第1章 神学的な諸神話
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第3節 ヨシュアの神話:民族浄化
《ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、ラキシからエグロンに進んだ。エホバはラキシをイスラエルの手に渡された。彼らはこれを取り、つるぎをもって、これを切り進み、その中のすべての人をことごとく撃ち滅し、ひとりもその中に残さなかった。……ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、エグロンからヘブロンに進み上った》(『ヨシュア記』10章34節)
政治的シオニズムの統一主義者の読み方
●一九四八年四月九日、メナヘム・ベギンと、彼が指揮するイルグンの部隊が、デイル・ヤシンの町の男、女、子供を含む二五四人の住民を虐殺した。
私がこの節で、この時代遅れな歴史上の神話と、その“歴史のすりかえ作業”とを、政策を正当化するための口実として検討するのは、ある特殊な事例、すなわち、聖書の物語を道具に使う事例に関してだけである。なぜかといえば、この事例が、これまでの歴史における最も血なまぐさい陰謀を覆い隠すことによって、西洋の未来に対して決定的な役割を果たし続けているからである。歴史的な経過を振り返ると、ローマ人以後、キリスト教徒が続き、十字軍に至るまでのユダヤ人の迫害から、宗教裁判、神聖同盟、“選ばれた民”を先兵として使った植民地支配を経て、イスラエル国家の強請に至った。その後には、中東への政治的拡張政策に止まらず、ロビーの圧力が用いられるようになり、その最も強力なロビーを駆使する“列強の中の最強国”、アメリカが、世界支配と軍事的侵略のための自国の政策を最高の計画として、これらの歴史的経験のすべてを上回る最も血なまぐさい陰謀の主役を演ずるに至ったのである。
以上の理由にもとづいて、私は、この節の主題を選んだ。過去の神話の悪用は、未来を、この惑星に育まれた人類すべての自殺の舞台に変え兼ねないからである。
[伝統的な権威の高い全能の神の幻影への復帰]
聖書には、この他にも、“戦いの神”の命令に従って行われた虐殺の物語が、偉大な予言者のアモス、エゼキエル、イザヤ、ヨブから、ダニエルとの“新しい契約”のお告げに至るまでの物語として含まれている。
この新しい契約(または新約聖書)は、同時に、歴史における神と人間との重大な入れ替わりを象徴する点で、イエスの昇天と同様であって、東方教会の神父は、
と説いていた。その後、聖パウロとともに、伝統的な権威の高い全能の神の幻影への復帰が行われ、外部の高い位置から、ユダヤ教の“王”によってではなくて、これまた外部から人間の責任負担能力を破壊するキリスト教の“神意”によって、人間とその共同体の暮らし方が指導されるようになった。《あなたたちが救われたのは神意によってである。あなたたちが何かをしたからではない。それは、神の贈物なのである》(『エペソ書』2章8節)
[『トーラ』(『モーゼの五書』と歴史的文書)]
ここで取り扱うのは、聖書一般ではなくて、イスラエルの神権的な支配とシオニズム運動を鼓吹するための口実として、今の今、使われている部分のみである。ユダヤ教の教典、『トーラ』は、キリスト教徒が『モーゼの五書』と呼ぶ主要な五書、『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』と、それに付属する“歴史的文書”という呼び名の『ヨシュア記』『士師記』『列王紀』『サムエル記』によって構成されている。ユダヤ教は『トーラ』から、「予言者」がつねに注意を喚起していた偉大な教訓、つまり、“神と人間の契約”は条件付きで普遍救済的なものであり、神聖な法を順守し、すべての民族と人間に向けて門戸を開くことによって成り立つものだという教訓を、取り除いてはいない。
[聖書の物語の史実性を検証する資料はない]
『トーラ』(『モーゼの五書』)と、それに付属する“歴史的文書”は、一世紀以上にわたる聖書解釈者の検証が明らかにしたように、口伝えの伝承を文字に記録して編纂したのである。その元になる伝承は、前九世紀の年代記作者らと、ダヴィデの征服と帝国建設を正当化し、さらには誇張しなければならないという主要な先入観念に駆られたソロモン時代の法学者らが作ったものである。しかし、ダヴィデの業績に関しては、聖書の物語以外に、何らの歴史的検証の材料も、何らの考古学的痕跡も、何らの別途の記録もない。外部の歴史から確認できる最初のできごとは、ソロモンに関するもので、アッシリアの古文書にその痕跡が残されている。
それ以前に関しては、聖書の物語の史実性を検証する外部資料は全くない。たとえば、イラクのウルの考古学的遺跡は、アブラハムに関して何の情報も提供してくれない。その状態は、あたかも、トロイの遺跡の発掘が、ヘクトルやプリアムについて何も物語らないのと同様である。
