第二部:「報道」なのか「隠蔽」なのか
電網木村書店 Web無料公開 2001.3.1
第五章:イラク「悪魔化」宣伝の虚実 2
独立の陰にCIA暗躍の血ぬられた歴史
イラクの駐日大使アルリファイの近著『アラブの論理』には、クウェイトがイラクの不可分の領土であるという歴史的主張が、かなり詳しく展開されている。イラクは決してクウェイトの領有権主張を放棄してはいない。湾岸戦争におけるクウェイトからの「撤退」は、イラクの領土権主張の「撤回」と同義語ではなかった。
第二次大戦以前のイラク王国も、イギリスに対してクウェイトの返還を求めていた。当時のクウェイト住民も、イラクへの統合を求めてサバハ家のカイライ首長を突き上げ、イギリスの支配に反対する暴動まで起こしていた。『アラブの論理』の記述は、これらの時代からクウェイト独立に至る時期の要約メモに過ぎないのだが、それだけでも五ページにおよんでいる。大変に複雑な歴史的経過があるのだ。
だからここでは、最も重要なクウェイト独立から国連加盟にいたる時期についてだけの、決定的な問題点を指摘するにとどめる。
一九六一年にイギリスはクウェイトを独立させるが、イラクばかりか、やはり隣国のサウジアラビアとの国境さえ画定しないままの独立宣言だった。イラクは直ちに抗議し、イギリスが出兵する騒ぎになった。
クウェイト政府は、独立の年から国連加盟を求めていたが、加盟が承認されたのは一九六三年の後半になってからであった。なぜ一九六三年かというと、この年の二月に、クウェイトの独立に反対していたカセム首相が軍事クーデターで殺害され、イラクの「民族政権」が倒されたからである。「イラク革命全国評議会」を樹立して政権を握った陸軍将校グループは、味方に引き入れていたバース党をも裏切り、イラク共産党書記長フセイン・ラダウィを始めとする反対派数千名を虐殺する流血テロを繰り広げた。
一九五八年に「七月革命」で王政を倒したカセム政権は、アメリカとの軍事・経済援助協定を破棄し、石油の国有化方針を押し進めていた。それまでの「イラク石油会社」は、イギリス・アメリカ系などの独占であったから、カセムの国有化政策は、当然、米英両国の利益と正面衝突するものだった。軍事クーデターが成功すると、米英両国はただちにこれを承認した。二週間後には、イラク石油と新政権との石油交渉が始まり、イラク石油の失地は大幅に回復された。
だが事件の二週間後に発行されたフランスの週刊新聞『レクスプレス』(『L'EXPRESS 』63・2・21)によって、このクーデターはCIAの画策によるものであり、最初はイギリス政府も陰謀に加わっていたという暴露がなされた。『レクスプレス』は、同じアラブでありながらカセムとは政治的に対立関係にあったエジプトのナセル大統領も計画に関与していた、と報じている。情報源は意外にも、イギリス側の秘密情報機関だったという。イギリスは、クーデター成功後の分け前をめぐってアメリカと合意できず、CIAの単独見切り発車を許してしまったのである。結果として、アメリカの権益が増大し、イギリス側は憤懣やるかたなしの状態だった。ただし、この情報漏れの真因は、単に不満の爆発というお粗末な理由だけではないだろう。その後、イギリス秘密情報機関MI6から、長官候補と目されていたキム・フィルビーが「モグラ」疑惑の発覚寸前にソ連に逃亡するという、スパイ史上最大のスキャンダルが起きている。キム・フィルビーは中東の専門家でもあった。「モグラ」は敵側の情報機関に潜入するか裏切りを働く二重スパイの通称であるが、キム・フィルビーほか何名かのイギリス秘密情報部員は、学生時代からの秘密共産党員であった。
暴露報道によれば、クーデター・グループは事前にCIAと打ち合わせた際、CIAの援助と引き換えに共産主義者と民族主義者の根絶、米英の石油利権の擁護、クウェイトの併合要求撤回などを約束していた。つまり、イラクのクウェイト併合要求は、このような血ぬられた陰謀によってしか撤回させることのできない歴史的権利だったのである。
