『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(2-5)

第二章 ―「背景」 5

―国会を愚弄するテレビ電波私的独占化競争の正体―

電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25

クルクル変る電波行政

 ところで、務台も正力も、しょせんは新聞やテレビの経営者である。そして、彼らを動かす最大のパワーは、やはり、財界そのものであった。財界の金、広告費こそが、マスコミ支配の原動力であった。

 『闘魂の人』は、大阪進出の動機として、「全日本の世論」とか、「原価」が「半分ですむものがある」といいながらも、こう告白している。

 「それから広告の立場がある。映画とかデパートとか、東京の地区を対象としているものはいいのだが、ナショナル広告という全日本に出る広告になると、まず朝・毎に広告を出し、なお予算があったら関東においては読売新聞、中部においては中部日本といったぐあいに、第二次的になりやすい」(同書二三六頁)

 さらには、広告費、スポンサーをも意識しつつ、テレビ電波も“拡材”になってくる。

 「自社系列のテレビ局があることで、読売新聞の読者も広告スポンサーも信頼するし、関西財界の読売に対する信用度も違ってくる。さらに朝・毎を相手に昼夜をわかたず奮闘している読売新聞販売店の意気も上がる――と結論した」(『百年史』九〇一頁)

 これが、大阪の読売テレビ放送免許申請にいたる、「本音」である。

 もっとすさまじい本音は、すでに紹介ずみの、元日本テレビ専務取締役松本幸輝久のそれである。

 松本は、読売テレビ放送の開局前に入社し、東京支社長となり、読売グループを代表して仙台放送副社長、そこをフジテレビ系に乗っ取られてのち、日本テレビに来た人物である。だから、テレビ業界の内幕については、第一級にくわしいのである。その松本が、日本テレビを追い出されたからとはいえ、まことに正直に告白している。

 「中央紙、東京キー局を後ろ楯とする地方テレビ局の争奪戦のものすごさは、今や昔話になりつつあるが、民放の歴史からは抹殺することはできない」(『わが放送白書』九八頁)

 「“電波は国民のもの”などと、きれいなことをいっているが、国民なんかどうでもいいのである。県民の希望などはどこ吹く風、新聞社のエゴ、それに便乗するのかさせるのかしらないが、地元財政のエゴに徹底的に振り回されて手の出ないのが県と郵政省というわけ」(同前九五頁)

 このような、中央紙・東京キー局のエゴまる出しにょるテレビ電波ぶんどり合戦は、読売新聞社による方式、つまり、大阪読売新聞社と大阪のテレビ局という、新聞・テレビ一体の作戦によって、より明白になっていった。

 務台は、また、その読売エゴの実現に当って、郵政当局との意志疎通があった事実を、かくそうともしないのである。

 「読売新聞は二七年に大阪で印刷を開始し、発行部数は伸びていたが、朝日、毎日と競争しながら、さらに伸ばすためには、電波媒体としてのテレビが必要であった。また日本テレビとしては、既設の大阪テレビがTBSともネットを組んでいたので、どうしても同系のテレビ局を大阪につくることを必要としていた。世論もまた、東京に民放が二局あるのだから、京阪神にももう一局を期待する方向へ向いており、当局もチャンネルプランの修正をほのめかしていた」(『闘魂の人』三〇五頁)

 テレビチャンネルは、当初の六チャンネルから二チャンネル(のち一二チャンネル)へと拡大されていったが、「当局」のはじめの考え方は、大阪地区のテレビについて、NHK一本に民放一本、ということであった。

 しかし、日本テレビの経営状況が七ヵ月で黒字に転ずるなど、民間テレビ放送は経済的に成り立つということがはっきりした以上、民放一本の根拠が弱くなってしまった。東京で一本が二本になると、ガマの油の売り口上ではないが、電波の物理的限界にまで、資本の欲求は、かぎりなくふくらんでくる。当時の電波使用の限界は、VHF電波の範囲内(米軍用の一二チャンネルを除く)であった。