[“神聖な絶滅”の神話を繰り返す連祷]
『民数記』(31章7~18節)では、ミデアン人に対する勝利者、“イスラエルの息子たち”の手柄を物語っている。
《主がモーゼに命じられたように、その男子をみな殺した》《女を捕虜にした》《すべての村を火で焼いた》。彼らがモーゼの下に戻った時には、《モーゼは怒り、何ごとか、と彼らに言った。あなたがたは女たちをみな生かしておいたのか……! それで今、この子供たちの内の男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。……ただし、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい》(同14~18節)
モーゼの継承者、ヨシュアは、カナンの征服で、この軍勢の神の命令による“民族浄化”政策の組織的な方法を継続した。
《その日ヨシュアはマッケダを取り、つるぎをもって、それと、その王とを撃ち、その中のすべての人を、ことごとく滅ぼして、ひとりも残さず、エリコの王にしたように、マッケダの王にもした。
こうしてヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、マッケダからリブナに進み、リブナを攻めて戦った。主が、それと、その王をも、イスラエルの手に渡されたので、つるぎをもって、それと、その中のすべての人を撃ち滅ぼして、ひとりもその中に残さず、エリコの王にしたように、その王にもした。
ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、リブナからラキシに進み、これに向かって陣をしき、攻め戦った。主がラキシをイスラエルの手に渡されたので、ふつか目にこれを取り、つるぎをもって、それと、その中のすべての人を撃ち滅ぼした。すべてリブナにしたとおりだった。その時、ゲゼルの王ホラムが、ラキシを助けるために上ってきたので、ヨシュアは彼と、その民とを撃ち滅ぼして、ついにひとりも残さなかった。
ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、ラキシからエグロンに進み、これに向かって陣をしき、攻め戦った。その日これを取り、つるぎをもって、これを撃ち、その中のすべての人を、ことごとくその日に滅ぼした。すべてラキシにしたとおりであった。ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、エグロンからヘブロンに進んだ》(『ヨシュア記』10章28~36章)
この長々と同じ文句を繰り返す連祷は、西ヨルダン[現パレスチナ]を貫く“神聖な絶滅”を数え上げながら続く。この物語りに対しては、二つの基本的な疑問を提出しなければならない。
1、歴史的な真相。
2、絶滅政策の称揚の文字通りの模倣がもたらした結果。
(a)第1点[歴史的な真相]に関して
以上の物語は、考古学的研究の成果と矛盾する。
発掘の結果が示すところでは、イスラエル人が到着したはずの前一三世紀の終りには、エリコを取ることはできなかった。なぜなら当時のエリコには住民がいなかったからだ。中期青銅時代の町が前一五五〇年以前に破壊され、以後は放棄されていた。前一四世紀に再び、まばらな定住があった。この時代の陶器が発見された中期青銅時代の墓は再使用されていた。一軒の家が発見され、その中には前一四世紀の中頃の小さな水差しがあった。前一三世紀に割り当てられるものは、何もない。後期青銅時代の築城の痕跡はまったくない。
ミス・K・M・ケニヨンの結論によれば、エリコの破壊を前一三世紀の終りに現われたというイスラエル人に結び付けることは、不可能である(『エリコを掘る』ほか)。
アイを取った件についても同様である。
《すべての征服の物語りの中で、これがもっとも詳しい。奇跡的な要素がまるでないので、もっとも事実らしく見える。ところが、不幸なことに考古学によって裏切られる。
この地点は、二つの異なる調査団によって発掘された。結果は完全に一致した。廃墟の山は、前期青銅時代の名前の分からない大きな町で、前期青銅時代三期の間、前二四〇〇年以前に破壊されている。前一二〇〇年以後に至るまでは放棄されており、その頃に砦のない貧しい村が廃墟の部分の上にできた。この町は、遅くとも、前一〇世紀のはじめまでしか続かなかった。その後は、この地点は完全に放棄された。イスラエルが現われたという当時には、アイの町はなかったし、アイの王もいなかったし、そこには前一二〇〇年からの古い廃墟があっただけだ》(『古代イスラエルの歴史』&『アイの発掘』)
(b)第2点[絶滅政策の称揚の結果]に関して
それはさておき、敬虔な統一主義者(ここでは、聖書の文字通りの読み方に固執する信者の意味)のユダヤ教徒にとって、モーゼやヨシュアのように魅力的な人物の模範に、従うことを妨げる理由があるだろうか?
