第五章 ―「疑惑」 3
―ラジオ五〇年史にうごめく電波独占支配の影武者たち―
電網木村書店 Web無料公開 2008.5.30
忍法ラジオ免許一本化の術
もうひとり、幕間の登場人物がいる。やはり、内務省高級官僚で、宮内大臣にもなった湯浅倉平である。この人物を大野達三は、内務省高級官僚の出世のスピードの、想像を絶する早さの典型として、つぎのように紹介している。
「一八七四(明治七)年に生れ、九八(明治三一)年東大卒、同年高文合格(二五歳)、一九〇三(明治三六)年鳥取県警察部長、一九一三(大正二)年岡山県知事(四〇歳)、一六(大正五)年貴族院議員(四三歳)、二三(大正一二)年警視庁総監(五〇歳)」(『日本の政治警察』六七頁)
かくて、典型的警察官僚の湯浅倉平は、爵位はまだだが勅選議員として、前田百万石の血をひく殿様を相手に、質問をする。
○湯浅倉平君 アメリカ合衆国で近頃できております無線電話のような施設をなさるという御意向が、当局におありになりますか。
○国務大臣(子爵前田利定君) 無線電話の公布のことであろうと考えております。……(略)……米国におきましては、無線電話を許可いたしました後の実況を調査いたしますと、ずい分混線のために、非常にこれを整理するのに苦しんでいるような状態でありますから、その轍をふみませぬように、事前におきまして、十分なる用意をもって許そうと、かように考えております次第であります。
○湯浅倉平君 そういたしますと、これは民営でやるのについて御許可になる。しかして独占的のものではない。電波の混信さえ防げればお許しになるというお考えでありますか。
○国務大臣(子爵前田利定君) 何分にも電波の関係がございますから、そう数多く許可というわけには参らぬと思っております。もっとも、東京とか大阪とかいう風に隔絶した地を中心といたしまして、二、三の無線電話を営みますものに許そうかと考えております。……(略)……細部の規定等についても、考究いたしつつある次第であります。
(第46帝国議会貴族院委員会議事速記録、予算委員会第五分科会第五号、一九二三年三月一日、七頁)
いささか長い引用であったが、これこそが、なんと唯一の国会審議だったらしいのである。あとは逓信省の会議室であろうか、少人数の論議だけで、日本のラジオ放送の骨格は決定されてしまったのである。
なぜそうなったのかについては、のちに追求していきたいが、ここでは、前田の殿様の答弁に、政府の基本方針が明確に示されていたことを指摘しておきたい。つまり、「混信」を防ぐため、東京とか大阪とかの「隔絶」した地区別に、一本ずつの免許しかおろさない、という方針である。
この「混信」問題は、すでにテレビ免許の例でみたように、庶民田中角栄の「念力」で、いとも簡単に解決された性質の問題であった。それは、ラジオでもテレビでも、まったく同じ性質をもっていた。つまり、「政治」性の限界と可能性である。
だが、当時の政治状況からの推論を試みる前に、当時の日本におけるラジオ。ブームの実状をみておく必要があるだろう。
日本のラジオ・ブームは、意外に大変なひろがりを持っており、それをひきおこしたのは、一九二〇(大正九)年のアメリカ大統領選挙報道だったようである。翌年春から、日本の無線界はにぎやかとなり、翌年には、逓信省内に特別委員会が設けられた。委員の中には、のちに戦争中のNHK会長として活躍する小森七郎(当時大臣官房監査課長)の名もみえる。
「調査委員会は諸外国の状況を深く研究し、かつわが国情に照らして、諸方面から研究調査を進め、……(略)……基本問題を検討した」(『逓信事業史』四巻、九四〇頁)
民間では、一九二二(大正一一)年に、『無線と実験』、『ラジオ』といった雑誌も発刊され、研究者による公開実験放送がはじまった。
同じ一九二二年に東京朝日新聞、東京日日新聞(いまの毎日新聞)、翌一九二三年に報知新聞が、公開実験放送を行なっている。
「かように大新聞社その他による無線電話の公開実験と専門的な雑誌図書の発刊によって、いわゆるラジオ知識は大都市を中心としてあまねく普遍され、一部にはラジオ熱とも称すべき烈しい反応を示し、……(略)……これとともに無数の不法施設――アマチュア受信装置――が続出して、逓信当局を悩ました。その数は、もとより明瞭でないが、大正一四年春においては東京市内外で一万または二万といわれ、おおむね青少年学徒の知識欲、好奇心からでたものである」(『日本無線史』七巻、四頁)
この際、ラジオ熱の震源地が、アメリカであったことは、事態の推移を考える上で重要であろう。
「アメリカでは、政府に申請さえすれば、だれにでも放送局の経営は許された。放送企業のすべてが民営であり、広告放送も行なわれていた。大きな電気メーカーは、ラジオの大量生産と販売をしながら、放送事業の経営に当っていた。
このようなアメリカの実情は、国際会議あるいは海外視察でアメリカに渡った人たちや、新聞・雑誌などで日本にもたらされ、国内の電気メーカー、報道機関、研究団体などをいっそう刺激した」(『放迭五十年史』一四頁)
こういう実情から導き出される結論は、当然、ラジオ民営論以外にない。
「アメリカのラジオ熱は、とくに民間に対して大きな影響をあたえたのであって、民間側が主としてアメリカ式の自由企業を念頭に置いたとしても、当然のことであった」(’65『日本放送史』三六頁)
そういう事情の下で、苦心の密室論議を重ねたすえ、「放送用私設無線電話規則」なるものができあがった。
