『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(3-4)

第三章 ―「過去」 4

―読売新聞のルーツは文学の香りに満ちて―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.2

陸軍による買収計画

 陸軍は、金を出しただけではなかった。右翼紙の定評がある国民新聞から、編集局長をしていた伊達源一郎が、読売新聞の主筆に送りこまれた。国民新聞社長の徳富蘇峰は、のちに大日本言論報国会会長となり、戦犯に指名される人物である。当時も対ロシア主戦論の急先鋒で、読売新聞の論調変化に際しては、「出兵論に和して痛快な論説を展開し、『外相たる本野子爵のシベリア出兵論のごときは、あたかも素見に合し、すこぶる共鳴するところ』と述べ」(同前一葦〇頁)、読売新聞内部の出兵論者をはげましていたのである。

 伊達は、その上、陸軍大将田中義一が操縦していた帝国青年会の、幹事でもあった。そして、みずから子飼いの記者を何人か引きつれてきたが、その中には軍部関係者もいた。

 『百年史』も、伊達主筆の役割を認め、つぎのように記している。

 「伊逢が主筆となると、秋月のそれまでの苦衷などどこ吹く風と、シベリア出兵論は調子を高めていく。それは八月二日のシベリア出兵宣言に合わせるがごとくに、である。……(略)……

 秋月も伊達が主筆となってからは、得意の筆も意欲を失い、シベリア問題も米騒動も、その論壇発言は精彩を欠く。……(略)……社長就任からちょうど一年、一二月になって、間もなく風邪をこじらせて肺炎となり、大磯に引きこもった」(同書二六六頁)

 秋月は、英吉郎に代った文人の社長だが、経営能力に弱点があった。

 「そのころの読売の経営状態は、ますます難渋を加え、窮迫の一歩手前ともいうべき状態であった。部数は公称五万であったが、実数は三万台に落ちていたのである。社長秋月は論壇に立てこもって、新聞の経営面は理事石黒景文に一任して顧みなかったから、財政の窮乏はひしひしと迫り、社員の月給の一部払いが続くようになった」(同前三三〇頁)

 この状況につけこんで、陸軍とその背後勢力は、本気で読売新聞の経営乗っ取りを策していた。この乗っ取りは、のちの正力松太郎乗りこみの、いわばプレリュードであった。そして、この時には、まだ抵抗する者が多く、しかも伊達自身も経営の才は乏しかったため、複雑な経過をたどりながらも乗っ取りは、いったん頓挫したのである。

 伊達源一郎の登場とその後の経過について、上司小剣の皮肉な筆は、さえわたっている。

 「伊達源一郎という好箇のゼントルマンが編集局長として入社するに及び、作者の編集長代理は解かれて、相談役となった」(『U新聞社年代記』二一六頁)

 「ゼントルマン」、つまりは文筆のなんたるかを解しない俗物がのりこみ、小剣は左遷されたのである。

 「伊達編集局長は温和な好紳士だが、前に関係した○○新聞から連れて来た二、三人中に事を好むものがあり、U新聞は創立以来、初めて編集部内に二派対立を見るようなことになった。作者はもちろん、そのいずれにも偏せず、冷然として機会あれば罷めたいと希っていた」(同前八頁)

 「さて、U社編集局内部的訌争はいよいよ劇しく、その中心と見るべき新社会部長が、部下の青野季吉、市川正一等五名を馘首した。いづれも作者の編集長代理時代に入社した比較的古参の俊秀である。義侠心に充ちた外務係の奥野が憤然として抗議したが駄目。結局奥野も辞職とまで突き詰った。奥野は作者に相談した。作者もちょっと義侠心めいたものを起し、それにこれは退社の好機会だと思って、奥野につづいて辞職を申し出た。スルと作者の辞職は許されないで、これはまたどうしたことか、一旦馘首した青野、市川等の五人が忽ち復社してきた。

 青野(作者に向い)『妙なことになって、戻って来ましたよ』

 市川(同じく)『ところが、なんにも用がないんで、こうして遊んでいるんです』

と、にやにや笑っている。全く妙なことになったもんだ。作者の辞職申出でが、そんなにまで力あろうとは思わなかった。何にしても好紳士の伊達が気の毒である。直系部下の小刀細工に因るとはいえ、馘首も復職も皆この人の責任で行われたのだ。不面目なことである」(同前二一九頁)

 ストライキ計画自体は、裏切りの発生によって、参加予定者のリストが伊達の手にわたり、強力な切りくずし工作の結果、失敗した。しかし、論説委員の奥野と小剣という、二人の実力者が、辞職まで決意するほどの同調ぶりを示したわけである。

 このような、社内あげての反乱の結果、「不面目」な伊達は、ついに乗っ取りをあきらめざるをえなくなったのである。

 ついで、青野の方は、表現が率直である。『一九一九年』には、伊達が、作中人物の伊井として登場してくる。そして、この作品全体が、伊達(伊井)と対決するたたかいの記録なのである。

 「新主筆の伊井は、小肥りの脂ぎった男で、始終ものにおびえてでもいるかのように、体を小刻みに動かして、キョトキョトしでていた」(同書四〇頁)