 大阪では、すでに一九五三(昭和二八)年、日本テレビ系、サンケイ系のテレビ免許申請も出されていたが、さきの”密約”どおり、朝日=毎日新聞と大阪財界の連合が勝利し、大阪テレビ(のち朝日放送へ)として一九五四(昭和二九)年に免許、一九五六(昭和三一)年に営業開始していた。

 日本テレビ系とサンケイ系とは、却下であった。とくに日本テレビは、大阪の地域を代表しない、という理由で却下されたため、読売グループは、戦略をあらため、設立したばかりの大阪読売新聞社を中心として、再度、免許を申請しなおした。

 ここでも、サンケイ系との突っ張り合いが、読売側のエネルギーになっているが、詳細は省く。ともかく、務台は、平井郵政大臣の私邸を訪れたり、大臣室で大声を出したり、いま航空機汚職の五億円受取人として有名になった松野頼三の実父、ズル平こと松野鶴平親分に会ったりした挙句、またも免許獲得に失敗した。平井郵政大臣は、内閣改造、退陣のドサクサにまぎれて、フジ・サンケイ系の関西テレビと、自分の会社、西日本放送にテレビ免許をおろして、逃げてしまったのである。

 「一月あとの三二年八月、一ヵ月ぎりぎりに務台は関西テレビの予備免許について、異議申立書を郵政省に出した。この時の務台の闘志は言語に絶するものがあり、異議申立てが通らなかったら岸内閣と心中するくらいの決意で食い下ったので、内閣もこれを軽視できず、チャンネルプランの再検討、やそれに必要な公聴会の開催ということになった。……(略)……

 平井のあとをおそった郵政大臣は田中角栄であった。田中はある程度の目算が立ったところで、申請各社の代表をよんで意見を聞いた。

 務台の発言は例によって気迫がこもっており、田中も頭の回転は早い方だから、会談は数分間の短いものだったが、この時すでに決するものがあったらしい

 田中は大臣就任直後、大阪のテレビ問題の重大さを認め、電波当局に対して、大阪地区に一チャンネル増加できないかを下問していた。その結果は、田中の期待に反して、一チャンネル増加すると混信の恐れがあるという答えであった。田中は読売の記者にそれを伝えた

 務台は務台で、「単独免許を目指したのは、感だけではなかった。あらゆる情報、知識を集めていたのである。その情報のなかに、姫路地区用にチャンネルがひとつあり、それを大阪に持ってきてチャンネルプランの修正をすることは、電波技術の上から可能であるというのがあった」(同書三一三頁、太字は筆者傍点部分)

と記している。

図 民放テレビ(VHF)予備免許 年月日順一覧表

 さて、ついに田中角栄の登場である。弱冠三九歳の野心満々たる汚職専門の政治家が、ここに、日本の電波行政を一手に握った。利権を金権に、金権を政権にむすびつけ、マスコミの支持をとりつけるべく、「頭の回転は早」まる。田中と「読売の記者」との関係、ひいては、のちに有名になる「田中番記者」たちとの関係も、ここに早くも姿を現わしている。

 田中との、ツーカーの情報をもとに、務台は、八木アンテナで有名な八木秀次博士までかつぎだして、実地調査をした。

 「八木は調査の結果を、田中郵政大臣の要請により、大臣室で関係幹部列席のうえ、地図を前に二時間にわたって、その根拠と可能だという証明をした。その結果、大臣をはじめ、それまで、この説に反論していた電波管理局も、八木の説明に納得した」(『百年史』九〇九頁)

 郵政省内では、さらに検討を加え、大阪地区で二波ふやせる、という結論を出した。

 まるで、シルクハットからつぎつぎと白バトが飛びだす手品のような話である。しかも、田中角栄という建設業の出身者は、電波の専門技術者の検討に先立って、「大阪地区にはどうしても二波割当てないことには、電波問題の解決はない」(同前九〇八頁)と考えていたというのであるから、大変な“念力”でもある。

