第二章 ―「背景」 2
―国会を愚弄するテレビ電波私的独占化競争の正体―
電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25
反共十字軍のテレビ・ネットワーク
田中角栄構想は、しかし、田中個人の発案などというものではない。田中が、何者かの手先になって、政治面で推進に努力しただけにすぎない。放送界の中では、正力松太郎が、早くから先頭に立っていた。日本テレビ放送網の「網」の一字は、その執念の表現である。
そして、日本のテレビそのものが、つぎのようなアメリカの反共的世界政策に発している。
「共産主義は飢餓と恐怖と無知の三大武器を持っている。共産主義から最も直接に脅威されているアジアと西欧諸国では、テレビジョンの広い領域がある。共産主義者に対する戦いにおいて、アメリカが持っているテレビが最大の武器である。われわれは、『VOA』と並んで『アメリカのビジョン』を海外に建設する必要がある。最初、試験的にやってみる最も適当な場所はドイツと日本である。日本のすみからすみまで行き渡らせる完全なテレビの建設費は四六〇万ドルであるが、これはB36爆撃機二機をつくるのとほぼ同じ金額である」(『25年』九頁)
アメリカ上院における、一九五一(昭和二六)年の、ムント上院議員の演説の一部である。ムントは、アメリカの謀略放送VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)の推進者であった。
ムントの計画は、本来、アメリカ国務省の事業として、占領地である日本の全土にマイクロ・ウェーブ網を建設し、テレビ網と軍事通信網を兼ねさせようとするものであった。日本に視察団を送ることも提唱しており、「ムントは、この案をマッカーサー元帥にも送って、考慮を求めていたといわれる」(『放送五十年史』三七三頁)と、NHKの正史の記述にあるほどだ。
正力は、なぜか、このムント構想を知り、のちの日本テレビ専務取締役、柴田秀利を使者とし、自分を売りこんだのである。しかも、その手口たるや、すさまじい。正力のテレビ構想は、まさに構想だけ、徒手空拳ですべてをアメリカにたよるという強引そのものの計画で、ことごとにNHKの国産化構想と対立した。その当時、日本テレビに免許のおりる前に、第三者が書いた文章で、その有様をみてみよう。
「『NHKテレビ』との事前競争は、電波管理委員長富安謙次(風生)の辞任問題をまきおこしたりして、前途の波瀾をおもわせているが、これについて、正力松太郎がひさしぶりに、往年の『鬼警視』時代を思い出させるような、すごいテをうった。
読売の前社長馬場恒吾時代の秘書に、柴田秀利という男がいた。
青山学院出身、戦時中に軍の特務機関にいたという伝説をもつ男で、戦後第二次争議鎮圧に暗躍した功績によって、馬場の秘書におさまり、在社中からNHKのニュース解説などを担当していたが、一昨年、当時の常務武藤三徳との仲がうまく行かないというような表面上の理由で退社して、NHK専属となり、昨年特派されて渡米した。渡米の目的は、放送事業全般の視察ということになっていた。
ところが、この男、帰国すると、ロクに視察報告も提出しないうちに、たちまちNHKに辞表をたたきつけ、鞍替えした先が、ナンと『正力テレビ」であった。
柴田の渡米費が全額NHKの負担であったことはもちろんのことであるが、つたえられるところによれば、彼は滞米の全期間を、もっぱらテレビの研究についやしてきたという。その成果が、そっくりそのまま、『正力テレビ』への持参金になったのは、あらためていうまでもない」 (『東洋経済新報』一九五二年三月別冊「日本の内幕」一七五頁)
柴田秀利は、すでに紹介ずみの人物である。巣鴨プリズンの正力松太郎と、吉田茂、マッカーサーの間を取り持った忍者、スパイであった。
「柴田という男は、青山学院、『報知』経由の入社組で、英語に堪能な社会部出身の政治記者であったが、戦争中は陸軍少尉として軍の特務機関にいたことがあり、このときの上官が福田篤泰情報中尉=福田秘書官であった」(増山『読売争議』一二四頁)
ここでいう「福田秘書官」とは、さきにふれた吉田首相の秘書官のことである。つまり、吉田茂も、元スパイを身元に置いていたわけである。
柴田は、また、GHQ新聞課長のインボデン少佐に愛人の世話までし、親交を結んでいたという。
