第五章 ―「疑惑」 2
―ラジオ五〇年史にうごめく電波独占支配の影武者たち―
電網木村書店 Web無料公開 2008.5.30
「東洋大放送局」の大風呂敷
「現代および将来における国家生活と社会生活とを支配する一大新勢力の勃興、それがすなわちラジオである。これを成功させ、発達させると否とは、一無線電話の消長のみでなく、実に国家禍福のわかれるところである。……(略)……わが無線事業をして広く世界の模範たらむめよ。この事実をして盛大に、かつ善美ならしめ、もって国家社会の福祉を大いに促進することを期待してやまない」(’51『日本放送史』一三六頁)
これは、東京放送局の正式放送開始の当日、開局式で後藤新平総裁が講演したものの、結びの言葉である。「大風呂敷」のアダ名どおり、後藤は、「放送の聴取者は今後数年を出ずして幾万、幾十万に達するであろう」とものべたが、その予想は当った。わずか一年後の三局統一の時、聴取者数は三三万八○○○を数えていた。
もうひとつの大風呂敷に、「東洋大放送局」という侵略的色彩豊かなものがあったが、これは、後藤の生存中には、実現しなかった。
そのことはさておき、日本のラジオ放送発足当時、具体的な構想という意味で、早くから「ラジオのアイデア」を抱いていた人物はだれかといえば、やはり後藤新平をぬかすわけにはいかないだろう。もちろん、重要人物のうちでも、何人かは挙げられる。「日本資本主義経済建設の指導者」という表現がピッタリの、渋沢栄一も、その一人である。渋沢は、統一放送局のNHK発足当初から顧問となり、みずから創立した国立第一銀行を通じての財政援助をしていた(『逓信史話』上、五〇一頁)。その前には、すでにふれたように、市川正一や青野季吉が入社した国際通信社をつくっているし、目先のきくことでは第一級の人物である。
ラジオの技術的な面ではどうかというと、すでに一九〇七(明治四〇)年に、逓信省電気試験所で、無線電話の研究がはじまっている。
「欧米の電波科学が、民間の研究室から産ぶ声をあげたのとは対照的に、わが国では、その導入、研究の主体が、いずれも政府機関(逓信、陸海軍、国立大学など)であった」(『民間放送十年史』八頁)
後藤新平は、この実験開始の翌年、一九〇八(明治四一)年に、逓信大臣兼鉄道院総裁となっている。まさに、最新の研究を、直接の報告によって知りうる立場にいたわけである。後藤はまた、逓信省に電気局を創設しているし、電信電話事業の近代化をも計った。無線の電信、有線の電話、その延長線のまじわるところ、無線電話の実現は、その時、あと一歩のところにあったのである。
後藤は、訓辞や意見書、翻訳、講演録の数々を残しているが、なぜか自分自身については書き残すことがなかった。医者としての人生のスタートが、実際家の性格を形づくったものであろうか。それとも、内務大臣の経験が、機は密なりをよしとす、という人格を完成したものであろうか。ラジオの創始に関しては、わずかに、後藤新平側近の四天王といわれた一人、内務省警保局長、東京市長の経歴を持つ永田秀次郎が、「大震災よりも余程前」に後藤が「無線電話」(『後藤新平伝』四巻、八〇二頁)の必要を語っていたと証言するのみである。
そして、この永田秀次郎も、「東京市代表者永田秀次郎」として、ラジオ放送免許出願者の一人になっていた。『日本無線史』は、「東京市長永田秀次郎名儀のものは別格的であった」(同書七巻、二五頁)と記しているが、このことの意味も、のちほどまとめて追求してみたい。
話をふたたび、正力松太郎の講談にもどそう。
正力自身の口述で、もっとも古いと思われるのは、一九五二(昭和二七)年二月一六日付のパンフレット『日本テレビ放送網の設立について』のようである。これは同年に大宅壮一が編集した『悪戦苦闘』のなかに、「私と放送事業」の項目名で、収められている。ここでは、さすがの正力も、自分がラジオ放送の提唱者であったとはいっていない。ただ、ラジオの将来性に注目して、「新聞事業よりも、むしろこの事業の方がやり甲斐があると思いました」(同書一六一頁)といっている。