 しかし、タネを明かせば簡単なことで、周辺地返にしわよせするだけのことである。まわりとの混信を無視すれば、東京でも大阪でも物理的限界は同じなのだから、同じチャンネル数がとれるのである。東京新聞の『官庁物語』では「正力国務相に『これを許可しなければ閣僚を辞する』と開きなおられ、すったもんだのあげく佐藤栄作氏らも調整に乗り出して、チャンネルを三本ふやし、……(略)……この正力氏の横車の犠牲になってNHKの姫路放送局に割当てられていたチャンネルが引上げられ大阪にまわされてしまった」(同書九〇頁)、と記している。ときの首相は、最近の航空機汚職で有名人にカムバックの岸信介であった。

 ともあれ、「務台は田中と何回も会談し、最後に平井大臣のときに出した異議の申請を取り下げる。

 その代り、新局を割当てることを暗黙の中に了解した」(『闘魂の人』三二三頁)というのである。田中角栄は、この「暗黙の了解」が得意中の得意であったようで、この読売テレビ創設に関しても、もうひとつ、ハラ芸をみせている。それは、この時の大量予備免許に際して、郵政省令が出されており、それによると新聞社とテレビ局、テレビ局とテレビ局間の常勤役員の兼務は禁じられている。ところが、正力松太郎は読売新聞の社長と日本テレビの会長をやっており、その上、「大阪の読売テレビについても、現業にタッチしない会長ならいいではないかということで、郵政当局も暗黙のうちに了解し、正力は会長になった」(同前三二八頁)、というわけである.

 このように、みずから制定した省令を、ハラ芸で操作し、法令の主人公たるべき国民をないがしろにするのは、官僚の二枚舌に第一の仕掛けがある。ついで、その官僚の特性をうまく使いこなすのが、田中角栄の得意芸であった。田中が務台に対しても、「ヨッシャ、ヨッシャ」といったかどうか、ぜひ聞きただしたいところである。

 さて、大阪地区のテレビ免許がとれた。申請したときの名称は、新大阪テレビであったが、早速、読売テレビ放送へと名称がえ。突貫工事で、サンケイ系列の関西テレビを追いぬいて、一九五八(昭和三三)年八月二八日に開局した。

 「当然の推移だが、娯楽、報道番組などは日本テレビとのネットワークで編成された。同じ読売新聞をバックとする東京と大阪のテレビ局が、がっちりと手をにぎったのだから強力だった。この協力体制は、のちにNTV系列とTBS系列の二大ネットワークヘと発展したきっかけとなった」(同前九一二頁)

 これまた、堂々たる「違法」の自認なのである。最近の国会でも、朝日系のモスクワ・オリンピック中継独占が問題になった際、テレビ朝日の常務取締役で、社長につぐ実力者といわれる三浦甲子二が、こう明言している。

 「民間放送の私どもにはネットワークというようなものは認められておりません」
 (『参議院・逓信委員会議事録』一九七七年四月一九日、二四頁)

 こういうタテマエなのだから、いかに郵政省の行政指導がいいかげんか、そして、マスコミ経営者が、いかにシラジラしいウソをいうものなのかが、わかろうというものである。

 ところで、違法・適法の論議は別として、事実上のネットワークの成立は、当初のムント=正力構想に発していた。そして、マイクロ・ウェーブ網(中継回線)という技術的手段が、これまた強行軍によって設置されなければ、実現できないものであった。

 日本テレビの『25年』には、「電電公社は、マイクロ中継回線の建設を急いだ。もっとも、正力構想のスピードに及ぶべくもなく、二九年四月に東京-名古屋-大阪間二系統が開通」(同書五五頁)と記されている。そして、ここでは、電電公社と正力の間で、火花がちっていたのである。


(第2章6)マイクロ・ウェーブで「怪文書」