第2章:二〇世紀の諸神話
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第4節:"民なき土地に土地なき民を"の神話 2
[イギリス委任統治時代の“緊急事態法”を活用]
一九四三年の公共的利益のための土地収用に関する布告は、イギリスの委任統治時代からの遺産である。この布告は、本来の主旨から外れて、差別的に使われている。たとえば一九六二年には、デイル・エル=アラド、ナベル、ベネで、五百ヘクタールの土地が収用されたのだが、“公共的利益”の実態は、ユダヤ人のみに取って置きの町、カルメルの創設であった。
その他の方式には、イギリス当局が一九四五年にユダヤ人とアラブ人の双方を相手にして布告した“緊急事態法”の活用がある。この法令一二四号の場合には、軍政機関に対して、“安全確保”を口実として、必要に応じ、すべての市民の権利を停止し、移動を禁止する権限を与えるものである。軍は、“国家の安全確保の理由により”、ある地区の立ち入り禁止を宣言するだけで良い。それだけで、軍政機関の許可なしには、アラブ人は自分の土地に立ち入りすることもできなくなる。もしも、この許可が拒絶されたならば、その土地は以後、“耕していない”と認定される。すると今度は、農業大臣が、この土地を、《耕していない土地の耕作を保障するために接収する》ことが可能になるのである。
この残酷なまでに植民地主義的な法令一二四号は、イギリス当局が一九四五年に、ユダヤ人のテロと戦うために布告したものなのだが、その際、法律家のベルナル・(ドヴ)・ジョセフは、この“王印命令書”[投獄、流刑を告げる王の捺印入り羊皮紙文書]の仕掛けに抗議して、つぎのような声明を発した。
《われわれは皆、行政的テロを耐え忍ばなければならないのか?……いかなる市民にも、裁判抜きに一生を牢獄で暮らす危険を避ける手立てがない。……誰彼なしに追放する行政権力の権限は無限に広がった。……たとえ何らの違反行為を犯していなくても、どこかの行政機関が、そういう判断を下せば、それがそのまま通用するという仕掛けなのだ。……》
この同人物のベルナル・(ドヴ)・ジョセフが、イスラエル国家の法務大臣に就任し、この法令一二四号を、アラブ人に対して適用したのである。
この同じ法令一二四号に対しては、J・シャピラも、ジョセフと同様、一九四六年二月七日にテル・アヴィヴで開かれた抗議集会の席上、さらに強い調子で断言した。
《この法令によって確立された秩序は、文明国では前代未聞である。ナチス・ドイツにさへも、これと同類の法律はなかった》(『ハプラクリト』46・2)
この同人物のJ・シャピラも、イスラエル国家の検事総長、続いて法務大臣に就任し、この法令一二四号をアラブ人に対して適用したのである。なぜかといえば、この恐怖政治法令の維持を正当化するために、一九四八以後もイスラエル国家では、“緊急事態”が一度も解除されていないのである。
シモン・ぺレス[一九九六年に暗殺されたラビンの後継首相。労働党]も、日刊紙『ダーヴァール』の一九七二年一月二五日号で、つぎのように書いていた。
《法令一二四号の活用は、軍政機関設置の基礎であり、ユダヤ人の入植とユダヤ人の移民のための戦いの直接的な継続である》
[ユダヤ人を優遇するがアラブ人に不利ではない!?]
