第五章 ―「疑惑」 7
―ラジオ五〇年史にうごめく電波独占支配の影武者たち―
電網木村書店 Web無料公開 2008.5.30
統一NHK理事長は汚職王
「人類は本来一つの文明に統一されるべきもので、その間に区々とした人種差別があってはならない。その意味からすれば、地球上には放送局が一局あれば足りるわけであるが、言語、習慣、風俗の相違から実際にそのようにはまいらない。しかし、言語、習慣、風俗の等しいわが国では、正しく一局で足りるわけである。それが現在のように三局に分れているのは、放送事業の本旨からいっても、まことに不便というほかはない。よろしく三局は合同すべきである」(『放送五十年史』四二頁)
後藤新平の演説である。一九二五(大正一四)年七月一二日、東京放送局の本放送開始記念祝賀会で、後藤はすでに、統一NHKの構想をぶち上げたのである。
後藤自身は、NHKの成立をみて、放送から離れるのであるが、後継者は準備されていた。東京放送局初代理事長、NHK(日本放送協会)初代会長、岩原謙三である。この岩原を東京放送局の理事長に推薦したのは、すべての資料で、明確に後藤新平とされている。
岩原もしくは芝浦製作所は、最初の主要出願団体六者には、はいっていなかった。それが社団法人化の定款起草委員に加わり、その座長に推され、ついには理事長の座を占めるにいたるのである。NHKの正史は、この間の事情を、こう要約している。
「岩原氏が座長に推されたのは、その閲歴、年輩、大メーカーたる芝浦製作所の社長であることのほかに、他の出願者のように各方面との因果関係がなかったためであると伝えられている」(’51『日本放送史』九八頁)
ともかく岩原謙三は、後藤新平の演説どおりの統一NHK実現へむけて、その努力を傾けた。東京・大阪・名古屋の三局合同は、中国・九州・東北・北海道への新局設置、大電力化(一五〇キロワット)、全国鉱石化という、急速な全国的放送網の設置強化をも目的としており、陸.海軍からの横槍もはいるという大事業であった。
岩原の急逝のあとに会長を襲った小森七郎は、その間の岩原の役割について、つぎのように追想している。
「既存三法人の解散は、協会成立後に持ち越されて、八月二〇日に漸く実現したのであったが、その裏には協会初期役員の大臣指名など、逓信省の措置をめぐって内心穏かならぬ旧法人側のこだわりもあって、逓信当局を焦慮させた。協会の初代会長の岩原謙三さんが、表面には出なかったが、この間の解決工作に力を注がれたことは、まことに並大抵のものではなかった。
岩原さんは、三井の大御所といわれる社会的地位と世間の信用をもった、実業界の大物であった。旧東京放送局の理事長として、協会設立までの過程では、既存三法人の要求や不満の調整にあたり、その熱意は無言の威力となって、当時、目を光らせて背後に控えていた、発言力の強い有力新聞社や実業界の団体などにまでおよんで、とにかく、三局の解散に持っていかれたのである。もしこの統一が狙いどおりに運ばなかったら、わが国の放送事業は、自ずから別の道をたどったはずである」(『逓信史話』上、四九七頁)
この小森七郎は、逓信省東京逓信局長からNHK常務理事になったのであるが、統一NHKの常務理事は、八名ともすべて逓信省出身者で占められることになり、「逓信省横暴のかたまり」(『東京朝日新聞』一九二六年八月七日)など、非難が集中していた。八名中七名は、逓信省から直接の横すべりで、新名直和のみが旧東京放送局のただひとりの常務理事経験者であった。といっても、この新名自身が、東京放送局設立時に、後藤新平の要請で、逓信省東京中央電話局長から横すべりしたのであるから、およそ常務理事たるもの、すべて逓信省から直接の天下りであったといえるのである。
このような、逓信官僚だらけのNHKのなかで、「民間」の岩原謙三が苦労したというのであるが、この人物がまた、大変な「実業界の大物」だったのである。
