『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(2-3)

第二章 ―「背景」 3

―国会を愚弄するテレビ電波私的独占化競争の正体―

電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25

昨日の友は今日の敵

 日本テレビ放送網は、このような努力にはじまり、NHKテレビに先駆けて、一九五二(昭和二七)年七月三一日、テレビ放送局の予備免許を獲得した。

 この成功の理由としては、すでにのべたアメリカの動き以外に、やはり、アメリカ依存とはいえ、計画や実行に移る体制が進んでいたことがあげられるし、そのなかでも、正力自身がのべているように、「とりわけ、読売新聞社を強敵とする朝日新聞社と毎日新聞社が、最初の資本協力に応じてくれたことは特筆すべきである」(『25年』一二頁)。

 では、朝日と毎日とは、テレビ界での読売グループとの対決を考えなかったのであろうか?

 そうではあるまい。また、正力の言葉によれば、「財界の不況のさいでもあり、かかる大金には到底応じきれない」(同前二頁)といって、多くの財界人が出資を尻ごみしたといわれる一口一〇〇〇万円の資金について、両新聞社が右から左に都合できる状況だったかといえば、まったく反対である。両新聞社とも、いまと同じく、借金だらけの財政状況であった。当然、とくに銀行筋などの財界の意向もあったと思われるが、それだけではなく、いくつかの”密約”が考えられるのである。それも、確実にである。

 というのは、務台の『闘魂の人』で、務台が正力に、読売新聞の大阪進出の決断をせまるところがある。この話は、さきの日本テレビヘの予備免許認可の直後、一九五二年九月二三日、秋分の日のことになっている。務台は、この休日に正力家を訪れた。大阪進出の是非について結論がでないまま、夕食後のひとときのことである。

 「正力は、

 『務台君、一週間待ってくれ』といった。

 『それはどういうことですか』

 『実は本田と村山に、三年はやらんと約束してあるんだ』

 テレビの関係である。務台も察してはいたが、

 『そんなことあったんですか』

ととぼけた」(同書二四四頁)

 引用文中、「本田」は毎日新聞社長、「村山」は朝日新聞社長のことである。つまり、日本テレビの設立資金と免許の獲得に当っての協力とひきかえに、正力は、読売新聞の大阪進出を三年間のばすという約束をしていたのである。しかも、その約束を、右腕であり、しかも新聞経営のほとんどをゆだねていた務台にすら、黙っていたわけである。

 さらに、この大阪進出に関する”密約”には、もうひとつ、大阪のテレビ免許について、朝日・毎日にゆだねるという約束も含まれていたようである。この約束も、のちに破られるのだが、正力は、翌年の「怪文書」さわぎの国会で、つぎのように、アタマかくしてシリかくさずの、いいのがれをしている。

 「正力参考人 …(略)……私は、朝日、毎日に対して、大阪は二社でおやりなさいとはいいません。大阪も出したいと思う。しかし何しろ大阪のことは、ぼくも事情がわからぬから、出すとすれば、運営は二社でやってもらうことになるかもしれぬ、こういう話はしました。私どもは出願せぬとはいいません」(『衆議院・電気通信委員会議事録』一九五三年一二月七日、一〇頁)

 朝日新聞も毎日新聞も、その時すぐには、東京で、自力のテレビ局をつくる準備はなかった。だから、読売新聞なり正力との”密約”は、双方にとって損のないものであった。とにかく、NHKの独占をやめさせ、民間テレビの枠を確保すること、これが当面の共通目標であった。

 だが、第一段階は越えた。

 昨日の友は今日の敵。”密約”は、ただちに破棄される運命にあった。

 読売新聞の大阪進出計画は、その最大の引金であった。進出計画そのものは、すでに戦前からあり、正力も一九三九年に、他人名儀で大阪駅前に四○○坪の土地を手に入れたことがあったが、用紙統制に名を借りた新聞統廃合のため、一県一紙の壁にぶつかって実現しなかったものである。

 一九五〇年一月、正力がまだ公職追放中に、務台光雄は読売新聞復帰を果した。務台も正力とともに、第一次読売争議で退社していたのだが、いろいろな経過をへて、常務取締役として、実権を握りなおした。

 第一の大仕事が、大阪進出である。まず印刷工場を確保した。元読売新聞記者で、『アサヒ芸能』の社長をしていた竹井博友(現中部読売新聞社長)が、そのための“密使”となった。もっとも、朝日や毎日に邪魔をされぬよう隠密裡にことを運んだというのであるが、この話には、競争意識をあおるためのウソもまじっている。

 というのは、『百年史』、『闘魂の人』や、竹井の自著『執念』によると、印刷工場「新大阪印刷」の完成が一九五一(昭和二六)年末、『大阪読売新聞』の創刊が翌一九五二(昭和二七)年一〇月であり、その一〇月ギリギリまで、秘密が保たれたかのようになっている。そして、そのために大変な苦労をしたと称している。話の調子は、あたかも『敵中潜行三千里』風である。

 ところが、すでに引用した『東洋経済新報』の別冊「日本の内幕」は、その七ヵ月も前の、一九五二(昭和二七)年三月の発行なのに、こう書いていた。

 「読売新聞の当面する最大の問題といえば、長年懸案となっていた『関西進出』である。

 常務務台光雄と出版局長八反田角一郎の手で計画がすすめられ、共販制が切替えにならないうちに割りこんでいくハラだから、実現もそう遠くないということになる。

 もちろん、現地の準備もすすんでいる。戦災をうけて、ながいあいだ鉄骨だけのさらしものになっていた大阪の労働会館も買収し、朝日芸能の竹井社長にあずけて、『大阪印刷』のカンバンで、すでに業界紙として発足しているが、いざという場合、いつでも看板を切替える手筈になっている」(同誌一七六頁)

 この記事には、若干のまちがいもある。「労働会館」とは、戦後の産別会議のもので、戦災にはあっていない。また、「大阪印刷」は「新大阪印刷」の誤りで、「業界紙として」ではなく、「業界紙の印刷会社として」とすべきところである。

 しかし、これだけ真相をついた記事が、有名な経済誌の、しかも、「日本の文化の危機」というコーナーに、NHK、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞と、大どころのマスコミをなで切りする形でのっているのだから、関係者の間で秘密が守れるはずはない。読売側の“隠密ゴッコ”はあったとしても、相手側には早くから筒ぬけで、しかも、本気に邪魔をした形跡はない、というのが真相である。

 では、なんのために「敵中潜行」の創作を、麗々しく社史にまで載せているのであろうか。いうまでもなく、まずは、“鬼畜”朝・毎との果てしなき決戦に、ひきつづき全社員を精神総動員するためである。そして、その証拠に『百年史』は、つづいて、「いよいよ大阪進出のZ旗が、かかげられたのである」(同書六二四頁)と、その戦意高揚“訓話”の本性を現わしている。


(第2章4)務台“専売”将軍、大阪秋の陣