第一部:CIAプロパガンダを見破る
電網木村書店 Web無料公開 2000.12.3
第二章:毒ガス使用の二枚舌疑惑 4
問題の「アメリカのジャーナリズム」の先輩は日本か
アメリカの実状を批判的に伝える材料は、湾岸戦争後に次々と現れた。共同通信でニューヨークとワシントンの支局長を経験した藤田博司による『アメリカのジャーナリズム』(91・8・21初版)などによって、新しい状況が明らかになっている。
すでにふれた「巨大情報操作」の他にも、いくつかの雑誌記事で、アメリカの最新マスコミ事情、特に、「報道操作」の手法の発達状況が指摘されている。
私はとりあえず『噂の真相』(91・5)の小文中に「謀略リークを垂れ流したマスコミ」という項目で、それ以前のアメリカに関する知識と、日本の民間放送二十七年半の経験から、当時の湾岸戦争報道状況を次のように批判しておいた。
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マスコミが戦争をあおることは、別に珍しくもなんともない。そういう政治的構造自体は、いささかも昔と変わってはいない。時折「ジャーナリズム本来の役割」などと力む人もいるが、実はこれこそが、ジャーナリズム本来の姿なのである。ジャーナルの語源はラテン語のディウルナであり、古代ローマの軍事指導者カエサルが始めた日刊官報の名称に由来している。カエサルはローマと戦場の間に早馬を走らせ、常に首都の動きを知るとともに、自らの戦いぶりを宣伝したのである。ゲルマニア発「来たり、見たり、勝てり」は、勝利の日の将軍の大本営発表であった。
今回の特徴は、主犯のアメリカがヴェトナム戦争報道で懲りていたため、最初から計画的にことを運んだ点にある。アメリカ軍は、最初に報道規制を強く打ち出して、マスコミを牽制した。だが、情報を流さなかったわけではない。最初のパンチを利かせた後に、ここ十数年、ますます磨きをかけられたマスコミ操作のジャブ、フックが、次々と繰り出されたのである。
簡単にいうと、まずは裏口リーク方式。
マスコミの弱みは、報道する材料がないと商売にならないという仕組みにある。そこで、昔は「台所口からゴミのエサをもらう」と軽蔑されていた「某高官」からのリーク取材が、次第に一般化した。ろくな取材もせずに「私の情報源が……」などと得意顔で語る高名な記者が次々に登場する仕掛けである。
正式発表の手口も基本的に同じである。
ノドが乾いて何にでもしゃぶりつく状態に陥ったマスコミに、適宜必要な情報を流す。パクッと争って飛びつくマスコミは、最早、速報競争のメカニズムに身をまかせきり。裏を取る努力もせずに、そのままウノミで報道する。油まみれのウミウ報道の早トチリが典型例である。官製発表とリークに頼り切り、自分の頭で考える習慣を失ったマスコミのサラリーマン「記者」と「デスク」は、見事に利用されてしまった。
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アメリカの「サラリーマン『記者』と『デスク』」の状況判断に関しては、のちに第三部で紹介するような、ヴェトナム戦争後に暴露されたCIAとの密接な関係が重要なヒントになっていた。当時、CIAとの関係を疑われた「新聞・通信・雑誌・放送」のジャーナリストは四百人以上もいたのだが、彼らは今、健在なのだろうか。その後に「CIAパージ」の情報がなかったことから推測すると、おそらく無事に出世し、現在のマス・メディアの支配層に食い込んでいるのではないだろうか。これが私の「恐怖」であった。
先にあげた論評以外にも、「アメリカのマスコミは『階級』社会だ」(『中央公論』91・7)や「“スピン・マイスター”ブッシュの怖さ」(同誌91・8)など、次々に現地からの新しい報告が入ってきた。「アメリカのジャーナリズム」の現状は、さらに複雑怪奇な発達を遂げていた。だが、私の推測は基本的に当たっていたと自負しても良いだろう。アメリカ独自の問題もあるが、日本でも早くから「番記者」あり、「夜討ち朝駆け」といえば勇ましいが散歩のおともの「ポチ記者」あり、止どめを刺すのは丸抱え「記者クラブ」といった具合で、なにもいまさら驚くことはない。