荒れ地の耕作に関する一九四八年の布告は、一九四九年に改正されているが、同じ精神の上に成り立っており、むしろさらに直接的な方式となっている。“公共的利益”だとか、“軍事的な安全確保”とかいったような口実を構える必要なしに、農業大臣は、すべての放棄された土地を徴発することができる。だからこそ、この布告の活用によって、テロ攻撃を受けたアラブ人が集団移住するような場合、たとえば、一九四八年のデイル・ヤシン、一九五六年一〇月二九日のカフル・カセム、またはモシェ・ダヤン[元国防大臣]が創設し、その後、長期にわたってアリエル・シャロン[同じく元国防大臣]の指揮下にあった“一〇一部隊”による“ポグロム”などの場合には、常に広大な土地が“解放”され、所有者または労働者のアラブ人がいなくなり、ユダヤ人の占有者に与えられたのである。
フェラーから占有権を剥奪する仕掛けは、つぎのような法令の組み合わせによって完成している。
一九四八年六月三〇日の布告。一九四八年一一月一五日の所有者“不在”の不動産に関する緊急裁決命令。一九五〇年三月一四日の所有者が“不在”の土地に関する法律。一九五三年三月一三日の土地取得に関する法律。その他、ありとあらゆる法的根拠が、アラブ人を彼らの土地から強制的に追い立て、その土地を強奪する行為を合法化し、ユダヤ人の入植地に変えるために動員されている。その有様は、ナタン・ヴァインストックの著書、『イスラエルに背くシオニズム』[前出]の中に、詳しく描き出されている。
パレスチナ人の農業人口の存在については、その記憶さえも、抹殺の対象となった。“無人の土地”の神話を信じ込ませるために、アラブ人の町は、家も、塀も、墓地や墓石までも含めて、ことごとく破壊された。イスラエル・シャハク教授は、一九七五年に、地区ごとの綿密なリストを作成して、一九四八年に存在した四七五のアラブ人の町の内、三八五の町が、ブルドーザーで破壊されたことを明らかにした。
《パレスチナは“無人の土地”だったのだと、イスラエル人に信じ込ませるために、何百もの町が、家も、塀も、墓地や墓石までも含めて、ブルドーザーによって、ことごとく破壊された》(前出、イスラエル・シャハク『イスラエル国家の人種主義』)
イスラエル人の入植地は、引き続き拡大された。その他にも、一九七九年には、ヨルダン川の西岸の奪回が行われたが、植民地主義者の最も古典的な伝統に従って、入植者は武装していた。
全体的な結果は、つぎのようなものである。一五〇万人のパレスチナを追い出して、“ユダヤ国民基金”の表現に従えば、“ユダヤの土地”が、一九四七年の六・五%から、現在では、パレスチナ全土の九三%に達したと発表されている。その内、国家所有地が七五%、ユダヤ国民基金の所有地が一四%である。
この作戦の成果に関しては、注目すべきことに、(そして意味深いことに)、いち早く、人種差別の象徴、アパルトヘイトで有名なエキスパート、南アフリカ共和国の「アフリカーナ」[オランダ系住民]の日刊紙、『ディー・トランスヴァレー』に要約紹介された。その解説には、こうある。
《この相違は、どこから生まれるのだろうか? イスラエル人が、非ユダヤ人の真っ直中で踏み止どまるために努力している方法と、アフリカーナが同じく踏み止どまるために努力している方法とでは、どこが違うのだろうか?》(『シオニズム・南アフリカ・アパルトヘイト』による『南アフリカ/友人のいない国』からの再引用)
同様のシステムであるアパルトヘイトは、個人の地位と同時に、土地の専有に関しても差別的性格をあらわにしている。イスラエル人がパレスチナ人に許可しようとしている自治なるものは、南アフリカの黒人向けの“バントゥースタン”に匹敵する。
エルサレムのヘブライ大学の比較法学研究所の所長、クライン[前出]は、“帰還”の法律の結果を分析しつつ、つぎのような問題を提出している。
