第2章:二〇世紀の諸神話
電網木村書店 Web無料公開 2000.4.7
第3節:"六百万人"の神話/ホロコースト 2
[六百万マイナス三百万は六百万という奇妙な算術]
アウシュヴィッツ=ビルケナウの犠牲者の数が、公式に、四〇〇万人から一〇〇万人に減らされた以上、ユダヤ人全体についての絶滅の数字として、六〇〇万人[原注1]使い続けることは不可能なのだが、不思議なことに、それが繰り返され続けている。六百万マイナス三百万は六百万という奇妙な算術が、まかり通っているのである。
原注1:アメリカ・ユダヤ人出版協会がフィラデルフィアで発行した『アメリカ・ユダヤ年鑑』の一九四二年版によると、ナチの支配圏が最大限度に広がり、ロシアまで達していた一九四一年現在、ドイツに残っていたユダヤ人をも含めて、ドイツの支配下にあったユダヤ人の総数は、三一一万と七二二人(!)だった。それなのに、どうやって、六〇〇万人の絶滅ができたというのだろうか?
以上の一連の見積もりは、アウシュヴィッツ=ビルケナウという一つの集中収容所に関する数字だった。同じ性質の論証が、他の集中収容所に関しても可能なのである。
たとえば、マイダネクでの死者の数は、どうなっているのだろうか?
●一五〇万人というのが、ルシー・ダヴィドヴィッツの著書『ユダヤ人に対する戦争』(87)に出てくる数字である。
●三〇万人というのが、リー・ロッシュとエバハルト・ジャケルの共著、『死神を唯一の主人にした第三帝国』(91)に出てくる数字である。
●五万人というのが、ラウル・ヒルバーグの『ヨーロッパのユダヤ人の破壊』(前出、85)に出てくる数字である。
さて、ここで、こういう質問が出てくる。この議論は、ドイツのネオナチ、またはフランスの似たような極右集団のプロバガンダに奉仕して、つぎのような論法を許すことになるはしないだろうか?
《ユダヤ人の犠牲者の数に関する問題で嘘を付いたというのなら、ヒトラーの犯罪の全体像を誇張しなかったと、なぜ言えるのだろうか?》
ナチの恐るべき犯罪の過少評価に対しては、信心深さに依存する嘘によって戦うのではなくて、むしろ、野蛮行為に対する最善の告発者である真実によって戦うべきなのだ。
[“処刑用建物”から“巡回ガス室”までの怪情報]
ユダヤ人の殺し方に関して、以下のような様々な怪しげな情報が乱れ飛んでいたことも、同様に、疑問の種である。
●『ニューヨーク・タイムズ』紙の一九四二年六月三日号には、“処刑用の建物”があって、そこで一日に千人のユダヤ人が銃殺されているという話が載っていた。
●同紙の一九四三年二月七日号には、占領されたポーランドに“毒殺用の停車場”があるという話が載っていた。
●シュテファン・シュツェンデは、一九四五年一二月に出した本、『ポーランドの最後のユダヤ人』の中で、ユダヤ人を巨大な水泳用プールに連れ込み、そこで処刑を目前に控える緊張度の高い状態に置いた。彼の結論は、つぎのようになっている。
《百万単位の人々を処刑する問題は、これで解決した》
●一九四五年一二月一四日付けのニュルンベルグ裁判の口頭弁論記録の一つには、“熱い蒸気の部屋”で犠牲者が熱湯を注がれたという話が残っている。
●一九四六年二月、つまり前項の一か月半後のニュルンベルグ裁判の口頭弁論記録の一つでは、“熱い蒸気の部屋”を、“ガス室”に変更している。
同じく一九四六年には、ジモン・ヴィゼンタールが、処刑用の部屋に一つの改訂版を付け加えた。その部屋には、殺されたユダヤ人の脂肪を集めるための溝が掘られているというのである。脂肪は、石鹸を製造する原料になる。石鹸の固まりには、RJF(純粋のユダヤ人の脂肪)という文字が刻まれているという、すでに紹介した話である。
一九五九年には、のちのノーヴェル[平和]賞受賞作家、エリ・ヴィーゼルが自伝的長編小説、『夜』を発表した。この小説には、“ガス室”の存在を仄めかす記述がまったくないのだが、ドイツのウルシュタイン社から出たドイツ語版では“火葬場”という単語が、“ガス室”と訳されている。
その他の改訂版もある。ポーランド人のイアン・カルスキーが書いた『秘密の国の物語』のフランス語版訳題は『世界に対する証言』となっているが、この本には、貨車の中で熱湯を注がれて殺されるという話が出てくる。
