終章 ―「競争」 1
―インベーダーの狙いをくじき、撃退する手段はどこに―
電網木村書店 Web無料公開 2008.6.2
戦争責任回避からの再出発
戦後の二次にわたる読売争議は、その後のマスコミだけでなく、日本の労働組合運動、ひいては日本資本主義の構造を左右する大事件であった。
「正力が敗戦にともなう左翼の『暴動』を予期し、『これを鎮圧できるのは、警察出身の俺しかいない』として」(山本『読売争議』一七頁)、妥協なきたたかいを挑んできたことも、「かかる正力の立場を支持し、正力の精神的支えとなったのが、財界巨頭の一人、藤原銀次郎であったこと」(同前一六頁)なども、いささかオーバーな表現のようだが、現場の闘争の真相であろう。時が時だけに、対する労働組合と、その支援団体の側にも、同じ程度の気負いはあったのである。現実の闘争とは、そういうものである。それぞれが、単に我欲だけでなく、善悪はともあれ、自己の双肩に世界の運命がかかっていると自負するような時、その闘争は、その経過と情勢においても、主体的な力量においても、天下分け目の闘いになっていくのである。
この時、正力は、すでに六〇代の老人。しかし、この後、巣鴨プリズンを出たころの正力に会った高木健夫は、まだ四〇代の若さなのに、しょっぱなのあいさつから圧倒されている。
「『おう、おう、君か。フケたなァ、年老(としと)ったなァ、君は』
これではどっちがいたわられているのかわからない。なるほど、『正力社長』は元気溌剌(はつらつ)としてイキがいい。それにひきかえ、そのかみの生意気なチンピラ記者、今や白髪。
『僕は毎日泳いでいる。毎朝三〇分ずつ海へはいるンだ。うん』
そういってスシをつまんだ。モリモリとたべた。二〇年前のまずい夜食をたべた時と同じように……」(『読売新聞風雲録』四四頁)
いわゆる「怪物」なのである。こうでなければ、八四歳までワンマンの座を守れはしない。
この怪物が、八月末には毎日の奥村信太郎社長が自主退社、朝日の村山長挙ら四〇社の新聞社社長が、戦争責任追及の世論のなかで、つぎつぎに退陣したとき、ひとり、「戦争責任は諸君からうんい(云為)されるべきものではない」(『八十年史』四八三頁)という強圧姿勢で居直ったのである。ここにはじまる二次の争議については、すでにくわしい労作もある。本書はそのうち、本書のテーマにそって、今日につながる「体質」と「競争」にかかわる特徴的事件のみを、ひろうにとどめたい。
簡単な経過をみると、つぎのようである。
一九四五年九月一三日、論説委員で、のちに編集局長兼組合長となる鈴木東民らの上級職制暦による「民主主義研究会」が、正力社長に、左の五項目の要求(要旨)を提出した。
一、社内機構の民主主義化
二、編集第一主義の確立
三、戦争中国民を誤導したる責任を明らかにするため主筆および編集局長の更迭
四、人事の刷新
五、待遇の改善、共済組合の自治化、厚生施設の拡充
正力の回答は、「意見の趣旨には異存がない。社として改善すべき点は刷新する。しかし、戦争責任のため、主筆、編集局長の更迭を実行する意志はまったくない」(『八十年史』四七八頁)。
民主主義研究会の社内公認の要求に対しては、「強いてつくるなら、社を辞めてもらいたい……(略)……この社はおれの社だ。勝手なことはさせない」(同前四八二頁)。
かくして、九月二二日には社員大会が開かれ、「われらは戦争責任を明らかにするため、読売新聞社員大会の名をもって、社長、副社長以下全重役ならびに全局長の総退陣を要求す」(同前四八三頁)、の決議が採択された。
しかるに正力は、前述のごとく居直り、「退職する意志はない」(同前四八三頁)と明言するとともに、逆に、鈴木ら五名に退職を申し渡したのである。
ここから、職場管理闘争、従業員組合の結成がはじまる。この第一次読売争議は、正力のA級戦犯指名により、東京都常設労働争議調停委員会の調停の場で、「正力氏の推薦する馬場恒吾氏を社長」(同前五一六頁)とするなどの条件で解決した。
この直前に、正力は、『読売争議の真相』と題するパンフレットをつくった。予定では一〇万部もつくるところだったが、GHQの検閲で発行禁止となったので、三〇〇〇部刷って友人知己に配布したと説明されている。しかし、三〇〇〇部というのも、関係者向けのパンフとしては相当な部数であるし、なによりも、検閲の過程で、GHQに五○部も渡されている。そして、内容をみると、明らかに、GHQ向けの弁明にほかならないのである。その意味では、正力のパンフ発行は、充分に目的を果したといえよう。正力は、すでに戦犯指名・投獄の時期が近づいていることを察知し、早期釈放へむけての「たん願書」として、パンフを用意したのであろう。そして、冒頭にも、「マッカーサー司令部より戦争犯罪容疑者として取調べを受くることとなりましたが、戦争責任問題については、わたしの陳述によって諒解をえられるものと信じております」(『資料』六集、六九頁)と記している。
GHQへの弁明の要点をみると、おどろくなかれ、自分は軍部とたたかって、「ナチばりの新聞統制理論」(同前七二頁)から「新聞の自由」を守ったのだ、そして、「実際に紙面をつくったのは社員である……(略)……共に犯罪を犯しながら相手の犯罪のみを非難して、これを追出し」(同前七三頁)、「経営権をわれわれの手より奪取せんとしている」(同前七四頁)のは許せない、という筋書になっているのである。
後半のヘリクツは論外として、正力がしきりに自己宣伝する「軍部との抗争」(同前七二頁)の実状は、どういうものだったのであろうか。
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