《ユダヤ人がイスラエル国家の人口の大部分を占めているとしても、逆に見ると、イスラエル国家の人口のすべてがユダヤ人ではないということもできる。なぜなら、この国には、重要な非ユダヤ人の少数派として、なによりもアラブ人とドルーズ人がいるからである。ここで私が提出する問題は、人口の一部となる(宗教と民族的所属によって定義された)移民を優遇する帰還法の存在が、どの程度までならば差別的でないと見なし得るかを、確かめたいということである》(クロード・クライン『イスラエル国家のユダヤ的特徴』77)
クラインが特に気に掛けて自問自答しているのは、一九六五年一二月二一日に国連総会で採択された条約、あらゆる形式の人種差別の撤廃に関する国際条約が、帰還法に対しても適用されるのではないかという問題なのである。あとは読者の判断に委ねたいのだが、この高名な法律家は、つぎのような論法を駆使することによって、帰還法が差別的ではないということに関しての巧妙な論述[ある命題の一部を是認し一部を否定する修辞法]の結論を締め括っているのである。
《法手続きは特別の集団だけに適用されるものであってはならない。帰還法は、イスラエルに定住を希望するユダヤ人を「優遇」してはいるが、いかなる集団または国籍の持ち主に対しても「不利」を図るものではない。どの手続きに関しても、この法律は差別的だとは判断できない。》(同前)
読者も判断に迷うかもしれないが、このクラインの論理の厚かましさは、いかに控え目に評価するにしても、結局は、すべての市民は平等だが一部の市民は他の市民よりもさらに平等であるという、有名な警句[訳注1]で皮肉られている論理に落ち着くのである。
訳注1:この「有名な警句」についての出典は示されていないが、ジョージ・オーウェルの『動物農場』(高畠文夫訳、角川文庫)では、動物たちの反乱が成功した直後に大納屋の壁にペンキで書かれた「七戒」の「七、すべての動物は平等である」が、スターリンに当てつけたとおぼしき指導者、豚のナポレオンが独裁を確立したのち、何時の間にか、「すべての動物は平等である。しかし、ある動物は、ほかのものよりも、もっと平等である」と書き変えられていた。
……そこで、この帰還法が生み出した状況を、さらに明確に描き出してみよう。
帰還法によって恩恵を受けることのない人々には、国籍に関する法律(一九五二年五七一二号)が、あらかじめ用意されている。同法3条によると、同法は、
に対して適用される。この持って回った表現で示される者は 者と同様に取り扱われる。つまり、先祖伝来の無国籍者と同様の取り扱いである。この者は、この土地に何時から何時まで住んでいたのかを証明しなければならない。ところが、それを記録で証明することは、戦争や、シオニスト国家の創設に伴うテロの期間中に書類を失ったりしていて、しばしば不可能になっている。この証明が不可能な場合、市民になるためには、“帰化”という方法があるが、たとえば、“ある程度のヘブライ語の知識”が要求される。その上に、内務大臣が、“役に立つと認めれば”、イスラエル国籍を承認(または拒絶)する。簡単に言えば、このイスラエルの法律の効能によって、パタゴニア[南米の南端。最果ての地の意味]から来たユダヤ人は、テル・アヴィヴ空港に降りた途端にイスラエル市民になれるのに反して、パレスチナでパレスチナ人の両親から生まれたパレスチナ人は、無国籍者として取り扱われる場合があるのである。これでもなお、パレスチナに「不利」な人種差別はまったく存在せず、ただ単にユダヤ人を「優遇」しているだけだと言うのだろうか!以上により、シオニズムを
と定義した一九七五年一一月一〇日の国連総会決議(三三七九号決議)[訳注の追加]に異議を申し立てることは困難であると認められる。訳注の追加:上記の決議は湾岸戦争直後、連合国[説明は前出]総会で廃棄が決議され、日本の大手メディアは、その結果のみを報道した。しかし、この時期には、イラク支持を表明していたPLO、ヨルダンなどが、国際的に不利な立場に追い込まれていたのであり、アラブ諸国は、棄権ではなくて、一斉退場という態度表明をしたのである。
