『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(4-1)

第四章 ―「暗雲」 1

―内務省高級官僚たちの新聞界乗りこみ大作戦―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.27

正力の手に落つ、鳴呼

 正力松太郎が読売新聞の社長として、血戦を覚悟の乗りこみを敢行した日のことを、御手洗辰雄はこう書いている。

 「この日、同業朝日の夕刊短評には『読売新聞遂に正力松太郎の手に落つ、鳴呼』と出ていた。それほど不人気、まさに四面楚歌である」(『日本新聞百年史』三七一頁)

 一方、現在の読売新聞社は、この「不人気」そのものの人物を、いかにも期待の人であったかのように描きだしている。中興の祖とあってみれば、いたしかたなしと考える向きもあろうが、たとえ国家元首であろうと、その国家拡大の業績如何にかかわりなく、事実と評価を正確にするのが、本物の歴吏というものである。その意味では、『百年史』も、あらゆる社史と同様、いまだ私史の範囲内にあり、皇国史観にもとづく日本史と同様の状態といわざるをえない。

 ともかく、常識として、新聞経営の建て直しに最適なのは、当時も今も、新聞人として成功し、実績のたしかな人物であった。

 松山忠二郎をむかえる時の読売新聞、そしてやはり元新聞記者の原敬を、当時破格の高給でむかえた大阪毎日新聞、そしていま、「小林さんは官界から新聞界に入ってまだ二、三年しか経っていないではないか」(『闘魂の人』三〇頁)という友人の助言をいれて、正力亡きあとの読売新聞経営の責任を再確認したという務台光雄の話にいたるまで、すべてそうである。

 当時も今も、これが常識なのだから、正力の読売新聞乗りこみには、世聞はおどろかざるをえなかった。新聞界の共通した認識ということで、『日本新聞年鑑』一九二四(大正一三)年版をみると、三ページにもわたって、「読売の社長更迭」、「整理と社員不安」、「悪資本家の非難」という三つの見出しを使い、読売新聞を中心的に取り上げている。

 「社長松山忠二郎君の引退するとともに、前警視庁警務部長正力松太郎君の、かわって同社長に就任した一事は、ひさしく読売新聞の復興の遅々たるをいぶかしんでいた斯界をして、むしろ、大いに驚倒せしめるものがあった」(同年鑑二頁)

 ということなのだが、その背景はなにか。とりあえず、経過の要点を追ってみたい。

 「どうせ新聞をやるなら、少しでも格のいい、信用のある新聞がいいし、あまり上級の新聞を手放す筈はないが、読売は当時ひどい経営難だったから、もし手にはいるなら、この方がいい」(『伝記』一三二頁)

 これが正力の、読売新聞をえらぶ理由であったという。それも、「少し話がうま過ぎてタナボタのようだが」(同前一三三頁)と、つけくわえざるをえない程、垂涎おくあたわざる機会だった。

 そして、関東大震災の被害がいかに大きかろうとも、以上のような読売新聞の社会的評価に変りはなかった。大阪の大阪日日、名古屋の新愛知などの有力紙も、東京進出の拠点として、買収に動いていた。そして……

 「もちろん、松山社長は東西に奔走した。この歴史あり、特色ある新聞を復興せしむるは自己の使命であるとなし、工業倶楽部、日本倶楽部等の実業家に連日の会見を重ね、ようやくにして、その諒解を得るにいたるや、突如として社長更迭の幕は、切って落されたのである」(『日本新聞年鑑』’24年版二頁)

 こういう経過だから、抵抗は大きかった。

「正力君、ここはポリのくるところじゃない。生意気だよ、君が社長なんて。帰れ帰れ」(『伝記』一四二頁)

 これが、正力乗りこみの当日、その就任演説に向けられた抗議の声であった。また、正力が、「社務の統轄をする総務局長には警視庁で当時特高課長であった小林光政、庶務部長には警視庁警部庄田良」、「販売部長には警視庁捜査係長をしていた武藤哲哉」という、「腹心をもって固めるやり方」をとった際には、「これがため新聞界では、読売もとうとう警察に乗っ取られ、警察新聞になって終うのかと歎声やら悪口やらが出た」(同前一四四頁)。

 このように、ポリであり、警察であり、特高であり、およそ大正デモクラシー期の新聞人とは正反対の、日常普段に新聞記事を検閲していた当の仇敵役が、みずから新聞に乗りこんだのである。反発は当然のことであった。

 正力講談は、ここで、正力を持ち上げるためにとはいえ、いかにその抵抗がはげしかったかをも、物語ってしまうのである。正力は、その抵抗をくじき、うちたおすのである。そして、その有様は、これまでの正力の歴戦の勇士としての経歴にもかかわらず、悲愴なまでのものであった。

 「その後、死んだ後藤圀彦が、筆者に物語ったことがある。いよいよ乗りこむ日の朝、工業倶楽部で河合良成と三人で会ったが、『いよいよこれから乗りこむんだ』といった時の正力の顔は、さすがに緊張して、あの太々しい男が武者振いしておった、と」(同前一三九頁)

 この朝の出陣の場、日本工業倶楽部は、いまも東京駅丸の内北口にあり、日経連も事務所をおく会館である。第一次世界大戦後の一九一八年六月、戦争景気の勢いにのってつくられたもので、「当時としては豪華をきわめた大建築で、『資本家御殿』とよばれていた」(『財界奥の院』二八頁)。会館建設委員長の中島久万吉は、また、読売新聞匿名組合の有力出資者であった。


(第4章2)“討入り”講談の真相