『民数記』では、パレスチナ(カナン)の征服のはじまりを、
と語り、ついでアモリとその王についても、 と語っているではないか。『申命記』でも繰り返し、土地の強奪と原住民の放逐ばかりか、虐殺までをも強要している。以上の説話は、シャロンから法師のメイヤ・カハネ[訳注]に至るまでのシオニストの、パレスチナに対しての振舞い方の予測像そのものである。
訳注:カハネは、シオニスト本流の最悪の極右。アメリカ生れでイスラエルと二重国籍。人種主義を公然と標榜し、アラブ人と黒人を敵視、差別、武力襲撃し、白人優越主義のFBIやCIAにも密通する極右テロ集団JDL(ユダヤ防衛連盟)の共同創設者。アメリカ国内での人種差別反対運動の前進を背景としたFBIによる刑事告発への動きを目前にして、一九七一年、イスラエルに移住。アラブ人への暴力的襲撃の指導者として一定の狂信的支持者を増やし、カハ党を形成、一九八四年にクネセト(国会)の議席を得た。リクード党などの伝統的な極右シオニストは最初、カハネを斬り込み隊長として歓迎し、利用したが、四年後の一九八八年の総選挙を前にして、カハ党の議席が三ないし六議席に飛躍する可能性ありとの世論調査結果が出たため、キャスティングボードを握られる恐れが表面化した。クネセト中央選挙委員会は、カハ党を「人種差別的、反民主主義」と判定して立候補を禁止、最高裁も、この決定を全員一致で支持、議席は消滅した。カハネは湾岸危機の最中、一九九〇年十一月五日、ニューヨークで暗殺されたが、その後も、カハ党の非合法な活動は続き、むしろ、より悪質化し、暴力的に燃え盛っている。
ヨシュアの戦法は、非武装のアラブ人をテロで脅して追い払うために、“イルグン”部隊を率いて、一九四八年四月九日にデイル・ヤシンの町で、男、女、子供を虐殺した時の、メナヘム・ベギンの戦法そのものではないか?(メナヘム・ベギンの自著『反乱・イルグンの歴史』)
ベギンは、ユダヤ人に、
と呼び掛けたのである。ヨシュアのやり方は、
というモシェ・ダヤン[元国防相]の指示そのものではないのか?ヨシュアのやり方は、ヨラム・ベン・ポラトがイスラエルの大手日刊紙、『イディオット・アハロノート』(72・7・14)に寄せた
という定義そのものではないのか?[インティファーダの石を投げる者の骨を砕け!]
