第三部:戦争を望んでいた「白い」悪魔
電網木村書店 Web無料公開 2001.7.1
第九章:報道されざる十年間の戦争準備 7
決定的な問題点はカーター・ドクトリンの歴史的評価
さて、私は幸いなことに、本書の完成間際に『石油資源の支配と抗争/オイルショックから湾岸戦争』の著者から、直接の教えを受けることができた。
本章で概略のみを紹介した一九八〇年の米議会記録は、その当時のアメリカのメディアでは報道され、かなり議論されていたのだそうである。問題の出発点にはカーター・ドクトリンがある。カーターは一九八〇年一月の大統領教書で「湾岸地域における紛争を米国の死活的利害にたいする脅威と見なし、武力を含むあらゆる方法で介入する」方針を述べ、中東戦略の核心にすえた。その直後に提案された「緊急展開軍」は、その戦略の具体化であった。だから、このドクトリンが歴史の転換点をなしていたのだと考えるべきであろう。かつては、トルーマン・ドクトリンが東西冷戦の開幕を告げたように、カーター・ドクトリンは、湾岸戦争とそれ以後のアメリカの世界戦略を決定づけるものだったのだ。
ただし、この二つの大統領ドクトリンの中間にはアイク・ドクトリンがあリ、三根生久大はこれが「一貫してアメリカの重要基本政策の一つ」として維持されたと評価する。アイクは一九五七年、アラブ諸国の石油国有化要求の高まりに対抗しながら、次のような骨子のドクトリンを発表していた。
「米ソの冷戦構造の下で、アメリカが中東地域における戦略的物資として最重要の石油の権益を死守することは、ひいては西側の安全保障上の権益を守ることになる」
「アメリカは中東湾岸の産油国、とくにサウジアラビアの石油を確保し、もし、サウジアラビアが攻撃されるようなことがあったら、それはアメリカ本土に対する攻撃と同様と見なす」
アイク・ドクトリンは、その主の退任演説を乗り越えて、今まで生き続けてきたのである。
ところが、当のアメリカのメディアまでが、データ・ベースをたたけばすぐに入手できたはずの一九八〇年代初頭の報道すらをほとんど振り返ることなく、湾岸危機を報道していたのである。単なる健忘症のなせるわざではない。「歴史の鏡」は故意に打ち捨てられたのである。このことが意味する危機的な問題点については、もう繰り返して論じる必要もないであろう。
当面の問題に戻ると、最後に残ったのは、現在進行中の「中東和平会談」と「リンケージ」の関係の、歴史的な評価である。サダム個人の功罪の判定は別として、湾岸戦争なしに会談が開かれたかどうかは、大いに疑問なしとしない。たとえば……
「英国際戦略研究所(IISS)は十六日、開戦一周年を前に湾岸戦争を分析した報告書を発表した。報告書は、湾岸戦争が結果的にアラブ・イスラエル紛争当事者に問題解決へ決意を生じさせ、中東和平会議実現に一役買ったと分析した」(『朝日』92・1・17)
ともかくだれかが、湾岸戦争の数知れぬ死者たちに向けて、「ヴェンデッタ」ではなく「鎮魂」の曲をかなでるべきではないだろうか。それなしに果たして、「中東和平会談」の成功はあり得るのだろうか。しかも、この会談の底には、いささか不気味な歴史の流れが潜んでいる。その象徴は、「極右」ナチズムの被害者「ユダヤ人」の政治的指導者が、これまた「極右」だという皮肉極まりない現実である。
補章:ストップ・ザ・「極右」イスラエル
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