しかし、二つの例が、テレヴィ、新聞、教科書の媒介によって、最も広く普及した。すなわち、一つは、チクロンBを使って処刑する“ガス室”であり、もう一つは、ディーゼル・エンジンの排気ガスで殺す装置を付けたトラックの“巡回ガス室”である。
少なくとも、つぎのことが言えるだろう。この場合にもまた、ヒトラーの礼讃者のプロパガンダと間違えないように注意してほしい。少なくとも残念に思ってほしいのだが、戦争犯罪を追及して裁くという任務を負ったはずのニュルンベルグ裁判所においても、またはその他の裁判所においても、一体全体、何が凶器だったのかを最終的に決定するために専門的な鑑定をせよという命令が、まったく下されていなかったのである。
[次から次へと覆り続けるニュルンベルグの判決]
もう一つの嘆かわしい実例は、ダッハウ集中収容所である。ニュルンベルグ裁判所の法廷では、ナチの残虐行為に関する記録フィルムが上映されたのだが、“ガス室”として示された部屋は一つだけだった。その部屋はダッハウにあった。ダッハウは、観光客や、学校の生徒の見学などの訪問予定に組み込まれている。現在では控え目な掲示に、“ガス室”は完成していなかったので、ここではガスで殺された人はいないと記されている。
ダッハウへの訪問者や、巡礼は、ガス殺人が行われたのは、戦前のドイツの領土以外の東側だったという説明を受けている。
一九六〇年八月に、「ミュンヘン現代史研究所」の所員、マーティン・ブロシャットが、『ディー・ツァイト』(60・8・19)紙上で発表した声明では、つぎのように認めていた。
《ダッハウでも、ベルゲン=ベルゼンでも、ブッフェンヴァルトでも、ユダヤ人その他の収容者がガスで殺されてはいない。[原注1]……ガスによるユダヤ人の大量絶滅が始まったのは一九四一年から一九四二年であり、……(旧ドイツ帝国の領土内ではなくて)占領下のポーランドの、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、ベウツェックにおいてである》
原注1:このようにマーティン・ブロシャット氏は、何度となく、この集中収容所の中での“ガス殺人”の存在を基礎とするニュルンベルグの“決定”に、まったく反する声明を発しながらも、一九七二年に、ミュンヘン現代史研究所の所長に就任した。このブロシャット氏の自認の声明は、この集中収容所の中のガス室の存在を“証言”していた数多い“目撃証人”や、訪問者に最も強烈な印象を与えるように“再現”が演出されたダッハウの“ガス室”という証拠物件よりも、それだけ一層の重要性があったことになる。
ニュルンベルグ裁判所では、ハーレイ・シャウクロス卿が、一九四六年七月二六日に、つぎのような陳述をしていた。
《ガス室は、アウシュヴィッツだけでなく、トレブリンカにもあったし、同様に、ダッハウにもあった。……》(ニュルンベルグ裁判記録)
ところで、これらの西側の集中収容所に関しても、東側の集中収容所に関しての場合と同様に、“ガス殺人”を目撃した“証人”が、それなりの数はいたのである
ヒトラーの名誉回復に熱心な連中のすべてに都合の良い主張の材料を与える気はないが、こういう質問も成り立つ。たとえば、なぜ人々は、西側の集中収容所に関しての“目撃証人”の物語の方を否定しながら、東側の集中収容所の生き残りの物語の方は支持するのだろうか?
こういう現状では、ユダヤ人やその他のナチの支配への反対者に関しての、処刑や、苦痛や、殺害という、疑いの余地のない事実に対してまでも、疑わしいという主張を許すことになりかねない。たとえば、ドイツの共産主義者たちは、一九三三年のヒトラー政権成立以来の最初からの犠牲者であって、初期の集中収容所は、彼らを収容するために創設されたのである。
その他にも、戦争中の無差別爆撃が民間人を襲った。奴隷同然の強制労働もあった。非人間的な条件の下での移送に伴って、道端にも無数の死体が遺棄された。最も野蛮な栄養失調状態の下で、悪質な伝染性の発疹チフスが流行した。このような悲劇の仕上げとしては、残虐な反ユダヤ主義者のナチによるユダヤ人虐殺を証明するための地獄の炎が、どうしても必要なのだろうか?
[火による絶滅の教義を確立するための“ガス室”]
なぜ、万難を排してでも、“ホロコースト”(火による犠牲的な絶滅)の特別な性格を維持するために、“ガス室”という怪物で煽る必要が生ずるのだろうか?
