『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(2-4)

第二章 ―「背景」 4

―国会を愚弄するテレビ電波私的独占化競争の正体―

電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25

務台“専売”将軍、大阪秋の陣

 ただし、「Z旗」を実際にかかげて販売店主を煽るのは読売新聞だけだとしても、ほかの大手全国紙もそれぞれに、あいみたがいの新聞戦国武士道を発揮していた。

 本物の戦争に例をとれば、アメリカも、日本を真珠湾攻撃にさそいこんだのだし、イギリスは、ドイツのナチを対ソ連戦に向けるべく、妥協しつつ、自国の体制をつくったのであった。

 「読売は進出当初の声明で、目標は産経にあるとはっきりいっております。ところが、だんだんその全貌なるものが解明しますと、三月には夕刊を発行、完全なセットにする。それから毎日、朝日を敵にして、東京におけるごとく、三社鼎立の形を出そうとしていることに間違いない。

 ところがこの読売新聞の新しい陣容を作るため手兵は、全部といっていいほど大阪の業界からとつた。まず、新大阪から編集約八名、最後には二人しかいない交換手が一人抜かれた。大阪日日は二名、その中に整理部関係が三名いる。産経からも五、六名。更に夕刊京都、都新聞からも数名ずつ抜いている。京都新聞では取締役兼主筆の三浦某を抜かれた。三浦は二名の編集局員を引き連れて読売へ走った。いずれの新聞社も読売に走ったものは全部懲戒解雇にした」(『毎日新聞百年史』四〇四頁)

 これは、読売の大阪進出直後、一九五二(昭和二七)年一一月に、毎日新聞社支局長会議で専務の平野太郎が、「読売の戦略は強引を極めた」と、説明したものである。「手兵」などという用語もそうなら、「読売に走ったものは全部解雇」という話も、大変なものである。

 平野はさらに、販売店網の強化についてもふれている。

 「販売店の主任を買収する、あるいは引抜くというような事実が起ってくるのではないか。いずれにしても専売になればハナから競争だが、それがまた引抜きによっていっそう熾烈になってくるということだけは覚悟している。専売網確立のためには本社自体も相当な資金を投じなければならん。販売店に若干の融資もやむを得ない」(同前四〇四頁)

 朝日新聞も、名古屋進出を果し、朝夕刊のワンセット化など、「全国朝日化」の方針をかかげていたところであったが、専売移行に当っての状況を、つぎのように記している。

 「果して、三社首脳会談は一〇月末に決裂、業界に自由価格と自由競争の時代が到来したのであった。ここに東京本社は、毎日・読売両社へ一二月から専売制移行を通告するとともに、万端の準備を一一月中に完了することに決定した。……(略)……ニュース・カーや乗用車・本社機による空陸一体の大宣伝をくりひろげ、また販売部長名で各店員に呼びかけるなど、本社・販売店・店員は一丸となって全国朝日化に突進した」(『朝日新聞の九十年』四四五頁)

 それにしても、なんとまあ、「文化的」な産業であることか、軍事的用語がポンポン出てくる。そして、ヤクザ的用語も、……

 「トメオシ、サンイチ、シバリ、ツミガミ、アカクロ……何のことかわかりますか。新聞の販売の用語ですよ。符牒(ふちょう)を使うという点では、やくざと同じ世界ですな。この複雑怪奇さは、一年や二年首つっこんでもわかりませんや」(『現代』一九七八年一月号、二〇八頁)

 もっとも、魚河岸などでも符牒はつかうから、符牒イコール・ヤクザといってしまっては、ほかの業界から苦情がでるだろう。しかし、ここでは、新聞業界の当事者たる南日本新聞の渋谷哲郎販売局長が、読売新聞などの全国紙の殴りこみと対決しながら、こういう自意識を持っているという事実に注目したい。

 新聞の拡張は、もっともらしくいえば、新聞資本の独占化競争で、実態からいえば、ヤクザの殴りこみに近いものである。そして、戦後に、公然と、いわゆるナベ・カマ戦争の火をつけたのは、産経(現サンケイ)新聞であった。これを、大日本帝国のパール・ハーバー攻撃とすれぱ、むかえうつ列強は、朝日、毎日、読売の三大紙である。

 すでに「専売店」という言葉が出たが、戦争中の共販制がくずれ、ふたたび専売競争時代にはいる時、産経は大阪から東京に進出し、みずからを「全国紙」と称し、読売新聞を「関東ブロック紙」と挑発した。