岩原謙三は、いまでいえば、商社丸紅の元専務、大久保利春のような立場にいたことのある人物であり、むしろ、それより格が上であった。つまり、歴戦の大型構造汚職のプロであった。
この点であまり深入りすると、他の登場人物、つまりは、それぞれに汚職事件にかかわりをもったお歴々に不公平になるので、簡単な資料紹介にとどめることにしよう。
松本清張編の『疑獄一〇〇年史』によると、かの「シーメンス・ビッカーズ事件」の主犯は、三井物産の「取締役で造船関係を受持っている岩原謙三」(同書一〇八頁)であった。岩原は、被告として証言し、その手口、帳簿の書きかえの事実などを告白する。しかし、一度覚えた味は忘れられない。また、汚職のつみ重ねにより、共犯者がふえる。汚職の「構造化」といわれる状況になる。ついで同書は、構造汚職の典型として、例を引く、……
「鉄道省の疑獄にかかわりのある芝浦製作所の社長は、シーメンスおよびビッカーズ事件のときの被告、元三井物産(放送機の輸入元―筆者)の岩原謙三であることを想い起せばよい」(同前一六二頁)
しかし、ことは、公共資金のつまみぐいだけでは終りにならなかった。
「時局の様相は緊迫化の一途をたどり、政治、経済各般の体制には、いよいよ変転のあわただしさが加わった。事業施策も従って多端となったが、その上に朝鮮、満洲、華北などの放送にも手を伸ばすことになり、あるいは、それに資金上、技術上の援助をあたえ、あるいは、その経営の全面を実質的に担当することにもなったのである。
すでに放送の威力が、いわゆる軍官民の各界層の間に、極めて高く評価されていたことは、いうまでもない。それで当時の全勢力圏をおおう、いわゆる精神総動員運動には、絶好、最有力の機関として、放送の機能発揮が期待された。永田秀次郎氏が全国ラジオ体操の会の会長に推されたのも、その頃であった」(『逓信史話』上、五一二頁)
昭和の戦争史とともに流れたラジオ体操のはじまりは、一九二八(昭和三)年である。提唱者とされる田辺隆三は、当時逓信省簡易保険局長であったが、ラジオ体操の効果として、「一斉運動による集団精神の涵養」(同前五一四頁)を強調していたそうである。
ヒットラーがラジオ宣伝を重視し、やはりラジオ体操の効果に注目していたのは、有名な話であるが、ヒットラーの政権掌握は、一九三三(昭和八)年である。日本のラジオ体操は、その五年前にはじまり、しかも、ラジオ体操の会まででき、会長におさまった永田秀次郎は、元東京市長といえばきこえはよいが、その前には内務省警保局長、つまりは言論取締りの元締め経験者だったのである。そして、さきにふれたように、後藤新平の四天王の一人といわれた人物でもあった。
日本のラジオ網の設置が急がれたのは、このような精神総動員の目的にあったのは、もちろんのことである。さきにふれた後藤新平の仮放送実施記念の演説にも、すでにその目的は、はっきりと表現されていた。
このような点からみると、列強に伍して、新たな帝国主義戦争、海外進出を準備しつつある日本にとって、ラジオ放送網の設置は、ひとつの国際戦争でもあった。そして、もともと、日本の近代物質文明、国家制度のほとんどすべてがそうであったように、ラジオについても、海外への視察団が編成され、日本独特の工夫も加えて、最も資本主義的、侵略的に練り上げられたといってよいのである。
ところで、こうなると、読売新聞が正力社長の下で、他紙に先がけて「ラジオ欄」を特設しているのだが、この話も、単なる「商才」とかエピソードとしては、聞きのがせなくなる。事実、かたや治安維持法、かたや新聞=ラジオのマスコミ大合唱のなかで、反動・反共・侵略のラッパがひびきわたったのである。
そして二〇年後、敗戦の悲惨のなかで、ふたたび“蛮勇”男、正力松太郎が立つ、……
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