リーヒは、前出の著書、『私は、そこにいた』の中で、つぎのような結論を下している。

《原子爆弾を最初に使用することによって、われわれは、中世の野蛮人の道徳水準にまで身を落とした。……この新式の恐怖の兵器を戦争で使用することは、非文明的であり、キリスト教徒には相応しくない現代の野蛮行為である》

 以上の事実から見ると、すべての列強の指導者たちは、本物の“国際裁判所”が中立国の代表によって構成されていたと仮定すれば、ゲーリングおよびその徒党と並んで戦争犯罪者として被告席に着かなければならなかったのである。ところが彼らは、やれ“ガス室”だ、やれ“ジェノサイド”だ、やれ“ホロコースト”だという騒ぎに紛れて、これをもっけの幸いのアリバイに仕立て上げ、彼ら自身が犯した人道に対する犯罪を“正当化”とまではいかずとも、雲散霧消させることに成功してしまったのである。

 アメリカの歴史家、W・F・オルブライトは、アメリカ中東調査研究所の所長でもあったが、その総合的な主著、『石器時代からキリスト教国まで/一神教とその発展』の中で、カナン侵略の際にヨシュアが行った“聖なる絶滅”を証拠立てたのち、つぎのように記している。

《われわれアメリカ人にも、おそらく、……イスラエル人を裁く十分な資格はないだろう。……なぜなら、われわれは、何十万人ものインディアンを、われわれの広大な領土のすべての隅々にまで追い詰めて絶滅し、生き残ったものを巨大な集中収容所に追い込んでいるのだからだ》

[ユダヤ人迫害を特別なものに仕立て上げる意図]

「ホロコースト」という用語は、エリ・ヴィーゼルの本、『夜』(58)が、一九七〇年にドラマ化された際に、その題名として用いられたのであるが、テレヴィ番組の『ホロコースト』の題名となったことによって、にわかに通俗的な普及を見るに至った。このテレヴィ作品が、それまでにも増して明瞭に示したものは、ユダヤ人が耐え忍んだ苦難と、その死には、このように神聖な意味があるのだと主張し、ユダヤ人に対して加えられた犯罪だけを、ナチズムが他の犠牲者に対して犯した虐殺ばかりか、歴史上のあらゆる犯罪よりも、はるかに比較を絶する特別なものに仕立て上げようとする意志の強烈さである。

『ラルース世界辞典』(第2巻、69)は、“ホロコースト”を、つぎのように定義している。

《ユダヤ人が身を捧げた犠牲行為。犠牲者は燃えて完全に消滅する》

 ユダヤ人の殉教は、こうして、他のすべてに代えがたいものとなった。その犠牲的な性格によって、キリスト教の教義におけるイエスの十字架の受難の取り扱いと同様な、神の計画への一体化が行われ、新しい時代の到来を告げる除幕式が執り行なわれる。だから、ユダヤ教の法師は、つぎのように語ることができたのである。

《イスラエル国家の創設は、ホロコーストに対する神の返事である》

「ホロコースト」の聖なる性格を、正当化するためには、「全体の絶滅」と、「前例のない組織的かつ工業的な処刑法」と、「火葬」が必要となる。

 全体の絶滅に関しては、ユダヤ人問題の「最終的解決」が、果たして、「絶滅」を意味していたのか否かの検討が必要となる。

 ところが、ユダヤ人問題の“最終的解決”が、ナチにとって絶滅を意味していたということを証拠立てる書証は、これまでにまったく提出されていないのである。

 ヒトラーの反ユダヤ主義思想は、彼の最初の演説以来、ボルシェヴィズムとの戦いと結び付いていた。彼は、“ユダヤ=ボルシェヴィズム”という表現を常に使用した。彼が建設させた最初の集中収容所は、ドイツの共産主義者を収容するためのものだったが、指導者のテールマンをはじめとして、その内の数千人が死んだ。

 ユダヤ人に関して、彼は、非常に矛盾に満ちた非難を投げ付けていた。ヒトラーによれば、ユダヤ人は何よりもまず、トロッキー、ジノヴィエフ、カメーネフなどのような、ボルシェヴィキ革命運動の最も活動的な役者であった。しかし同時に、ユダヤ人は彼の言によれば、ドイツ民族から最も激しく搾取する資本家なのであった。