逓信省のやり方は、すでに一九一五(大正四)年に成立し、第一条に「無線電信および無線電話は政府これを管掌す」と明記された法律、「無線電信法」の第二条により、逓信省がラジオ放送の私設を特許する方法であった。だから、「法律」ではなく、「規則」なのであった。
だが、逓信省の方針は、決して、一般の民意にしたがうという形での「私設」ないしは「民営」、「民間」ラジオの許可、という意味ではなかった。官営でもよかったのである。
しかし、種々の議論があり、そのなかでも決定的なのは、「殊に経済界の不況によって国家財政は甚だしく逼迫」している状況の下で、「かりに官営で事業が発展したとしても、その拡張充実に要する財源に窮し、このため一般の非難を招き、結局社会公共の福利増進を阻害するに至る」(’51『日本放送史』六九頁)点への危惧であった。
つまり、ラジオ放送の実施は急ぎたし、急場の財政はなし、というのが本音であった。そして、……「このような論議を重ねた末、放送事業は、厳重な監督の下に、民間で経営させることが適当であるとの局議が決定した」(同前七〇頁)
文中「局議」とは、逓信省通信局のラジオ放送実施方針のことである。
ついで、法律をつくらず、規則ですました理由であるが、その最たるものは、国会審議を経ずに実施するという考えであったにちがいない。加えて、つぎの事情は、宮庁間の縄張り争いをしのばせるものである。
「法律案をつくるとすれば、事業の内容からみて、その所轄について他省との間に紛糾を生ずることは当然予想され、このため事業の発足が困難となる」(同前七〇頁)
この場合、「他省」とは、言論取締りの上から内務省、無線電波の使用という面から海軍省、陸軍省であった。無線電波は、もともと軍事用に開発され、警察用にも使用される性質のものであったから、急速に研究開発が進んだ日本においては、当初から利害関係のある各省間で、サヤ当てがはじまっていたようである。この点について、最近の編纂になる『放送五十年史』では、「放送だけの特別な法律をつくると、放送番組の思想取締りなどの面で他の省との間に権限争いが起ることも予想された」(同書一五頁)と記しているが、この場合には明らかに内務省、とくに警保局図書課のことを示している。
そういう点を考慮の上、逓信省通信局は、私設でありながら、官営と同様の効果を挙げる免許方式を研究し、とくに以下の要点を定めたのである。
施設の数・一地域一局
施設者・新聞社、通信社、無線機器製作者、販売業者を網羅した組合または会社
収入源・受信装置者から一定料金の徴収、広告は許さず
一見して明らかなように、今日のNHKの路線は、ここに敷かれたのである。とくに、「一地域一局という逓信省の制限主義を攻撃し、放送事業の発展のためにこの制限を緩和すべし」(同前一六頁)という議論が起ったように、この施設数の制限は、最大のポイントであった。
しかも、このポイントは、なんと論議のはじめから、すでに一九二二(大正一一)年八月には、通信局「局議」として定まっていたのである。
基本方針は内々に定めた。あとは、各省や議会、財界の意向を調整しながら、その方針を貫くまでのこと。これが大日本帝国官僚の、腕のふるいどころだったわけである。そのために、法律いじりをしない、規則(省令)ですます、予算措置なしだから議会でも論議なし、という名案が練られたわけである。
その間、さきにふれた貴族院での質疑があったが、基本方針の説明で終っており、質問者の湯浅倉平も、それ以上の追及はしていない。ただし、いずれ同じ穴のムジナではあるが、この質問には、内務省と逓信省の間の、サヤ当てが象徴されていたのかもしれない。
いずれにしても、逓信省もしくは政府の既定方針は、一地域一局死守であり、その決意は、つぎのように、固かったようである。
「逓信省は一都市一放送局という原則を守るため、まず出願者を統合しようとしたのである。そして万一統合ができなければ、比較的統合の容易な名古屋をのぞき、東京と大阪の放送局は逓信省みずからが運営し、官営放送となるのもやむをえないとしていた」(同前一六頁)
つまり、「民営方針」以上に、「一地域一局」の方が重要だったのである。そして、戦前の一九四〇(昭和一五)年に発行された『逓信事業史』は、「放送無線電話施設を数限りなく許可することは出来ない」理由の第三に、「放送事項の内容如何は社会の風教上至大の影響があるから、これが監督につき、慎重に考慮を必要とする」(同書九四三頁)点をあげているのである。
このような「一本化」が、言論統制上好都合であることは、いうまでもない。
たとえば、ラジオがはじめから一本化されて出発したのち、国策通信社としての同盟通信がつくられるのだが、ここでも露骨に、一本化の有利さが語られる。この同盟通信社の設立には、NHKが資金ルートとして大役を果しているが、当時のNHK会長小森七郎は、つぎのように回想をしたためている。
「或る日、外務省の重光葵さんから電話があって訪ねてみると、その話はこういうのであった。『満州事変以来、非常に面倒な国際事情の下で、わが国には二つの通信社があって、ともすれば喰違った報道が外国へ送り出されるため、政府は非常に困っている。……(略)……』」(『逓信史話』上、五〇八頁)
こんなわけで、一本化が統制上都合が良いのは論を待たないが、ラジオの場合は、最初から一本化の方針が固まっていた。しかし、その本心はぼかしながら、民営の出願者をつのるのだから、事態の紛糾はまぬがれない。
ところが、その修羅場におどる人物が、ちょうどよく現われたのである。
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