土地を取り上げる方法に関しての決定版は、ラビンが占領地の将軍だった時に発した命令、
、である。これらはイスラエルの『タルムード』教育の反作用なのだろうか? サブラとシャティラの虐殺[レバノン侵略で起きた事件]の直接の責任者の一人を権力の座に押し上げるに当たって、ラファエル・エイタン将軍は、
を要求したのである。同じ確信に励まされて、アメリカから来た植民者でキリヤット・アルバ(ヨルダンの西側)に住む医師、バルーフ・ゴールドスタインは、族長の墓所で祈りを捧げていたパレスチナ人を自動小銃で掃射し、二七名を殺し、五〇名を傷つけた。バルーフ・ゴールドスタインは、アリエル・シャロンを名付け親とする統一主義者の集団の一員だった。シャロンは、彼の庇護下にサブラとシャティラの虐殺が犯されたにもかかわらず、その犯罪への報奨として昇進を受け、占領地内の“入植地”を発展させる任務を持つ住宅建設大臣となった。現在、バルーフ・ゴールドスタインは、統一主義者たちの本物の崇拝の対象となっている。統一主義者たちは、彼の墓に花を捧げ、接吻をする。なぜなら、彼は、土地を奪うためにカナン人を皆殺しにしたヨシュアの伝統に対して、厳密な忠実さを守ったからである。
[選ばれた民族を汚れから守るアパルトヘイト]
この“人種浄化”は、現在のイスラエル国家で組織化されているが、すべての他の・不純な血・とユダヤ人の血との混交を妨げる人種的な純血の原理から発したものである。
イスラエルの手に渡した住民の絶滅を神が命ずるくだりに続いて、主はモーゼに、彼の民を、それらの住民の娘と結婚させるなと勧告している(『出エジプト記』34章16節)。
『申命記』では、“選ばれた”(7章6節)民族は、他と混交すべきではないとし、
としている。この「アパルトヘイト」は、神によって選ばれた人種と、その人種を神に縛りつける信仰とを、汚れから守る唯一の方法なのだ。
この「他者」との隔離は、法として残った。コーヘン法師は、彼の著書『タルムード』[前出]の中で、こう記している。
《世界の住民は全体としてイスラエル人とその他の国民に分けることができる。イスラエル人は選ばれた民である。……根本的教義》
バビロンの捕囚から戻ったエズラとネヘミヤは、このアパルトヘイトを再建するために、監視をする。エズラは、
ことを嘆く。……ピンハスは混交した一組の男女を串刺しの刑に処す。……エズラは、人種的な選別と の追放を命令し、その を送り返した。ネヘミヤはユダヤ人に語る。《わたしは彼らを清めて、異邦のものをことごとく捨てさせた》(『ネヘミヤ記』13章30節)
この混交恐怖症と他者の拒否には人種問題の域を越えたものがある。雑婚による他者との血の交わりを拒絶するならば、宗教も、文化も、生き方も、拒絶することになる。
このようにエホバは、彼が説く真理、すなわち、当然のことながら唯一の可能な真理から離れるものに対して激怒する。ソフォニは、異国の衣服を着ることに異議を唱える。ネヘミヤは、異国の言葉に反対する。
《わたしはアシドド、アンモン、モアブの女をめとったユダヤ人を見た。彼らの子供の半分はアシドド、または、おのおのその母親の出た民の言葉を語って、ユダヤの言葉を語ることができなかった。わたしは彼らを責め、またののしり、その内の数人をたたいて、その毛を抜いた。……》(『ネヘミヤ記』13章23~25節)
違反する者は厳しく裁かれた。イサクの妻でヤコブの母親のリベカは、こう断言する。
《わたしはヘテびとの娘のことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブがこの地の、あの娘どものようなヘテびとの娘を妻にめとるのなら、わたしは生きていて、何になりましょう?》(『創世記』27章46節)
サムソンの両親は、彼らの息子がペリシテ人の娘と結婚したことに激怒し、こう叫ぶ。
《あなたが割礼を受けないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのは、身内の娘たちのうちに、あるいはわたしたちのすべての民のうちに女がないためなのですか?》(『士師記』14章3節)
[“人種法”に異議を唱えなかったシオニスト]
イスラエルの最高裁判事だったハイム・コーヘンは、以下のように確認する。
《不幸なことに、ナチスが宣伝し、あの汚辱にまみれたニュルンベルグ法を生み出した生物学的な人種差別主義の教義が、イスラエル国家の体内の「ユダヤ主義」の基礎として奉仕するという、運命の苦い皮肉を味わっている》(『イスラエル国家の基本法』)
実は、ニュルンベルグの戦争犯罪裁判の過程で、人種問題の・理論家・として出廷したユリウス・シュトライヒャーに対して、この質問が投げ掛けられていた。
《一九三五年にニュルンベルグで開かれた党大会で、“人種法”が発布された。この法律の立案過程で、あなたは相談を受けたり、法律の仕上げに関して何らかの形で協力したか?