 共産主義運動を一掃し、テュートン民族の騎士の手法でドイツ領を東方に拡大する準備が整ったのちには、ソ連を撃滅することが重要課題となった。この時期こそが、彼の時代の最終期の始まりだったのだが、ここで彼の中心的で強迫的な偏見が表面に現われてくる。彼は、権力の座を昇り詰めた勢力の限りを尽くして、ポーランド人やロシア人などのスラヴ人捕虜に対しての残虐さを発揮するのである。彼は、戦争中に、ソ連のゲリラに対抗して、“アインザッツグルッペン”[前出。機動分隊]を編成した。これは、ソ連のパルチザンによるゲリラ活動と戦うために編成され、その政治委員ばかりでなく捕虜をも殺す特別任務を与えられた戦闘単位だった。パルチザンの中には、多数の英雄的なユダヤ人がいたが、仲間のスラヴ人と同様に、彼らも虐殺された。

 この歴史的事実は、“ソ連の反ユダヤ主義”というプロパガンダの限界を証明している。同時にまた、ソ連ではユダヤ人を重要ポストから排除したとか、アインザッツグルッペンの虐殺の対象となった“政治委員”の大多数がユダヤ人であったなどと言い張る説も、やはり成り立たない。なぜならば、もしもユダヤ人が信用できないのであれば、その彼らに、敵の背後で活動するパルチザンを指導するという、逃亡やら対敵協力やらの可能性が最も高い任務の責任を委ねるなどということは、想像もできないからである。

 ドイツおよび、その後にヒトラーが支配権を握ったヨーロッパの多数のユダヤ人に関しての、ナチ党の最も恐ろしい計画の一つは、ドイツに続いてヨーロッパから、ユダヤ人を一掃すること(judenrein)だった。

 ヒトラーは、段階を追って進んだ。

●最初は、「移民」の組織化であった。その条件は、最も裕福なユダヤ人たちからの財産略奪が許されることであった。すでに紹介したように、この計画に“ハアヴァラ”協定の下で効果的に協力したシオニストの指導者たちは、その代わりに、ヒトラーのドイツに対する商品ボイコットを破り、反ファッシズムの運動には加わらないと約束した。

●第二の段階は、「追放」であった。まったく単純に、すべてのユダヤ人を世界規模のゲットーに囲い込む計画が追求された。フランスの降伏後には、マダガスカル島が候補に挙がった。この島がドイツの支配下に入る前に、フランス政府が、フランス国籍の旧島民たちに補償金を支払う予定だった。しかし、この計画は放棄された。フランス側の無言の抵抗もさることながら、さらに重要なことがあった。戦争中のドイツは、この計画の実施に必要なトン数の船舶を供給することができなかった。

●ヒトラーが東ヨーロッパ、とりわけポーランドを占領したことによって、“最終的解決”を達成する可能性が開けた。すべてのユダヤ人をヨーロッパから追い出し、外側の居留地に集団移住させる計画である。そこで彼らは、最悪の苦難を受けることになった。戦争中には普通の民間人も、爆撃を受けたり、食糧不足その他の不自由を強いられたが、ユダヤ人はそれ以上の苦労を味わった。移送のための強行軍は、身体の弱いものには致命的だった。住み慣れた我が家から追い出され、行く手には、ドイツの戦争遂行に協力する非人間的な条件の下での強制労働が待ち受けていた。たとえば、アウシュヴィッツ=ビルケナウには、化学産業、「I・G・ファルベン」の最も活発な中心工場があった。最後には、疫病、とりわけ発疹チフスの流行が、栄養不良で衰弱していた集中収容所の収容者に、恐るべき猛威を振るった。

[なぜ訂正を余儀なくされる危険を冒したのか?]

 ではなぜ、別の説明の方法まで持ち出して、このような取り扱いを受けた犠牲者たちの恐るべき死亡数を際限なく誇張してしまい、のちに訂正して減らすことを余儀なくされる危険を冒す必要があったのだろうか?