一九八〇年になって初めて、著名なジャーナリストのボアズ・エヴロンが、ユダヤ人の虐殺における独特の性格に、疑問を投げ掛けた。
《……重要な客人たちは、当然のこととして、……義務的に、ヤド・ヴァシェム博物館に連れて行かれる。……そこで同情し、自分自身にも罪があるのだという意識を抱き、理解を深めるように期待されている》
世間と、その法秩序との関係について、妄想的な孤独感を抱くようになると、ある種のユダヤ人は、非ユダヤ人を劣等な人間として取り扱うようになり、結果として、ナチの人種主義と良い勝負になる。エヴロンは、アラブ人の敵意をナチの反ユダヤ主義と混同する傾向に、警告を発している。 とエヴロンは指摘している。
《その結果、政府の活動は、自分たち自身が作り出した神話と怪物が、我が物顔に徘徊する社会の真っ直中で行われることになるのだ》(ボアズ・エヴロン『ジェノサイド/民族の危機』80)
まず最初の問題は、何百万人もの疑いもなく善意の人々が“火葬場の焼却炉”を、“ガス室”と混同する点にある。だが、ヒトラー時代の集中収容所に相当数の火葬場の焼却炉があったのは、発疹チフスの流行を食い止めるためだった。だから、火葬場の焼却炉だけでは、[ユダヤ人を絶滅するための収容所という主張の]論拠としては不十分である。火葬場の焼却炉は、すべての大都市にある。パリのペール・ラシェーズにも、ロンドンにも、主要な国の首都なら、どこにでもあるのだが、そこでの死体焼却は明らかに、住民を絶滅する意図から発するものではない。
火による絶滅という教義を確立するためには、火葬場の焼却炉に、“ガス室”を付け足す必要があった。
だが最初に、“ガス室”の存在を証明する基本として必要なのは、この措置について記した命令文書の提出である。ところが、そのすべてをヒトラーの敗北以後に同盟国軍が押収し、ドイツ当局が細心の努力を払って整理した文書の中には、この計画に充てる予算書もまったくなかったし、・ガス室・の建造や、その機能に関する命令書もまったくなかった。ただの一語といえども、普通の裁判なら当然の取り調べの対象となる“凶器”の専門的な鑑定に必要な唯一の単語すら、まったく発見できなかった。それらは、これまでの裁判の法廷で、一度たりとも提出されたことはないのである。
さらに驚くべきことには、旧ドイツ帝国の領土内ではガス殺人が行われなかったという公式の認定が、それまでの無数の“目撃証言”による立証にもかかわらず下ったのちにも、東側、とりわけポーランドの集中収容所に関しては、証言の主観性についての同様の基準が承認されていないのである。最早、それらの“証言”の疑わしさは、歴然としているのに、いまだに、この状態なのである。
ダッハウ博物館の演出は、人の目を欺くものである。無数の子供たちが、ホロコーストの教義を吹き込まれるために、そこに連れて来られるが、だまされるのは子供たちだけではない。聖ドミニク宗派のモレリ神父のような大人も、その著書『悲嘆の地』(47)の中で、こう書いている。
《ナチの殺人者たちが、ガスで殺される不幸な人々の有様を同じようにして眺めた陰惨な覗き窓を前にして、私の両の目は、あまりの恐ろしさに凍り付いてしまった》
[“ガス室”の知識の出所は戦後の“特集読み物”]
ブッフェンヴァルトやダッハウの元収容者たちでさえも、このように念を入れて物語られる伝説によって、暗示を与えられてしまう。フランスの第一級の歴史家で、カン市分科大学の名誉学長であり、元収容者としてマウトハウゼン研究所のメンバーに加わっているミシェル・ドゥ・ブアールは、一九八六年に、つぎのように言明した。
《一九五四年に……提出したマウトハウゼンに関する専攻論文で、私は、二度にわたってガス室のことを書いた。その後に思い返す機会があって、私は、自分に問い直した。私は、どこで、マウトハウゼンのガス室についての確信を得たのだろうか? それは、私が、あの集中収容所で暮らしていた時期ではない。なぜなら、そのころは私自身も、その他の誰であろうとも、そんなものがあり得るなどとは想像さえしていなかったからである。だから、その知識の出所は、私が戦後に読んだ“特集読み物”だと認めざるを得ないのである。そこで、自分の論文を点検してみると、……私は、常に自分の確信の大部分を引用文献から得ているのだが、……そこにはガス室に関係する引用文献が明記されてなかったのである》(『西部フランス』86・8・2&3)
ジャン・ガブリエル・コン=ベンディトは、すでに、こう書いていた。
《なかったことがすでに分かっているのに観光客に見せている集中収容所のガス室を破壊するために戦おう。そうしなければ、確かなことさえ信じられなくなってしまうだろう》(『リベラシオン』79・3・5)
ニュルンベルグ裁判所の法廷で、すべての被告を観客として上映された記録フィルムの中で、ガス室として示された唯一の部屋は、ダッハウのものだった。
一九六〇年八月二六日、ブロシャット氏は、シオニストの出店、ミュンヘン現代史研究所の名において、『ディー・ツァイト』紙上に、つぎのように記した。
《ダッハウの“ガス室”は完成しておらず、機能していなかった》
一九七三年の夏から、ダッハウのシャワールームの前の掲示板には、
という書き出しで、ガス室による処刑が決定された収容者は東部に移送されたという説明が付け加えられている。しかし、写真によって大量絶滅の現場の一つとしてニュルンベルグの被告に示されたのは、ダッハウの“ガス室”だけだったのであり、ゲーリングとシュトラヒャーを除く被告は、それを信じたのである。