「しかしすでに朝日、毎日、報知のような大新聞が出願しておるから、微々たる読売で出願しても許可が取れない。それには工業クラブの大実業家すなわち郷誠之助、藤原銀次郎、中島久万吉らの人々に発起人になってもらって郷さんを社長とし、私が専務ぐらいになれば許可が取れると思い、これらの人の承諾を得た上で、読売新聞を引きうけた時金を借りた後藤新平さんから、逓信大臣藤村義朗さんにたのんでもらいました。そこで時の政府は、郷氏らの大実業家が中心でやるのならば誠に結構だが、目下出願者が二七社あるから、その中の有力な五社を郷さんが中心になってまとめたならば、一週間以内に許可を与えるということに決定しておったのであります」(同前一六一頁)
ときの内閣は、すでに紹介ずみであるが、現職は枢密院議長清浦奎吾の、君命による組閣であって、政党政治に逆行し、貴族院内閣とよばれていた。さきにふれたように、読売新聞前社長の松山が議長をつとめた護憲全国記者大会などが、その「非立憲性」を糾弾し、「倒壊」をさけんでいたものである。逓信大臣藤村義朗も、男爵の貴族院議員であり、さきに大正日日新聞の社長となり、鳥居素川と衝突して退社した人物であった。
こういう複雑な情勢、人脈がいり乱れるなかで、なんと正力が、日本初のラジオ放送局の専務に就任する手筈になっていたというのだから、これはただごとではない。本当だとすれば、逆に大変な背景がありそうである。
そこで今度は、ラジオ免許出願の記録や、ラジオ放送開始のころの歴史から人名を探してみると、これはまた、マカ不思議というべきか、正力松太郎の名はどこにも出てこないのである。しかし、そのかわりに、まず、正力の終生の友、河合良成の名が、意味ありげな現われ方をするのである。
河合良成は、さきにもふれたが、正力松太郎の同郷人で、中学校、高等学校、大学法科の同期・同窓、柔道部の部員同士という、もっとも緊密な仲であった。河合は、正力とともに官界入りするが、農商務省を経て東京株式取引所常務理事となり、財界の指導者たる郷誠之助理事長の下で、秘書役をつとめていた。いわゆる財界のフトコロ刀の表現が最もふさわしい立場だったといえる。
ラジオに関する河合良成の出没の仕方は、まさに、フトコロ刀にふさわしく、神出鬼没のそれであり、たくみに要点をおさえている。
NHKの編纂になる『日本放送五十年史』では、河合良成が「東京無線電話株式会社」の代表者(同書一六頁)となっているが、これがまず怪しいのである。すくなくとも、この会社が免許申請をした最初のときには、河合は代表者ではない。当の『日本放送五十年史』が出典としている資料では、ちがう人物の名前が先に現われているのである。
免許申請者で「東京無線電話株式会社」を名乗ったものが二者あり、河合良成につながる方の代表者は、川崎肇となっていた。それが別の資料では、井上敬次郎と河合良成の連名となり、NHK発行の『日本放送史』(’51)になると、河合良成ひとりとなってしまうのである。しかも、この資料ではじめて、「東京株式取引所 代表者 郷誠之助」という、新しい出願者が現われるのだ。
郷誠之助は、名前だけの出現である。そして、なんと、河合良成の肩書が、いつのまにか、河合良成(東京株式取引所)とすりかわっていくのである。
まさに奇々怪々である。怪人二十面相さながら、正力らにつながる人物が、つぎつぎにバトンタッチで現われるのである。
この、すりかえ奇術の証拠として、当時のラジオ放送免許出願書そのものがあればよいのだが、郵政省電波管理局に問い合わせてみても、わからないという。NHKの大資料にも、もれているところをみると、最早、消失しているのかもしれない。
しかし、『百年史』でも、「正力の出願は遅く、すでに申請は二十数社から出されていたから、競争は不利だった」(同書八八六頁)というように“駆けこみ出願”の事実を認めているので、この点は争いがないようである。
そこで、これらの出願状況をもとに、背景も合わせて考えていくことになるのだが、意外にも、材料は豊富なのである。
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