『湾岸報道に偽りあり』(60)

隠された十数年来の米軍事計画に迫る

電網木村書店 Web無料公開 2001.7.1

補章:ストップ・ザ・「極右」イスラエル 3

パレスチナへの移住の歴史的事実はどうだったのか

 問題のイギリス流「二枚舌」バルフォア宣言の約束も、明らかに受け身である。「国家」ではなく「ナショナル・ホーム」という漠然とした用語をもちい、「パレスチナ」という地名は記したものの、その前置詞は「on」ではなく「in」であった。また、「パレスチナに存在する非ユダヤ人社会の市民的、宗教的権利を損なうことはない」という限定つきだった。それでもアラブ人の抗議の声は高く、イギリス側は弁明に苦労したのである。

「ヴィデオ」のナレーションは、そんな事情を、なぜか西部劇のアリゾナ砂漠のような「無人」の荒れ地の映像でごまかしていた。予備知識のない視聴者は、別に気にも止めないだろう。しかし、刑事コロンボのシリーズでも犯罪の手口の一つとして使われたほどで、この種の一見なにげないカット挿入の心理的効果に関しては、映像のプロなら、無関心ではいられないはずだ。

 たとえば、日本人の旧「満州」への移住を描くドキュメンタリー番組に例を取れば、最も正しい映像の選択は、最初の入植地の風景に決まっている。そこはやはり、現地の中国人が何千年も耕してきた肥沃な農地であった。イスラエルでもそうだったのだ。アメリカのテレヴィ制作者が、そういうドキュメンタリー番組制作の、初歩的で基本的な約束ごとを知らないわけはない。他の例で、こういう手法を使えば、プロの映像記録作家としては絶対に落第点なのである。問題の「ヴィデオ」の手法は疑いもなく意識的な、一種の詐欺行為であり、映像を用いた戦争犯罪の一種なのである。

 私がTBSに問い合わせた際、「歴史学者の意見を求めたか」と聞いたのは、そういう映像手法についての予備知識があったからであり、また、歴史的事実を若干知っていたからである。以下一応、専門家なら知らないはずはない歴史的事実を、確認のために紹介しておこう。

 たとえば『アラブ近現代史』という歴史書は、「社会と経済」という副題が示すように、一般的な政治史ではなく、細かいデータに基づいた分析を特徴としている。

 この本によると、ヨーロッパの中東への勢力拡張の動きの中で、「一八七八年にはドイツのテンプル騎士団をはじめとするキリスト教徒の入植、そしてユダヤ教徒の入植がはじまった」。数字も記録されている。パレスチナ地方では「一八八〇年代以後、三〇年間に人口が一・五倍に増加しているが、その一因にキリスト教徒とユダヤ教徒の入植があった。一九世紀なかばには、パレスチナ地方の人口はおよそ五〇万で、そのうち八〇%がイスラーム教徒、キリスト教徒が一一%、五~七%がユダヤ教徒であったが、一九二二年の宗教別人口では、ムスリムが七五%、キリスト教徒が一一%、ユダヤ教徒が一三%になっている。ユダヤ教徒の入植は一八八〇年代にはじまったが、第一次大戦直後までにヨーロッパおよびアラブ地域から九~一〇万人の入植があったと推定される」

 ここで注目すべき点は、「一八七八年には……キリスト教徒……ユダヤ教徒の入植がはじまった」という年代である。それは先の「ヴィデオ」の解説にもあった「一八七八年のベルリン条約」によって、パレスチナ地方がフランスの管理下に入って以後、という意味なのである。

 以下、まず人口数に関する記述だけを追うと、「一九三〇年代にナチズムの追及を逃れるユダヤ人のパレスチナ流入が増加した。一九一九~三一年の移住者数が一三~一四万人であったのに対し、一九三二~三八年の移住者は一九~二〇万人となった」とある。確かにこの数字は第一次大戦以前の「九~一〇万人」よりは多い。だが、爆発的というほどではないのである。全体を通して見ると、一九七八年以降、着実に入植者が増大していった、と表現する方が実態に合っているのではないだろうか。