しかもこの陰謀はすでに明らかなように、石油利権をめぐる米英、特に第二次世界大戦後新たに中東支配の主役の座についたアメリカの世界政策の一環であった。いずれ第三部で詳しく紹介することになるが、時のCIA長官ジョン・マコーンは、第二次大戦中から中東の石油精製施設建設で世界一の実績を持つベクテルと共同経営者の仲であり、戦後にはスタンダード石油の重役、大株主にのし上がっていた。ベクテルは、一九五三年にイランでパーレヴィ帝を復権させたCIAクーデターにも関係していたが、このクーデターもモサデク「民族政権」の石油国有化方針を阻止するための陰謀であった。クウェイトの独立は最初から、イラクのカセム政権の動きをにらんだ策略だという可能性が高い。その後の軍事クーデターとワンセットで計画された国際的謀略だったと推測すべきであろう。後にふれるように、OPEC結成とも見事にタイミングが合っている。
『レクスプレス』は、この暴露記事に先立ち、クーデターの一週間後の二月十四日号でも見開き二ページの特集で事件を報道しているが、面白いことには「クウェイト問題」の小見出しを立てて、こう論じていた。
「地理上のクウェイトは、なんらの自然的境界もなく砂漠に横たわっており、無意味である。この視点からすれば、イラクの領土回復要求を正当化することは可能である。政治的には、しかし、カセムの主張は数多の権益を損なうものであった」
「権益」の主は「イギリス」だけではなかった。アラブの覇権争いの「競争相手」としての「ナセル」もいた。「君主制の隣国」「サウジアラビア」は、イラクの「共和制」に対して「不安」を抱いていた。
こういう状況の下で、石油利権によるクウェイトの並はずれた富そのものが、陰謀のもう一つの側面の武器として使用されたという、密約の可能性を推測しておく必要があるだろう。
クウェイトは、独立して半年後の一九六一年十二月に、「アラブ経済開発クウェイト基金」を創設した。
当時から国民一人当り年間所得番付で世界一だったクウェイトの富は、当然、アラブ世界でも垂涎の的であった。湾岸危機以前から発行されていたクウェイトに関する唯一の単行本は、その名も『石油に浮かぶ国』(65年初版)であったが、朝日新聞中東特派員の経験を持つ著者の牟田口義郎は、クウェイトの独立を次のように表現していた。
「クウェイトの独立は、アラブ兄弟国からそれほど祝福はされなかった。長いイギリスとの特殊関係から、独立はしてもどうせイギリスのヒモつきであろう、と思われたのがその理由の一つ。一方では、そのあまりの富裕ぶりが、兄弟たちをねたませたことも考えられる。カイロの有力紙が『かつてクウェイトの富はアラブの大義のために使われたことがなかった』と書いてクウェイトの独立を迎えたことも、その現れである」
文中の「大義」は、湾岸危機で有名になったパレスチナ問題を指すが、この訳語はあまり適切とはいえない。本来のアラブ語の意味は「重要議題」であり、英語では「 Arab cause 」と訳している。「Cause 」には「訴訟」の意味もあり、係争中の課題といったニュアンスが強い。イギリスの保護下にあったクウェイトは、超々大金持ちのアラブ一族でありながら、バクシーシを重んずるイスラムの教えに反し、パレスチナの兄弟を援助していなかったのである。独立したクウェイトは、こうした兄弟国からの批判をかわすために、アラブ諸国全体にあり余るカネをばらまいて友好関係を確保する政策に出た。基金の他にも政府準備金を用意し、兄弟国への貸しつけに当てた。
『石油に浮かぶ国』の最後の締め言葉は、こうなっていた。
「クウェイトはアラブ世界開発の貴重な財源として、兄弟諸国との関係はきわめて良い。アラブ世界でこれほど政敵のない国はほかに例がない。クウェイトはその五〇万の人口をもって八〇〇〇万のアラブの民族主義を包容しているようだ。『中東で必要なのは、愛される、ということである。』――アブドッラー首長は、内政においても、また外交においても、その目的を達しつつあるといってよい。“黒い黄金”が語る数々の驚異の物語を、われわれはさらに聞き続けることであろう」
以後四半世紀が経過した。だが、「驚異の物語」の陰ではむしろ、著者自身が同じ本の中で指摘しているように、「石油はその“黒い黄金”の魔力をもって支配者を堕落させ」るという側面の方が、より強力に働いたのではないだろうか。また、黒かろうが白かろうが、黄金だけでは「愛」を買い占めることはできない。表面はともかく陰に回れば、アラブ世界でクウェイト人ほど憎まれ、軽蔑されている一族はいないようだ。その象徴はもちろん、サダムの借金申込みに対して、「女房を街角に立たせて稼がせたらどうだ」と侮辱したらしい男が皇太子の、あのサバハ家である。
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