このような、日米の新旧情報将校同士の「親交」の上に立って、当時はA級戦犯として巣鴨プリズンにいた正力松太郎、吉田首相、マッカーサー元帥が結びつけられた。福田元中尉は柴田元少尉に、読売新聞「社内の共産党員リスト」(『八十年史』五二二頁)をつくれ、と命じた。吉田首相は、このリストをもってマッカーサーを訪ね、マッカーサーは「わかった。全面的に君たちをバックアップしよう。共産党関係者を追っ払ってやろう」(『週刊文春』一九七六年四月二二日号、一二四頁)と約束したのである。
正力が獄中にあった時、読売新聞の社長は、「自由主義者と目される背の高い死者のように色蒼ざめた評論家馬場恒吾」(『ニッポン日記』二三頁)であった。第一次読売争議の「協定覚え書き」には、「正力氏の推薦する馬場恒吾を社長」とする旨、明記されていた。この馬場社長が、GHQのべーカー准将(代将)の部屋で、柴田のつくったクビキリ・リストを見る場面を、回想記にしたためている。
「其所にいくと何故読売を罷めるのかという。編集部幹部が私のいう事を聴かないから、私の方で罷めるのだといった。その幹部とは誰だと聞くと、これこれだと四人の名を挙げた。するとその高官はソッと自分の引出を開いて、中をのぞきこんでいたが、私に向って未だあるだろう、これはどうだといって外に二人の名を挙げた。それは私の胸でも黒星を付けてある人々であったが、一時に六人を罷めさすのは私には少し荷が重過ぎると思って四人だけしかいわなかったのである。それをGHQは既に知っていると見えたので、私は二人も実は罷めさせたいのだが一時にはどうかと思ったのだと正直にいった。
相手はそれも一緒に止さしたらよいだろうという。私は思わず椅子から立ち上って、それならやりましょう。だが、この騒ぎに対して、私は最後までGHQが私を後援するものと期待してよいかといった。それは期待してよろしいという。その約束を固めるために私の方が手を差し延べて、力一杯握手した」(『自伝点描』九二頁)
「高官」は、ベーカー准将(代将)であった。その支持の下、六名の組合幹部クビキリ通告に端を発する第二次読売争議がはじまり、結果は、計三七名の退職となった。
さて、この陰謀のタレント柴田秀利が、NHKの費用で、正力テレビ構想の密使としてアメリカにわたったのである。そして、その状況をいま、『25年』は、いかにも堂々たる訪問として描き出している。
「二六年四月二二日、正力の命を受けた柴田は、ワシントンにムント議員を訪問し、『民族独立の悲願に燃えて主権回復の前夜に立つ日本が、いかにアメリカといえども外国政府の支配下に置かれるとあっては、言論の自由も独立もない。技術的援助は喜んで受けるが、日本のテレビは日本人の手でやらせてほしい』と単刀直入に申し入れ、正力のテレビ計画を力説した。ムント議員もその真意を理解して『日本人自身の手でやることがなにより望ましい。その線に沿ってできるかぎり援助しよう』と全面的に受け入れた」(同書一〇頁)
この柴田=ムント会談の土台の上に立って、参議院議員の岡崎真一(同和火災保険会社社長、のち日本テレビ取締役)が、重ねてムントと会見し、その模様がAP、UP、INS電に流されたことにより、“正力テレビ構想”なるものが、にわかに現実性を帯びてきたのである。
ところが、日本テレビの『25年』よりも先に、一九七六年に発刊された読売新聞の『百年史』では、以上の柴田の“愛国的”発言はカットされており、つぎの点が強調されている。
「柴田は当時を回想して『読売新聞社員として、第一次、第二次と二つの大きな争議を体験した私自身の立場から、アメリカが反共のために、アメリカ人の手で日本にテレビジョンを建設したら、日本人全体の反感を買うと話した。この体験がムント議員を動かしたのだと思う』と語っている」(同書八八九頁)
どうやら、ムント議員を動かしたのは、この二つの美文のかげによみとれる「反共闘争の実績」であるらしい。
ともかく、かくしてムント議員の反共テレビ世界網構想の一部は、正力テレビ構想に肩がわりされたのである。NHK発行の『放送五十年史』は、「講和・独立を控えた特殊な情勢の下で、アメリカの極東軍事戦略に深く関連しながら全国のテレビ網と通信網を一挙に手中に収めようとする正力の計画」(同書三七三頁)という表現を用いている。
(第2章3)昨日の友は今日の敵 へ