「記者クラブ」をめぐる諸問題の根底には、大手メディアという巨大企業による言論支配がある。企業集団の論理が先にあり、結論が先に決まっているような報道では、決して真相に迫ることはできない。究極の問題はやはり、個人の思考能力に帰着する。なぜならば、ものを考える神経組織は、いかに科学技術が進歩し、社会が巨大化しようとも、あくまで個人所有なのだからである。
個人と組織の関係は、それぞれが個体生物として生存する人間および人間社会の永遠の課題、極言すれば、おそらくは解決不可能な難問である。それを無理に結論づけ、強制してきた過去の諸組織の誤りは、最新の現象としてもソ連型「社会主義?」の崩壊で、ものの見事に証明されたばかりではないだろうか。組織に従属し、組織に甘える個人の脳ミソは、毎日まぜなければ腐るヌカミソと同様に、神経回路の硬直化、思考能力の低下をきたすのである。
取材以前にも、取材対象に関する予備知識を仕込むことが必要である。予備知識のない問題に関しては、「見れども見えず、聞けども聞こえず」、いくら見ても聞いても理解は困難だからである。ところが、いわゆる労働強化の問題もあるが、専門書とはいわずとも初歩的な教養書程度の文献すら読まずに、デスクの命令だけで取材に飛び出す例が非常に多い。掛け声だけは「調査報道」といいながら、専門知識を仕込まずに当局発表にたよるから、その信憑性を疑い、裏を取る努力は放棄される。
当局発表をくつがえすことなどは、最初から不可能な構えであり、ましてや、当局発表のない問題に関しては、手掛りさえつかめなくなっている。
大手メディアは「被害者」などではなく「共犯者」
そこで次の課題は、当局発表による積極的な宣伝という、いわば陽性の謀略の裏側に潜む「事実の隠蔽」というメカニズムである。
元ニューヨーク支局長など英米圏での長い記者経験を持つ友人の一人は、私が湾岸戦争に関するアメリカの発表についての感想を求めると、即座に、今頃そんな初歩的なことを聞くな、といわんばかりの口調でこう答えた。
「ハハハハッ……当たり前だよ。あれだけ熱心にPRするのは、それだけ隠したいことがあるからさ。アメリカは、そういう国だよ」
もちろんアメリカにも、「隠したいこと」を暴く反体制の言論活動がないわけではない。
朝日新聞(91・10・15)の「メディア」欄は、「民衆のメディア国際交流91」計画を紹介したが、その目玉企画の一つに、ニューヨークの市民参加・自主制作テレヴィ局「ペーパー・タイガー」の湾岸戦争特集があった。私自身もこの運動に参加し、週一回三十分だけケーブル・テレヴィで放送していたという番組のヴィデオを、都合六本入手した。話に聞いてはいたものの、三大ネット・ワークがほとんど無視したという最大「十五万人」もの全米各地の反戦デモが、「 NON CENSORED 」(検閲なし)の説明つきで次々と画面に現われたときには、やはり息をのんで見詰めた。「民衆のメディア国際交流91」に参加するために来日した若い女性のプロデューサー、キャシー・スコットの報告によると、「ペーパー・タイガー」は湾岸危機報道に当たって、全米の映像ジャーナリストに何千通もの手紙を送り、協力を求めた。番組の中でも視聴者に「ヴィデオを撮って戦おう!」と呼びかけた。衛星回線を利用して各地で撮影された「ヴィデオ」を集め、編集し、さらにまた衛星回線で送り返すことによって、全米のケーブル・テレヴィにネットしたというのである。一週間に三十分だけという時間的な制約はあるが、その意気込みは大変なものだった。
「ペーパー・タイガー」の気取りのない学者風の素人解説者は、三大ネット・ワークや大手の新聞を痛烈に批判し、ブッシュ支持率九〇%の調査は白人だけのもの、黒人の戦争支持は一〇%のみ、などと語っていた。
