『湾岸報道に偽りあり』(24)

第二部:「報道」なのか「隠蔽」なのか

電網木村書店 Web無料公開 2001.2.1

第四章:ジッダ会談決裂の衝撃的事実 4

サダムの故郷タクリットから伝わった昔話の「真実」

 ところが、『湾岸戦争/隠された真実』の日本語版が出てから五ヵ月後のこと、『朝日ジャーナル』(91・9・20)の海外出版案内欄を一読した瞬間、「ウムッ」とうならざるを得なかった。

『 FROM THE HOUSE OF WAR』(『戦争の家から』)という新刊書の書評が、次のような調子の荒筋紹介になっていたのである。

「西側ジャーナリストで最後までバグダッドに残ったBBC記者の湾岸戦争秘話。……一触即発と見えたときムバラク、ファハドの斡旋でジッダ会談が決り、戦争はこれでないと、サダムさえ信じた。すべてを打ち壊しにしたのはクウェイトのサアド皇太子。イラク代表にあろうことか、『海の水でも飲んでいろ……女房を街角に立たせて稼がせたらどうだ』と。それと分るサダムの出生と母親への当てこすり。翌八月二日、イラク軍は雪崩をうって侵入。サダムに“一分の理”か」

 いやはや、これが本当なら大変な「個人的侮辱」である。場所は、男どもの誇りの高さでは世界でも屈指といわれるアラブのど真中。「聖地の守護者」ファハド王の宮廷。相手のサダムは、自分の国と較べれば何桁も違う軍事強国の独裁者ではないか。念のため、すぐに『湾岸戦争/隠された真実』をめくりなおしたが、やはり、こういう「秘話」はまったく載っていない。ただちに洋書店に電話をして『戦争の家から』を注文し、航空便で取り寄せを頼んだ。そのとき不思議に感じたのは、これだけの「個人的侮辱」の「秘話」が、他のルートからはまったく聞こえてこなかったという事実である。またその後にも、『朝日ジャーナル』の書評を見て騒いでいる人もいないようだ。ほっぺたをつねりたくなる気分だった。

 十月二十一日、洋書店から入荷通知のハガキが届いた。ただちに駆けつけて買い求め、帰りの電車の中で急ぎページをめくる。問題の箇所は一〇八ページであった。情報源については「well-inform-ed observers」とあるのみ。単に「複数の確かな消息筋」と訳すべきか、オブザーヴァーに「会議の出席者」の意味を見るべきなのか。推測しても無意味だろう。著者は、情報の確実さを匂わせつつ、しかも情報源をぼかそうとしているのだから。

 先の書評の記述は簡略化されてはいるが、ほぼ原文どおりだった。

「それと分るサダムの出生と母親への当てこすり」の部分は、遂語的に正確に意味を追って訳すと、次のようである。

「テーブルを囲んでいた皆は、彼がなにを引き合いに出しているのかを知っていた。タクリットから伝わった彼の母親と彼自身の私生児としての出生に関しての、例のよくある話(複数)で、それらは若い頃のサダムの人生を惨めなものにしたものだった」

 日本の報道で一般に伝えられている話では、サダムの父親はサダムが生まれる前に死に、母親が再婚したので異父弟が何人かいる、ということだった。だが、現地では、別の噂が流れていたようである。その後、『フセインとゴルビー/王の明暗』を入手した。著者はアメリカ人で、「イスラエルにおけるイラク研究の第一任者」を主な情報源としているようだから、一応疑問符をつけておく。ここでは「フセインの出生はうやむやなままだ。……父親がだれなのかもわからない」としている。

 私が、ここまでの話を、イラクでながらくプラント建設にたずさわり、湾岸危機後に日本にもどってきたばかりの知人にしたところ、彼は深く息をのんでから、こういった。

「それはね、事実だとすれば、アラブ人の間では最大の侮辱ですよ。仕返しをしなかったら、サダムの人生は、それで終わりだったでしょう。イラクでの権力は保てませんよ」

 さて、ことの真偽はともかく、BBC記者のジョン・シンプソンは、さらに続ける。

「会談が決裂して、イラク代表団はバグダッドにもどった。サダムは、皇太子がしゃべった言葉を聞いた瞬間に激怒した。情報源(複数)の話では、サダムはその場でただちに、イラク軍にクウェイトへの進軍を命じたが、その命令は、ルメイラ油田地帯やムトラ山脈で停止してはならない、クウェイト全土を占領せよ、であった」

 ジョン・シンプソンの「確かな消息筋(複数」の信頼度は不明である。だが、この「個人的侮辱」と「クウェイト全土を占領せよ」という即断の命令変更の話は、奇妙にも、他の情報と符節が合うのだ。

 一つは、先に紹介した『石油資源の支配と抗争/オイルショックから湾岸戦争』』で教えられて調べた報道だが、『インタナショナル・ヘラルド・トリビューン』(91・3・8)の「クウェイトはイラクの計画を知っていたと将校は語る」という見出しの記事によると、バスラの領事館勤務のクウェイト駐在武官は「共和国防衛師団内部の通報者」など複数の情報源による再確認の上、七月二十五日の時点で「八月二日に侵攻計画」の報告を本国に送っていたという。

「アメリカはイラクの侵攻以前からクウェイトに特殊部隊を埋め込んでいた」という現地取材記者からの耳情報もあり、その作業にはクウェイト当局の協力も必要だったはずだ。この他にも、事前情報に関する報道はいくつもある。  

 もう一つ、これも色々なルートですでに広く流されているが、イラク軍が国境を越えたという報告をベッドで受けたサアド皇太子は、最初、係争中のルメイラ油田地帯とペルシャ湾の島が占領されるだけと考えて、すぐには起きようとしなかったという。

 サアド皇太子が、その後、自らの「やりすぎ」がサダムの予想以上の怒りとクウェイト全土の占領への計画変更を招いた、と気づいたか否か。真相は「薮の中」だが、『湾岸戦争/隠された真実』によると、ジッダからの帰途、サアド皇太子は気掛りな様子で、従者に「災難の予感」を打ち明けていたという。

 この「個人的侮辱」は、事実だとすれば確かに決定打だろう。だが、それだけが歴史を大きく変えたものといえるかどうかは、「クレオパトラの鼻の高さ」の評価と同様で、計算して答えが出る問題ではない。独裁者サダムが回想録を残したとしても、それが真実かどうか、断定はできない。衝突事件の細部の相違よりも、それを誘発した仕掛け網の大きな構図に、歴史の必然を見るべきではないだろうか。そういう意味では、この「個人的侮辱」は、湾岸危機にいたる歴史構造を最も象徴的に表現しているといえよう。

 これらの「歴史構造」を見えにくくしたものが、イラク「悪魔化」宣伝の数々であった。


第五章:イラク「悪魔化」宣伝の虚実
(25) クウェイト「領有」の歴史的経過と評価