実際には、イスラエルに移住して“約束”を達成した者は、ごく少数に止まっている。“帰還法”の効果は非常に低かった。これは結構なことである。なぜなら、ユダヤ人は世界中の様々な国の、文化、科学、芸術などの様々な分野で、優れた役割を果たしてきたのであり、反ユダヤ主義者が設定した目標をシオニズムが達成するなどということは、実に嘆かわしいことだからである。その目標とは、ユダヤ人を各自の生まれ故郷から引き離して、全世界規模のゲットーに閉じ込めることだったのである。
フランスのユダヤ人の実例は意味深い。一九六二年にエヴィアン協定が結ばれ、アルジェリアが解放されて以後、アルジェリアを去った一三万人のユダヤ人の内、イスラエルに行ったのは、わずか二万人で、一一万人がフランスに行った。この場合の移住は、反ユダヤ主義による虐待の結果ではなかった。アルジェリアを去った非ユダヤ人のフランス人植民者も、同様の比率だった。この移住の原因は、反ユダヤ主義にではなくて、旧来のフランスの植民地主義にあったのであり、アルジェリアにいたユダヤ人のフランス人も、他のアルジェリアにいたフランス人と同じ運命に置かれたのである。
[イスラエル国定教科書の神話とは真反対の事実]
概要を見ると、イスラエルへのユダヤ人の移民のほとんどすべては、反ユダヤ主義の迫害を逃れるために来たのである。
一八八〇年のパレスチナの総人口は五〇万人で、その内のユダヤ人[ユダヤ教徒と同義]は二万五千人だった。
一八八二年には、ツァーリ支配下のロシアで大規模なポグロムが発生し、それ以後、集団移民が始まった。
一八八二年から一九一七年の間に、都合、五万人のユダヤ人がパレスチナに到着した。続いて、二つの世界大戦の間にポーランドとマグレブ[北西アフリカ]から、迫害を逃れる移民が来た。
しかし、最も重要な集団が来たのは、ドイツからであって、その原因は、ヒトラーの下品な反ユダヤ主義にあった。
一九四五年までには都合、約四〇万人のユダヤ人が、パレスチナに到着した。
一九四七年、イスラエル国家創設の前夜には、六〇万人のユダヤ人がパレスチナにいた。総人口は一九八万人だった。
[人口数は推定であり、原著では簡略化している。前後が矛盾するので、訳者が、その他の資料を参照して補正した]
以後、組織的かつ系統的なパレスチナ人根絶作戦が始まった。
一九四八年の第一次中東戦争以前には、その後にイスラエル国家の領土となる部分に、約六五万人のアラブ人が住んでいた。一九四九年には、一六万人しか残っていなかった。出産率が高かったので、彼らの子孫は、一九七〇年の終りには四五万人になっていた。イスラエル人権同盟が公表した報告によると、一九六七年六月一一日から一九六九年一一月一五日までの間に、イスラエルとヨルダン川西岸で、二万軒以上のアラブ人の住宅がダイナマイトで破壊された。
イギリスの国勢調査によると、一九二二年一二月三一日現在のパレスチナの総人口は七五万七千人で、その内、六六万三千人がアラブ人(その内、五九万人がイスラム教徒のアラブ人で、七万三千人がキリスト教徒のアラブ人)であり、八万三千人がユダヤ人だった。つまり、八八%がアラブ人で、一一%がユダヤ人だったことになる。“無人の荒れ地”と称された土地の住人は、穀物や柑橘類を栽培し、輸出するアラブ人だったことを明記しなくてはならない。
一八九一年には、初期のシオニストで、アハド・ハアム[ヘブライ語で「その一つの民族」の意味]のペンネームで『民族の一人』を書いたアシャー・ギンズバーグが、パレスチナを訪れており、つぎのような証言を残してる。