三大ネットワークの本社ビルを映写幕がわりに使って映像による抗議をする場面などは、やはりアメリカならではの創意工夫だと感心した。しかもそれが、市民参加の自主放送局という実績を持ち、大衆的な集団の力に支えられ、地面に足がついた立場からの批判なのだ。これは凄い。ズシン! と感じ入り、腹の底に響く実感であった。
湾岸戦争後には「メディアが被害者」という論評が世界中で流行した。ペンタゴンの報道管制によってメディアは「被害」を受けたというのだ。日本の大手メディアも一斉に、この「被害者スタンス」に身を潜め、自らの報道責任(武力行使と戦費支出煽動の戦争犯罪)をほおかむりしようと努力している。ほんの少し自己の努力不足を認める例があっても、「次郎」ザルの「芸術」的な「反省ポーズ」ほどのアピールもなく、心の底からの反省という感じは伝わってこない。
だが、大手メディアの総本家アメリカでは、ペイパータイガーがいちはやく「被害者」の欺瞞を告発していた。
開戦の七日前に当たる一九九一年一月十日、『ザ・ネイション』ほかの出版十社と五人のジャーナリストがニューヨーク連邦地裁に「報道規制の発効停止」を求めた。だが、ペイパータイガーは鋭く指摘していた。
「三大ネットワーク、CNN、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストは、この提訴への参加の呼びかけを拒否した」
戦後の六月二十五日、これらの大手メディアをも加えた「米マスコミ十七社」が「湾岸戦争における報道規制問題」に関する報告書を発表し、「戦争報道の十原則」を提言した。まさに言葉通りの「あとの祭り」なのだが、これを日本の大手メディアは「アメリカのジャーナズムの良心」だと高く評価した。しかし、その後に伝わってきた現地情報によると、アメリカの大手メディアのトップたちは、湾岸危機の早い段階から国防総省や国務省の高官たちとの会合を重ね、内々に話をつけていたらしい。先に記した提訴の前日、一月九日には、大手メディアのトップたちの名でチェイニー国防長官への抗議声明、書簡などが出されてはいるものの、どうやら子供だましの田舎芝居の気配が濃厚である。なんでもすぐに訴訟に持ち込む習慣のアメリカで、単なる「お手紙」などは笑い草でしかないのだ。
六月二十五日の報告と提言は、一月十日の提訴メンバーなどの、下からの突き上げなしには考えられない。しかも、提言を裏側から読み直すと、問題の「プール取材」を「作戦開始から二十四時間ないし三十六時間」に限るとしながらも、別途に「物理的な障害を理由」として認め、「記者は軍の証明書を必要」とし、「規則違反は域外退去などの罰則」まで適用としている。これではまるで「屈伏宣言」ではなかろうか。
夢々、大手メディアに「良心」を期待してはならない。これが湾岸戦争報道の真の教訓である。彼らは古今東西、権力の共犯者なのだ。普段は天気予報のように実用的な情報を提供することによって大衆の信用を獲得することにつとめ、チャンネルそれぞれに独自性を装うが、「Xデイ」や「湾岸戦争」のように「いざ鎌倉」という時には、見事に「報道協定」に従うのである。かつての日本陸軍報道班と、どれだけ違うというのだろうか。
牙を抜かれたメディアには、発表報道の「流動食」を飲み下すことしかできず、ましてや、権力の喉笛を噛み切ることなど、望むべくもないのだ。
だから私は、「隠蔽」というメカニズムを、あえて、大手メディアまたはマスコミが内在的に持つ機能の一つに数えるべきだと主張する。「ブラックアウト」は軍の規制によるものだけではない。
「マスコミ・ブラックアウト」の方が、むしろ基本なのだ。大手メディアが報道しない事実は、たとえそれが実在するものであっても、法廷に提出されなかった証拠と同様に、世間一般には存在しなかったこととして取り扱われてしまう。それが現代の大衆メディア社会なのである。
(16) 第二部:「報道」なのか「隠蔽」なのか へ