《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!
電網木村書店 Web無料公開 2003.11.6
第二章 NHK《受信料》帝国護持の論理 7
「“受信料”という名の特殊な負担金」とは?
日本の文化人は、とかく論理的でなく、情緒的なごまかしに弱い。この点を“日本的”といい、いわゆる古風な日本文化の特質だなどと、これまた情緒的にごまかす向きが多いが、大間違いである。
日本の文化人やジャーナリストの大半は、日本資本主義の急速な発達とともに、それに適応した速成専門教育により、いわば、分業用の道具として作り上げられたのである。わかりやすくいえば、自立した思考が出来ない片輪な部品である。大学以前から、文科と理科に分けられ、数学が不得手なのが文科に進む。しかも文科系といい条、哲学の伝統はないし、論理学の単位を取らなくても卒業できる。この点、宗教哲学以来の伝統を持つ欧米とは、質的な違いがある。日本の宗教も、こんにゃく問答的だったし、そこからさえ断絶しているのだから、現代日本人の思考が大いに非論理的なのは、個々人の良心を越えた歴史的所産なのかもしれない。
さて、そういう文化人の“文科”的体質につけこむかのように、NHK独特の論理による《放送用語》の研究が進む。
NHKの受信料は、その名の通り、“受信”したものが、その“受信”の“料金”として支払うものかと思ったら、それは大間違いだというのだ。ほかにも、映画館の入場料とか、公衆浴場の入浴料とか、似たような日本語がたくさんある。それらは、入場したものとか、入浴したものとかが支払うという論理でつくられた日常の日本語である。ところが、受信料という用語は、これらの日本語伝来の“下賎な”論理構造には、もとづかないものらしいのだ。NHKの苦心の説明は、こうなっている。
「受信料を財源とすることによって、NHKは政治権力にも商業主義にも影響されることなく、最良の放送番組を提供することを唯一の目的にして放送事業を行うことができるのです。……(略)
受信料を番組の対価とする考え方もありますが、個々の視聴者の視聴した時間を測定することは実際上困難であり、現実的な立論とはいえません。
結局、公共的な放送局の受信料は、放送局のすべての仕事を含めた全体を維持していくために、視聴者によって公平に支出される負担金のようなものであると考えられます。
わが国の放送制度を検討した臨時放送関係法制調査会答申(昭和39・9)もこの点について『受信料は、NHKの維持運営のため、法律によってNHKに徴収権の認められた“受信料”という名の特殊な負担金と考えるべきである』とし、またNHKの性格については『現在のNHKは、受信者たるべき国民が法律によって自らの放送事業体として設けたものということができ、したがってNHKの当局者は、国民の信託を受けて、その業務を行うべき立場にあるものというべきである』と述べています」(『NHKの現況~1980~』)
それならいっそ、「NHK負担金」と呼び直せばよいのに、といったら大変な皮肉になる。つまり、受信料といえば素直に金を出す相手が多いから、その効果はそのまま頂き。そうしておいて一方では、「NHKは見ないから」とか、「君が代を流すから」とかいう連中には、「負担金」から「言論保障制度」に至る何段構えものヘリクツを用意しているわけだ。
もちろん、NHK職員のすべてが、協会側やら闇将軍やらの腰巾着ばかりだとか、ウソツキの集まりだというつもりは、毛頭ない。たとえば、最近のNHKの番組には、確かに見るべきものが多い。比較となる民放があまりにもひどくなり過ぎたから、ちょっと活を入れただけでも良く見えるのかもしれないが、ともかく見ごたえのある番組を作る力はあるのだ。
だが、本当に政治的なきわどい所では、押えが効いたまま。そして、受信料不払い運動などの追及がゆるめば、また元の木阿弥にもどらぬ保障はない。しょっちゅう左右に揺れるのだ。そしてこのへんが、“中立公正”だの、“公共性”だのという“文科”的批評がはびこる所以だろう。受信料問題についても、その本質は、すでに“国営化”騒動に関して論じたことと同じだ。つまり、NHK式のどっちつかずの説明は、ことの本質を、そのまま映し出しているわけである。
こういう“なまくら四つ”の構えに対しては、こちらの要求をはっきり突きつける以外にない。受信料に対する論理は、送信料である。送信時間についての一票の請求権をよこすまでは、「信託」できるわけはないのである。そして、この要求の根拠説明には、二つの問題がある。第一は、受信と送信にかかわる権利の問題。第二は、NHKが「信託」の対象となり得る組織なのだろうか、という根本問題だ。