 経済部,長、政治部長、社会部長、すべての重要ポストが、伊達の輩下に握られた、

 「そのほか毎日のように、編集室に新しい記者が現われたが、その新しい記者たちは、あたかも占領地へ乗り込むような、得意さと、横柄さとを平気で振りまいていた。

 義一は、毎日のように新しい記者を紹介されても、その人物そのものには、ほとんど無関心であったが、ただ一度、胸を衝きあげるような不快を覚えたことがあった。

 『春野さん』

と伊井主筆はなれなれしい声で、愛嬌笑いをしながら、机につっぷして仕事をしている義一の肩を軽くたたいていった。

 『こんど入った小竹君です』

 義一は、顔をあげた瞬間、思わず眼を見張った。小竹というのは、陸軍のスパイとして早い頃から朝鮮の僻地で活動していた人間で、朝鮮の若い人達の間に何かの『運動』の計画があると、それに積極的に参加して、結局はその『不逞鮮人』を根こそぎサーベルと鎖の下へ引渡す、ブロボケーターの役目を演じていた。かの『万歳』運動の時など、小竹の活躍はすばらしいものであったといわれていた」(同前四一頁 太字は傍点部分)

 「万歳」運動とは、朝鮮史の方で、三・一独立闘争とされている。一九一九年三月一日、ロシア革命に呼応するかのように高揚した、民族独立のたたかいである。参加者二〇〇万人、逮捕五万、起訴一万、死者は七〇〇〇名にのぼった。日本軍は総動員であった。この中にまで挑発者としてもぐりこんだ密偵とあれば、こんな危険な人物もない。

 『八十年史』が描くつぎのような状況は、ロシア革命直後という世界史的背景の中の一コマとしてみる時、大変に象徴的であり、しかも生々しい事件として迫ってくるものがある。

 「軍部から財政的援助をうけ、宣伝機関として動くことになると、文学新聞の看板が邪魔になり、この伝統をつぶそうとする傾向が、伊達主筆とその一派に強くなり、かくして伝統を守ろうとする社員との対立が、深刻になって来た。また、そのころは日本の思想史上の転換期で、左翼思想や共産主義運動が、各新聞社内にも自然発生的にはいりこんできて、読売は、その最先端のようにみられた。

 伊達一派の軍国主義的な色彩が濃厚となり、伝統派を次第に圧迫して行くと、伝統派はこれに対抗して、ストライキ計画の運動を展開した。読売新聞の文化的伝統を擁護する建前と、軍国主義と戦うという趣旨からであったが、工場従業員の無政府主義的な黒色同盟の支持が得られないために、ストライキの計画は失敗に帰した。その運動の中心人物は、社会部の青野季吉と市川正一であったが、ストライキ失敗後、青野はプロ文学運動に、市川は共産主義運動に走った」(同書三三責)

 青野季吉の『一九一九年』は、市川の投獄の翌年、一九三〇(昭和五)年に書きおろしの単行本として、『ある時代の群像』の表題で出版されている。その改題再版の後記のおわりに、青野は、こう記している。

 「この作品に登場する人物のモデルのほとんど半ばは、すでにこの世にない。中でも主要人物の一人のモデルは、終戦――解放のわずか数日前に、宮城刑務所で十数年の獄中生活の犠牲となったと聞いている。私としては、感懐の深いものがある」(同書二二二頁)

 この意味で、『一九一九年』の改題出版は戦後の民主化闘争の嵐の中での、市川正一への鎮魂曲の再演奏でもあった。

 市川をモデルとする作中人物は、三川である。青野季吉(春野義一)と市川(三川)とは、たしかに、ストライキ計画の中心にいた。しかし、二人とも、決してその将来の姿を予測させるような、いわゆる活動家の青年ではなかったようである。

 青野は、のちに、そのころの生活状態を、つぎのように記している。

 「当時の月給二三「円は、既に妻帯していた私にとって、かろうじて米塩の資たるにとどまっていた。東京の郊外に、たった二間切りの貸家をかりて、一日約一〇時間を社に勤めて、帰って来れば貧しい晩餐と、一日の頭脳的、肉体的の疲労があるばかりである。しかもこれが、この社会が私に与えてくれた唯一の『生きる場所』だったのである」(『サラリーマン恐怖時代』一六頁)

 彼はまた、みずからのサラリーマンとしての「漠然とした開眼」への、三つの事件をあげている。

 その第一は、読売新聞創立以来といわれる老校正係の突然の死であった。肺をわずらい、塵埃と喧騒のなかで死んだ老人に、会社は、半年分の月給を支給し、遺児を給仕に採用するだけであった。第二の事件は、東京の新聞のほとんどを数日間発行停止にした印刷工ストライキ、そして第三が、みずからも職を賭してたたかうことになる編集ストライキ、もしくは、その闘争の原因となる軍閥の乗りこみであった。

 『一九一九年』にも、編集と印刷の協力について、生々しい体験が記録されている。印刷工の組織の方には、一九一九(大正八)年八月のクビキリまで出たストライキに、編集が協力せず、むしろスト破りに走ったことへのしこりがあったらしい。また、市川、青野らの編集ストライキにも、「軍閥反対」の色彩が強く、待遇改善が二の次のイチかバチか的要素があったため、様子をみる感じもあったようだ。

 しかし、印刷工の組織とても、軍閥の専横をにくむ気持にかわりはなかった。市川らの要請を受けてのち、いろいろと激励をしている。

 「いちばん年嵩の石見は、骨張った顔に人のよい微笑をたたえて、そこにいる記者達をいたわるようにいった。

 『いよいよおっ始めたら、ぐづぐづしてちゃだめですぜ。主筆に辞職を迫るなら迫るで、出ようによっては、相手と刺しちがえるくらいの覚悟がなくちゃ。……まったく伊井さんの遣り方は、無茶だなあ。母の看病に国へ帰っているものを追討にするなんて、工場なら、それだけでみんなが承知しやしませんよ」(『一九一九年』一八四頁)


(第3章5)財閥による買収、全員解雇