 内容的にいうと、さらにいくつかの疑問点がある。たとえば、「入植地はオスマン帝国政府・皇帝領や大所領から購入されたものが多い。しかしロスチャイルド家の資金援助にもかかわらず農村型入植は成功しなかった。アラブ人分益小作農・労働の使用による入植者の不在地主化の傾向に対し、一九〇九年、シオニスト機構の指導によりキブーツ方式が導入された」。つまり、ロスチャイルド資金で土地を獲得しながら、アラブ人に小作をさせる不心得者が出たのである。その数は記されていないが、少なくとも、軍隊の駐屯地型といわれたキブーツ方式で、しばりつける必要があったほどなのである。これが本当に「聖地」を守るための入植者のすることなのだろうか。

 また、「入植者は技術と資金の点でパレスチナ人に対し優位に立ち、工業・手工業の企業数でも三分の一をしめるようになった。しかし入植したユダヤ教徒の一部は定着できず海外に再流出している」

 このように、初期の入植はさまざまな問題を抱えていたわけであり、単純に数字を比較するだけでは、歴史の実像に迫ることはできない。一九世紀後半にはロシアでのポグロム(破壊)を逃れるために、「ユダヤ人」のヨーロッパ大陸からの海外流出が続いた。しかし、彼らが最も自然に「新天地」を求めたのは、新大陸のアメリカであった。現在も世界各国で最大、六百万以上のユダヤ系市民がアメリカにおり、彼らのほとんどはイスラエルへの移住を希望していない。これが、極右シオニストをいらだたせる厳然たる事実である。シオニスト機構の最初の「ホーム」案がウガンダだったということは、すでにのべたとおりである。ロスチャイルド資金なしに果たして、パレスチナに向かう流れを作り得たのであろうか、という疑問をなしとしないのである。

 しかも、現地のアラブ人は、入植者を歓迎したどころではない。一九二二年以降、パレスチナはイギリスの委任統治領となったが、植民地支配の継続とシオニズムに反対するアラブ人の反乱は続いた。一九二九年と一九三六年には、バルフォア宣言の廃棄を要求する「大暴動」すら起きている。これに対してシオニスト機構は、イギリスの政策にさえ逆らい、「不法入国を強行し」、現地アラブ人に対する「テロ活動を強化した」のである。

 第二次世界大戦では、シオニストの要望により、イギリス軍とアメリカ軍の中にユダヤ人部隊が編成された。イスラエル建国は、すでに正規の軍事訓練を受け、実戦を経験したシオニストの部隊と、イギリスやアメリカから密輸すら犯して供給された最新鋭の武器に守られたからこそ実現したのである。PLO駐日代表バカル・アブデル・モネムの日本人向け著書『わが心のパレスチナ』では、イギリスは委任統治の終了に際して、アラブ人の武装を厳禁しながら、植民地軍の武器弾薬をイスラエル側に引き渡したとしている。イスラエル側で最も権威が高いとされる戦史は、第六代大統領ハイム・ヘルツォグの『図解/中東戦争/イスラエル建国からレバノン進攻まで』らしいが、双方の主張にかなりの違いがある。イスラエル側は、アラブ側の武装の方がまさっていたと主張したいようだ。しかしそれでは、人口数で劣るイスラエル側が最後に圧倒的な勝利を収めた理由は、とうてい説明しきれない。ヘルツォーグ自身が認めるように、「ユダヤ側の武装勢力あるいは民兵は、時には英国の黙認や援助を受けて成長し、時には英国に抵抗し地下組織となって、少しずつ大きくなっていった」という奇怪な前史すらあるのだ。

 「ヴィデオ」のその後に続くナレーション、「しかし、その民なきはずの土地には、パレスチナ人がいた。建国宣言の翌日、最初の中東戦争が火を吹く」という解説は、現地のアラブ人が聞けば、いかにも他人ごと、責任逃れ、という感じであろう。

 しかも、「紀元前千二百年、モーゼに率いられてエジプトを出たユダヤの民が、国を造る」という、一見なにげなく調子のよい台詞には、並の驚き方ではすまないほどの重大な歴史的疑惑が投げかけられているのだ。


(61) 「ユダヤ人」の九〇%はタタール系カザール人だった