第三章 ―「過去」 3
―読売新聞のルーツは文学の香りに満ちて―
電網木村書店 Web無料公開 2008.5.2
本野子爵家の内紛
青野季吉の表現を借りると、当時の読売新聞は、本野子爵家の「私有財産として」維持されており、朝日・毎日両紙などが「大資本で近代的な組織によってグングン発展して行く中に立って」、対抗しきれなくなっていた。すでに初代の本野盛亨の「在世中に、すでに財政的に行詰っていたのだが、子爵は父からの遺業として、それを人手に渡すことをどうしても承知しなかった。で、子爵の在世中は、ともかくもY新聞は、旧い経営の仕方と『旧い』編集の指導方針とによって、子爵家の半ば道楽仕事として、維持されていた」(『一九一九年』四四頁)。
このなかで、青野は、「旧い」編集の指導方針というカッコづきの表現で、読売新聞の文学的・文化主義的伝統を評価しているわけである。
そしてこの「旧い」伝統は、また、本野家の体内にも、近代日本の矛盾と苦悩を象徴するかのように、流れ、かつ淀んでいたのであった。
本野子爵家の二代目、一郎は、「如何にもアンビシャスで、帝国主義日本の外交家として、R国に長く駐剳して、ツァーリズムを向うに廻して、おおきな手腕を振った。が、弟は、どちらかといえば万事に消極的で、思想的には、これこそ徹底したイギリス流の自由主義者であった」(同前三六頁)。
社長をついだ弟の英吉郎は、その名の示すように、先代本野社長が一時イギリス駐在の外交官時代に、ロンドンで生れ、英語をマザー・タングとして育った。一郎の方は英吉郎を「ボヘミヤンが……」とこきおろし、英吉郎は一郎の「インペリアリズムは断じて不可!」といいつづけた仲であった。
一郎は、日本のシベリア出兵を主張する外務大臣ともなるが、その一郎個人のうちにも、はげしい矛盾がうずまいていたようである。そのことを、青野は、やはり自由主義者として知られた論説委員の奥野七郎(作中人物は奥田)の談として、記録している。
奥野は「外務省係り」となって一郎の私設秘書役をしていた関係上、一郎の死の直前に、英吉郎との仲をとりもつべく、両人のあいだを往復した。一郎は、死に直面しながら、弟、英吉郎との握手を求めており、また奥野に、日本の社会主義運動がどれだけ進んでいるかをたずねた。
「『子爵も、死ぬ少し前には、よほど変っていたよ。ある日、側の人を遠ざけて、僕に小さな声で訊ねるんじゃ。日本のソシアリスト・ムーヴメントはどれだけ進んでいるかって、ね。僕は、この人がそんなことを考えているのかと思って、内心びっくりしたよ。僕はそんな方面は一向わからないが、近代思想というのが社会主義運動の機関紙として出ているといって聞かせたら、それをすぐ初号から取揃えてくれというんじゃ、そこで庄司君(上司小剣)がその雑誌の主幹の堤利彦(堺利彦)を知っているので、雑誌を揃えて貰うと、子爵は二、三日つづけて僕に読ませて、熱心に聞いていたよ。あの人は長い間、R国などへ行っていたので、死ぬ間際になって、日本のそういう方面が強く意識に上って来たんだろうな……(略)……』」(同前三八頁)
一郎の病気は胃ガンであった。シベリア出兵の是非をめぐって、国会で糾弾を受けながら、強硬論をつらぬき、一方で、鎮痛剤で胃の痛みを押えていたという。しかも、一九一八(大正七)年八月二〇日のシベリア出兵を前にして、四月二三日に外相辞任、その病床にあっての一郎のもがきには、まさに鬼気迫るものがある。
さらに、英吉郎も、腎臓病で病床にふしていた。一郎と英吉郎兄弟は.奥野のとりもちで、最後に無言の握手をするのだが、英吉郎が七月二日、一郎が九月二日、五五歳と五七歳の若さで、相ついで、病没した。シベリア出兵の八月二〇日をはさんで、政界と言論界の一角を占めていた本野家の兄弟は、読売新聞の財政的危機を解決できぬまま、病み疲れて死んでいったのである。
創始者一家の危機もあって、読売新聞には、買収さわぎが相つぐ。最初は、海軍の山本権兵衛首相の話で、原敬内務大臣も参加、『原敬日記』にも、ことの次第が記されている。この話がこわれたあとには、陸軍の買収計画があり、これは話だけではすまなかった。
『百年史』も、「経済的テコ入れをして世論操縦に本社を利用しようとする陸軍、本野家の財政だけでは支えきれなくなった本社の窮乏ゆえに、軍の援助を受け入れようと模索する一郎」(同書二六五頁)と記している。
『八十年史』では、もっと明確である。
「この時、シベリアの事態はいよいよ切迫し、軍部はどうしても新聞世論を出兵賛成にもっていく必要に迫られて、各新聞社に対し積極的に働きかけてきた。経営不如意の読売も、その例外ではあり得ず、前社主本野外相は社の財政状態を知っており、また、閣内における出兵論の主張者として、これを拒む理由もなかった。すなわち、軍部の背後勢力が、その宣伝機関として読売を利用しようとし、陸軍の機密費を注ぎ込んでいるとうわさされたのは、そのころで、必ずしもうわさだけではなかった。かくて軍部の触角は読売社内にまで及び、社説や編集が、ともすれば精彩を欠くようになった。出兵自重論から、『シベリア出兵は得策なり』の社説に急変し、さらに『出兵の得失及び緩急』と題して、『一日も早く出兵すべし』と主張するにいたったのである」(同書二三一頁)
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