第三章 ―「過去」 1
―読売新聞のルーツは文学の香りに満ちて―
電網木村書店 Web無料公開 2008.5.2
日本最古の大衆向け新聞
読売新聞の創刊は、一八七四(明治七)年一月二日である。名称の継続性からいうと、三大紙のなかでは最も古い。
朝日新聞は、大阪朝日新聞として、一八七九(明治一二)年一月二五日の創刊。毎日新聞の前身は、一八八二(明治一五)年二月一日創刊の大阪日報である。ただし、毎日は、一八七二(明治五)年二月二一日に創刊されていた東京日日新聞を合併しており、こちらの創刊日の方が古いため、この日を全体の創刊日と定めた。
もうひとつ、東京日日新聞が古いとしても、この新聞は、大新聞(政論紙)として出発したものである。読売新聞の方は、最初から小新聞(大衆紙)として出発しているので、その点のつながりはいちばん古いことになる。そして、合併した相手の創刊日でいうなら、読売も報知(郵便報知新聞)を合併しており、この創刊日は、東京日日と同じ年の六月一〇日である。
また、日本最古の日刊紙とされる横浜毎日新聞の創立者のなかに、読売新聞初代社長の子安峻がいた。子安は同時に、日本最古といわれる鉛活版印刷所、日就社の創立者でもあった。日就社は横浜で発足し、英和辞典を刊行した。そのあと、芝琴平町に移って、そこから読売新聞が発行されたのである。読売新聞は、社名変更の一九一七(大正六)年一二月一日まで、日就社発行の読売新聞だったのであり、印刷(プレス)の会社創立で考えると、一八七〇(明治三)年にさかのぼることになる。これまた、日本マスコミ史上最古ということになろうか。
読売新聞の創始者は、子安が大垣藩士、本野盛亨が佐賀藩士、柴田昌吉が長崎の医者の養子という身分で、ともに翻訳方などとして幕府の神奈川奉行(のち裁判所)につとめた仲間であった。いわば準幕臣の出身で、薩長閥全盛の明治維新のなかでは、失業インテリに近い立場であった。
「俗談平話」の「小新聞」(こしんぶん)が、読売新聞の根本方針で、一六一五(元和元)年大阪夏の陣以来とされる「よみうりかわら版」の伝統を生かし、最初は読売屋(よみうりや)とよばれた売子が、鈴をならして売り歩いた。
この方式は、大成功をおさめ、隔日の二〇〇部ではじめたものが、半年後には日刊で一万部を突破、東京での最高部数となる。三年後の西南の役報道で号外三万部と他を圧し、本紙二万六〇〇部、翌年には二万二〇〇〇部と記録を更新、京橋に進出した。
『日本新聞百年史』は、「新聞経営の黄金時代」の見出しで、こう記している。
「いうまでもなく、銀座は今も昔も変らぬ首都東京の中心地である。“土一升に金一升”の高価な地代は相当の支出である。ほとんどが商売抜きで創刊され、収支のほども定かでなかった新聞社が、そろって銀座に集中してきたことは、よほど新聞社の経営に余力がついてきたことを証明しているようなものである。当時は、四〇〇〇部も発行すれば新聞社の経営は楽にできたといわれた時代で、このとき東京日日新聞が七、八〇〇〇部、朝野が一万部あまり、小新聞の読売は二万部をはるかに越えていたのだから、いわば新聞の黄金時代だったわけである」(同書二一二頁)
このように、読売新聞のルーツにおいて、すでに、部数でトップの時代があったのである。読売新聞は、まさに、時のマスコミの花形であった。
子安社長は、この成功を土台に、実業界、社交界でも華々しく活躍した。共存同衆文庫、共済五百名社(生命保険)、貯蓄銀行、扶桑商会(生糸輸出)、芝紅葉館、日本銀行などの創立にもかかわった。
一八七九(明治一二)年には、「読売雑譚」(よみうりざふだん)という、今の社説に相当する欄も設けられている。西南の役、自由民権運動の嵐の中で、小新聞も政論をまじえるようになったのである。『しかし、黄金時代のトップは、他紙の追い上げで奪われ、また奪い返し、一八八一(明治一四)年からは、新しい競争の時代となる。
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