《この国の外側で、われわれが聞き馴れていた話によると、エレツ・イスラエルには現在、ほとんど人が住んでおらず、耕作もされておらず、ここに来て土地を手に入れようと希望する者は誰でも、望むだけの土地を得られるということだった。ところが実際には、そんな土地は、まったくない。この国の果てから果てまで、耕されていない畑を探すのが難しいくらいだ。唯一の耕されていない場所は、砂地か、石ころだらけの山地ぐらいなもので、そこではアラブ人が果物の木を育てるのがやっとのことで、それにも大変に骨の折れる整地や手入れの作業が必要である》(『アハド・ハアム著作全集』)
実際のところ、シオニストの到来以前に、“ベドウィン”(実際には穀物栽培者)は、一年に三万トンの小麦を輸出していた。アラブ人の果樹園の面積は、一九二一年から一九四二年の間に三倍に広がっていた。オレンジその他の柑橘類の果樹は、一九二二年から一九四七の間に七倍に増えており、収穫は、一九二二年から一九三八の間に一〇倍に増大していた。
柑橘類の場合だけを例にして見ると、一九三七年七月にイギリスの植民省が議会に提出した『ピール報告』によると、パレスチナのオレンジ栽培は急速に発展している。それ以後の一〇年間に、世界の冬季収穫のオレンジの消費需要は、三千万籠まで増えると見込まれており、生産および輸出国の状況は、つぎの通りである。
パレスチナ…………………………………………………………………一千五百万籠。
アメリカ…………………………………………………………………………七百万籠。
スペイン…………………………………………………………………………五百万籠。
その他の国(キプロス、エジプト、アルジェリア、その他)……………三百万籠。
(37『ピール報告』)
[パレスチナ人“ポグロム”の共犯者が入植地拡大]
一九九三年三月二〇日付けで、アメリカの議会のある委員会に提出された国務省作成の調査報告には、こうある。
《二〇万人以上のイスラエル人が、現在、ゴラン高原と東エルサレムを含む占領地区に定住しており、占領地区全体の人口の“およそ”一三%に達している》
その内の九万人ほどは、ヨルダン川西岸の一五〇の入植地に住んでおり、
。と国務省作成の調査報告では、続けて記している。 (『ル・モンド』93・4・18)
イスラエルの世論の牽引者としては最強力の日刊紙、『イディオット・アハロノート』には、つぎのような論調が見られた。
《ここ七〇年来、このように領土建設が加速された時期は、いまだかつてなかった。アリエル・シャロン(住宅大臣兼建設大臣)は、わがイディオットの論調に従って、熱狂的に、新しい入植地を建設し、既存の入植地を発展させ、さらに新しい地区建設に向けての準備と道路開設のために、目下奮闘している》(『ル・モンド』91・4・18からの再引用)
アリエル・シャロンに関しては、以下の事実を思い起こしてほしい。彼は、レバノン侵略の際の総指揮官だった。彼は、サブラとシャティラのパレスチナ人のキャンプに対する“ポグロム”を行った国粋党の民兵に、武器を供給した。シャロンは、この不当な行為に目をつむったが、事実が発覚した以後には、いかなイスラエルでさえも設置せざるを得なくなった虐殺事件調査の委員会に、共犯者として喚問された。
これらの占領地区の入植地が維持され、それを保護するためのイスラエル軍が出兵し、入植者たちが、かつてのアメリカ西部フロンティアの冒険者たちのように武装している現状の下では、パレスチナ人が実際の運営に当たる“自治”なるものも、すべて幻想でしかない。事実上の占領が続く限り、本物の平和の実現は不可能である。
入植地への移住の努力の中心には、エルサレム全体の併合を不退転の決意で確保しようという、すでに自ら告白した誓いの目標がすわっている。しかし、この併合宣言に対しては、連合国加盟国(その中にはアメリカも加わっているのだ!)が、異口同音に非難の声を挙げているのである。
占領地区の入植地への移住は、明瞭に国際法、とりわけ、一九四九年八月一二日に採択されたジュネーヴ憲章を踏みにじる行為である。ジュネーヴ憲章は、その四九条で、つぎのように規定しているのである。