 読売新聞側は、この挑発をフルに生かして、前述の隠密ゴッコの大宣伝、ついで、専売制度復活の旗印として押し立てた。その上、販売の神様というか鬼というか、務台将軍は、大阪に印刷工場の橋頭堡をきづいておいて、ついで、宣戦布告の名目づくりにかかった。

 さきの大阪進出とテレビ免許に関する”密約”は、「共販中のことで、専売になると条件が違ってくる」という理屈であった。そして、みずからを被害者にしたてる“演出”(このあとに出てくる務台の言葉)として、務台は、まず竹井博友を使って、大阪での産経専売店の進出状況をしらべさせた。わざわざ、作戦地図のごとく、赤、青の色まで使って、地図に書きこませ、これをもって、毎日新聞を挑発した。

 相手は、当時、毎日新聞専務取締役・営業局長の小林亀千代である。務台と小林とは、そのころ三社の営業担当重役による「首脳会議」で、定期的に会合、談合する仲であった。

 務台は、毎日新聞の東京本店を訪ね、くだんの地図をみせる。

 「小林は、青印の産経専売店が、赤印の朝・毎系共販店を取り囲み、外堀も内堀も埋めんばかりに押し迫っている分布図をみていった。

 『ありがとう。ぼくのところも秋には専売をやるよ』

 『本当か、いつやるんだ』

 務台は、すかさず問いただすと、

 『秋にはやる、本当にやる』

 務台は、この小林の言葉をきいて、内心『しめた』と思った。これで正力を説得する口実ができたからである。務台演出の第一幕は成功のうちに下りた」(『百年史』六二六頁)

 このように、務台はみずから、“演出”を告白している。正力説得を表面に出してはいるが、正力も含めた社内世論を、大阪決戦に精神総動員するのがねらいであった。

 第二幕は、日本工業倶楽部にて、正力が、毎日・本田、朝日・村山両社長と会う。

 「正力は『君の方が専売をやるなら朝日も黙っていないだろう』と、言葉を続けた。結局、『朝毎が専売をやるなら、この前の約束をいつまでも安田、務台に守らせようとしても承知しない。大阪進出を了解してくれ』

 正力が、そう念を押すと、本田は『致し方ない』と不満な表情を残して帰った。進出の了解を得るのではなく、一方的な通告だった。そのあと正力は朝日の村山社長とも会い、同じ専売の話をしたら、専売など絶対にやるつもりはないというので、毎日がやってもほうっておくのかときくと、その場合は別だというので、本田と同様の話をして了解を得た。村山も不きげんな顔をしていたという。

 そして、正力は結論として、『両社は了解したから大阪で発刊してもよろしい』と、はっきり承諾の意を明らかにした」(『百年史』六二八頁)

 いざ開戦である。そこで竹井博友はみずから、「なぐりこみ実行隊長」(『執念』一九頁)だの、「敵の店を攪乱」(同前一四八頁)だの、まさに、元気のいいオニイサン風の表現で、みずからを飾っている。

 だが、この「専売」・大阪の陣の前段には、三社の”密約”にもとづく、別の戦線、つまり、大手中央紙対地方・ブロック紙の決戦の火ぶたが切られていたのである。そして、この陰謀は、テレビの全国系列化と並行して、いまの日本のマスコミ構造を決定づけるものであり、その点からみて、おそるべき魔手であった。

 その間の事情の一端を、元共同通信記者の新井直之は、こう要約している。

 「一九五二年九月、朝日、毎日、読売三社は、突然、共同通信から脱退した。『今やそれぞれ独自の通信網によって内外信を十分にまかない得る時期に達し』た三社に反して、地方紙および中小紙各社は共同通信からの配信なくしては紙面をつくりえない。しかも共同はその経費を加盟社から発行部数に応じて分担する方式をとってきたので、大手三社の脱退が共同の経営基盤に大打撃を与えることは明らかであった。つまり、三社の脱退は、共同を弱体化することによって、間接的に地方紙・中小紙の報道能力を弱めることをねらいとしたものであり、大手紙の地方紙・中小紙に対する挑戦を告げるものであった。このときから、戦後の新聞界の販売競争=独占化過程がはじまる。三社脱退による共同の収入減は、純社費で三一パーセント、その他を合計した総経費でみても二五パーセントに達し、共同は存立の危機に立たされた」(『ジャーナリズム』一五三頁)

 このような三大紙の陰謀は、一九四九年のレッド・パージ、五〇年の朝鮮戦争、五一年のサンフランシスコ条約・安保条約下の半独立、といった政治状況下に、かくもドラスチックに展開されたのである。


(第2章5)クルクル変る電波行政