 ……訂正を余儀なくされた実例を見てみよう。

●アウシュヴィッツ=ビルケナウ複合集中収容所の、ビルケナウ側に設置されている記念碑の死者の数字は、四〇〇万人から一〇〇万人[ママ。理由は前述]に減少。

●ダッハウの・ガス室・の掲示では、まだ機能していなかったと明示する変更がなされた。

●パリの・冬季自転車競技場・の記念碑の場合、囲い込まれていたユダヤ人の数について、すでに撤去された古い記念碑の記載、三万人が、八一六〇人に訂正された(『ル・モンド』90・7・18)。

 これは、葬式の会計の帳尻合わせ並みの問題ではない。

 一人の無実の人を殺せば、その人がユダヤ人であろうと、「ユダヤ人でなかろう」と、それだけでも人道に対する犯罪を構成する。しかし、もしも犠牲者の数が、この点に関して、何の意味もないのだとしたら、なぜ、半世紀以上にもわたって六〇〇万人という予言的な数字が付きまとっているのだろうか?

「ユダヤ人ではない」カチンの森の犠牲者や、ドレスデン、広島、長崎の死者の数字については、誰も、ふれてはならないなどと言わず、それらについての「黄金に刻まれた数字」などは存在しない。それとは反対に、なぜ、「六〇〇万人」という数字だけが神聖化されているのだろうか?

 その犠牲者たちが受けた苦難の不当さを否定するものは誰もいないが、実際には、個別のケースの数字は、これまでに何度も訂正され、減少しているのである。

 アウシュヴィッツ=ビルケナウという一つの収容所の例だけを見てみよう。

●九〇〇万人というのが、一九五五年に、他の点では非常に巧みで痛ましいアラン・レネ監督の記録映画、『夜と霧』の中で語られた数字である。

●八〇〇万人というのが、一九四五年にフランス政府出版局が発行した『戦争の歴史作成のための記録/集中収容所』による数字である。

●四〇〇万人というのが、ソ連の報告による数字である。この数字には、ニュルンベルグ裁判所で、《同盟国政府の公式の記録や報告は、「真正な証拠」として認める》と規定した同裁判所規則21条の効能によって、真正な証拠という価値が与えられた。同じく、この21条は、つぎのようにも宣言していた。《当裁判所は、「周知の事実」に関しては証拠を要求せず、それらをすでに確認されたものとして扱う》

●二〇〇万人というのが、歴史家のレオン・ポリアコフが、その著書、『憎悪の日読祈祷書』(74)の中で発表した数字である。

●一二五万人というのが、歴史家のラウル・ヒルバーグが、その著書、『ヨーロッパのユダヤ人の破壊』(85)[前出]の中で発表した数字である。

 ところで、この問題に関しては、見直し論者による批判の圧力の下で、すべての分野の出身の学者たちが、長期にわたる歴史的な研究を続けてきた。CNRS[国立科学研究所]の「現代史」研究所の理事、フランソワ・ベダリダ氏は、それらの業績を「アウシュヴィッツの犠牲者数の見積もり」と題する論文にまとめて、『ル・モンド』(90・7・23)紙上で公表した。その論文には、つぎのように記されている。

《集団的な記憶を支配していた四〇〇万人という数字は、もともと、ソ連の報告を証拠とするものだったが、最近まで、ナチズムの犠牲者の記憶を止めるために建てられたアウシュヴィッツの記念碑に刻まれていた。その間、エルサレムではヤド・ヴァシェム博物館が、この数字について、実際以上に非常に高い合計数字だと示唆していた。

 ところで、戦争が終了して以後、記録の調査作業は続行された。辛抱強い綿密な調査の結果、四〇〇万人という数字には、何らの検討に値する根拠もなくて、支持し得ないものであることが判明した。

 裁判所は、政治的絶滅が六〇〇万人のユダヤ人の死をもたらし、その内の四〇〇万人が収容所で死んだとするアイヒマンの肯定を頼りにして、そこに止まっている。現在のところでは、最新の業績と最も信頼に足る統計に関する報告の例としては、ラウル・ヒルバーグの著書、『ヨーロッパのユダヤ人の破壊』(88)があり、そこでは、アウシュヴィッツでの死者の数を一〇〇万人としている。この数字は、専門家の集団作業による合計数であり、彼らが認める犠牲者の数は、最小限九五万人、最大限一二〇万人の間を揺れ動いている》


(22)第3節‐2