シュトライヒャー被告……はい。私が協力を求められたのは、その何年も前から、ドイツ人とユダヤ人の混血を将来、すべて防止すべきだと書いていたからだと思う。私は、そう考えて論文を書き、つねにユダヤ人種を、またはユダヤ民族を、模範として見習うべきだと繰り返していた。私が、論文の中でつねに繰り返して主張したのは、ユダヤ人は、他人種が見習うべき模範として考慮されてしかるべきだというだった。なぜなら、彼らは人種法を定めたからである。それはモーゼの法である。彼は、こう語っている。〈あなたがたは異国に行った時、異国の娘をめとってはならない〉。このことは、皆さん、ニュルンベルグ法を裁く上で考慮されるべき重点である。ユダヤ法がニュルンベルグ法の模範になっているのである。モーゼより数世紀後のユダヤの立法者、エズラは、この法があってすら、多くのユダヤ人が非ユダヤ人と結婚しており、彼らの結束が乱れていたと認めている。このことが、ユダヤ人社会の原点なのである。つまり、人種法があったからこそ、ユダヤ人は、他のすべての人種や文明が滅んだのに、何世紀も生き延びたのである》(ニュルンベルグ裁判記録46・4・26)
これが、ナチの内務大臣の顧問として、
を立案した法律家たちの実情であった。法律顧問のメンバーだったベルナード・ローゼナーとフリードリッヒ・クノストは、『ニュルンベルグ法』と題する論集の中で、つぎのように解説している。《総統の意志にもとづくニュルンベルグ法は、いささかも、人種的な憎しみを強調し存続させるための特定の手段を意味してはいなかった。それは真反対に、ユダヤ人とドイツ人との関係を和らげる手段の発端を意味していた。
もしもユダヤ人がすでに、自宅同然にくつろげる自分たちの国家を持っていたならば、ユダヤ人問題は、ユダヤ人にとってもドイツ人にとっても、すでに解決済みと考えることが可能だった。こういう動機があったから、もっとも信念の強いシオニストも、ニュルンベルグ法の精神に対しては何らの異議も唱えなかったのである》
このようにヘブライの人種主義は、すべての他の人種主義の模範となり、他民族に対する支配の正当化に奉仕するイデオロギーなのである。
文字通りの解釈は、ヨシュアが行った虐殺と同じ犯罪行為に導く。
《アメリカの清教徒の植民者は、土地を奪うためにインデアンを追い出した際、ヨシュアがアモリ人やペリシテ人に対して行なった“神聖な絶滅”を引き合いに出した》(「マサチューセッツの清教徒」『ユダヤ主義』69、2号所収)
カナンのショアと混血恐怖症との間には、実際に、ユダヤ・ソマリアの法師たちの大多数の支持を受けているイデオロギー、すなわち、人口の変身が介在している。この政治的な見解は、統一主義者による聖書の原文の独特な読み方にもとづいている。『レビ記』を文字通りに読めば、そこでは神がユダヤ人に、
と命じ、 と指図し、神も自らイスラエル人を他民族から区別(20章24節)して、人種的な差別を実行している。『出エジプト記』(8章23節)でも、神は、 と語っている。かくて一九九三年、[フランスの]大法師、シトルクは、何時いかなる時にも懲罰を受ける心配なしに、以下の宣言をなし得たのである。
《私は、ユダヤ人の若者が決してユダヤ人の娘以外と結婚しないよう希望する》
こうして
となったイスラエル人は、神が 他民族との接触で てはならないのである。この禁止命令は、何度も何度も繰り返される。《また彼ら(カナン人)と婚姻をしてはならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。……》(『申命記』7章3~4節)。《もしも、あなたがたがひるがえって、これらの国民の、生き残って、あなたがたの中にとどまる者どもと親しくなり、これと婚姻し、ゆききするならば、あなたがたは、しかと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはや、これらの国民をあなたがたの前から、追い払うことをされないであろう。彼らは、かえって、あなたがたのわなとなり、網となり、あなたがたのわきに、むちとなり、あなたがたの目に、とげとなって、あんたがたはついに、あなたがたの神、主が賜ったこの良い土地から、滅びうせるであろう》(『ヨシュア記』23章12~13節)
一九七五年一一月一〇日、国連総会は、シオニズムを一種の人種主義であり、人種差別政策であると非難する決議を採択した。
ソ連の崩壊以後、アメリカは国連の唯一の超大国となり、一九九一年一二月一六日に、一九七五年の正当な決議を廃止させた。しかし、事態は一九七五年当時とまったく変わらないどころか、むしろ、さらに悪化している。抑圧、パレスチナ人に対する緩慢なジェノサイド、植民地化は、今、史上空前の規模に達している。