《占領国は、その占領地区に、自国の民間人口の一部の移住を行ってはならない》
ヒトラーでさえも、この国際法に背きはしなかった。彼は、決して、フランスの農民を追い出した土地に、ドイツの民間人の“植民者”を移住させたりはしなかった。
インティファーダを“テロ”と呼ぶ類いの“安全確保”と称する口実は、人を馬鹿にしたものでしかない。これにも、やはり、統計数字が雄弁に反論する。
《一九八七年一二月九日にインティファーダ(石投げの反乱)が始まって以来、一一一六人のパレスチナ人が軍隊、警察または植民者の射撃によって殺された。一九八八年と一九八九年に六二六人、一九九〇年に一三四人、一九九一年に九三人、一九九二年に一〇八人、一九九三年の一月一日から九月一一日までに一五五人である。イスラエルの人権同盟、ベートセレム[健全な家の意味]の調査によれば、犠牲者の中には、一七歳以下の子供が二三三人いた。
軍発表の数字では二千人近くのパレスチナ人が弾丸で負傷した。国連のパレスチナ難民救援代表部(UNRWA)の発表によれば、九万人という数字である。
一九八七年一二月九日以後のイスラエル人兵士の死者数は、三三人である。一九八八年に四人、一九八九年に四人、一九九〇年に一人、一九九一年に二人、一九九二年に一一人、一九九三年に一一人である。
軍の計算では、四〇人の民間人が占領地区で殺されており、そのほとんどは入植者である。
人道主義組織によると、一九九三年現在、一万五千人のパレスチナ人が、法務省の管轄の監獄または軍の留置所に捕らわれている。
ベートセレム[前出のイスラエル人権同盟]が確認したところによれば、インティファーダの開始以来、一二人のパレスチナ人がイスラエルの監獄で死亡しており、その内の何人かについては、その事情が、いまだに公表されていない。同じく、この人道主義組織によると、少なくとも、毎年二万人の逮捕者が、軍の留置所で尋問された際に拷問を受けている》(『ル・モンド』93・9・12)
踏みにじられっ放しの国際法は、まさに“反古”同然であるが、イスラエル・シャハク教授の著書によれば、事態は、それ以上に悪い。
《なぜならば、これらの入植地は、その性質上、当然のことながら、略奪、差別、アパルトヘイトの組織と化していくのである》(前出『イスラエル国家の人種主義』)
シャハク教授は、イスラエルの神をイスラエル国家に置き換える偶像崇拝について、つぎのように証言する。
《私は、イスラエルに住むユダヤ人である。私は、自分自身を、法を守る一市民だと考えている。私は、四〇歳になるまでに、すべての兵役期間の勤めを果たした。しかし私は、イスラエル国家に対しても、他のいかなる国家に対しても、または、いかなる組織に対しても、絶対的な服従は誓わない! 私は、自分の理想に執着する。私は、真実を語るべきだと考えており、すべての人のための正義と平等を実現するために、なすべきことをなす。私は、ヘブライの言語と詩に執着しており、われわれの古代の予言者の数多くの価値ある言葉を謙虚に学び、そこに想いを傾けることを好んでいる。
しかし、国家への献身を誓えとは、なにごとか? 私は、ただちに、アモスとイザヤの物語を想い浮かべた。もしも彼らが、イスラエル王国か、またはユダヤ王国への献身を求められたとしたら、彼らは、どうしたであろうか!
ユダヤ教徒は、一日に三回も、ユダヤ教徒は神に、そして神だけに献身を誓うと考え、その祈りの言葉を唱える。〈あなたは心をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない〉(『申命記』6章5節)。しかし、こう考える者は今では、ごく少数である。ほとんどのイスラエル人は、神を見失い、かつてのイスラエル人が荒れ野の黄金の子牛にあこがれ、身も心も奪われて、その鋳像を作るために、すべての黄金を捧げたのとまさしく同様に、神の代わりに偶像を拝んでいるように思える。彼らの現代の偶像の名は、イスラエル国家である》(同前)