2006/10/9 | 所沢高校・井田将紀くん(高3・17)自殺事件。教師の叱責による自殺について | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006年10月4日(水)、さいたま地裁で、所沢高校・井田将紀くん自殺事件の第2回目の口頭弁論が行われた。 第1回目は8月3日(木)。お母さんが法廷で、陳述書を読み上げた。 提訴に踏み切った理由は、将紀くんはカンニングなどしていないという信じる気持ちもある。そして何より、どんな理由であれ、権力者である教師が4人も5人もよってたかって、生徒を2時間にもわたって尋問する権利があるのかという疑問。生徒ひとりが命を絶っているにもかかわらず、自分たちの指導に間違いはなかったと言い切る学校の傲慢さ。教師たちに反省がなければ、再び子どもの命が失われるかもしれない危機感が、お母さんを突き動かしたのだと思う。 井田将紀くんが自殺したのは、2004年5月26日。中間試験でカンニングを疑われ、母親の携帯電話に「迷惑をかけてごめん」とメールを送り、飛び降り自殺した。 この事件については当時、「わたしの雑記帳」に思うところを書いている(me040528)。 実は、それを読んだ方の仲介があって、それからほどない時期に、私は井田さんとお会いしている。 たしか、まだ将紀くんが亡くなってから1か月もたっていない時期で、お母さんはすでに職場に復帰していた。将紀くんの話をしても涙も流すこしもなく、見た目は元気そうだった。 「食事はとれていますか?」「夜は眠れていますか?」と聞くと、「食事は食べれています。でも、睡眠のほうは、夜になっても眠くならないんです」と話された。 このことについて、何人かの遺族から同じような話を聞いた。亡くなって1カ月から3カ月くらい、妙にハイになってしまうことがあるという。もちろん、ひとによっては毎日、泣き暮らすひともいる。 子どもの死というあまりに受け入れがたい事実を前に、感情が麻痺してしまったり、拒否反応が出たりする。 時間がくれば何かを食べなければと口にするが、お腹がすいたという感覚がない。何を食べてもおいしいとは感じない。夜になっても眠れない。眠気も感じない。 じっとしていられない感覚に襲われ、仕事でも、外出でも、とにかく動いていなければと思う。それまでの生活をただ淡々と機械的にこなす。 子どもが亡くなったのも忘れて、夕飯の買い物かごに、子どもの好物を次々と放り込む。亡くなった子どもの分も食事をつくってしまう。間違えて、名前を呼んでしまう。 それが異常な状態であることさえ認識しないまま、生活をこなしていく。 そして、その状態が切れたときに、どっと落ち込み、一転して無気力になったりする。子どものあとを負って死にたくなる。あまり報道されることはないが、実は後追い自殺というのも何件もあるという。 遺族はぎりぎりのところをなんとか命をつないでいる。 当時、井田さんは、学校の先生方が毎日のように弔問にくると話していた。私がお邪魔している間にも2名ほど連れ立ってみえた。「もう結構です」と言ってもやってくる。 多くの事件で、49日までの間は、学校関係者が足げくやってくる。学校で何があったのか、調査結果の報告ではなく、ただやってくる。また、遺影に手を合わせることはあっても、謝罪の言葉はない。 「先生方はいったい何しにいらっしゃるんだか」「雑談をして帰っていかれます」と井田さんは話されていた。 実は、その間に学校・教育委員会は、被害者側の情報を集めている。怒りの度合い。訴訟を起こす気があるかないか。どこまで情報をもっているのか。味方をしているのは誰と誰か。そして、教育委員会に報告をあげるときには、あるいは裁判になったときには、「誠意は尽くした」というアリバイにもなる。 ひとりで訪れると、遺族の迫力に負けて、つい本当のことを話してしまう教師もいる。だから大抵は2人以上で来る。また、担任や部活動の顧問など、亡くなった生徒と親しかった教師の訪問は、できるだけ避ける。 雑談のなかで、ある教師は言ったという。「所沢高校はとてもよい学校です。将紀くんは所沢高校に入れてよかったと思います」。お母さんは「私はそうは思いません」と答えたという。 子どもを学校で亡くしたばかりの親に対して、その原因をつくった教師たちが、言える言葉だろうか。親は、「この学校に入れさえしなければ、子どもは死なずにすんだかもしれない」「この先生方に会わなければ、死なずにすんだかもしれない」と思っているかもしれないのに、余りに無神経だと思った。 その頃、井田さんは裁判を起こすことなど考えてはいなかった。 ただ、わが子に何があったのかを知りたい、そして、二度とこのようなことが起きてほしくないということを話されていた。 同じ埼玉県で、2000年9月30日、大貫陵平くん(中2)がやはり教師らの指導のあと、自殺した事件(000930)の話をするとたいそう驚かれていた。そして、過去の教訓が生かされていないことを嘆かれていた。 私は、その気のないひとに訴訟を勧める気はない。支援の押し売りをするつもりもないので、その後は自分からは連絡をとらずにいた。ただ、同じ思いの親たちがいること。必要があれば仲介することもできると伝えておいた。 その井田さんと、今年6月3日から4日、神戸で開催された『全国校事故・事件を語る会』で再会した。お互い、パネルディスカッションのパネラーのひとりだった。(me060606参照) 裁判を起こす決意をし、準備をされていることも知った。そして、その担当は、子どもの人権にかかわる裁判の傍聴で親しくさせていただいている杉浦ひとみ弁護士らだった。 第1回目の口頭弁論の時には、『全国校事故・事件を語る会』のメンバーが各地から駆けつけた。 長崎からは安達さんが駆けつけていた(040310)。その安達さんもついに、民事裁判の第1回目を10月に迎えた。 辛い裁判をともに闘うネットワークの存在を頼もしく感じる。 実は、教師の言動にショックを受けて、あるいは抗議の意味を込めて、生徒が自殺する事件はいくつも起きている。一方で、報道されている事件、あるいは私が把握している事件はごく一部にしか過ぎないと思われる。現実には、親自身が自らを責めたり、自分の子どもにも原因はあると思ったり、周囲からの非難を恐れて、いじめや学校事故以上に声をあげにくい。 悪いことをして教師が叱るのは当たり前。それを恨んで自殺するほうが間違っている。自分の教育を棚にあげて、教師を恨むのは筋違いという声が聞こえる。 しかし、大人たちは本当に、子どもたちの最善の利益を考えいただろうか。生徒のためと言いながら、自分に従わないことに腹を立てたり、日頃のうっぷんを生徒いじめで晴らしたり、生徒管理のための見せしめにしたりしていないだろうか。 犯罪者でさえ、法律で守られている。 すなわち、 刑事訴訟法198条 【被疑者の取調】 ・被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げなければならない。 刑事訴訟法319条 【自白の証拠能力】 ・強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く拘留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑いのある自白は、これを証拠とすることができない。 ・自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。 もちろん、現在の警察が、きちんと法律を遵守して、被疑者の人権を尊重した取調べをしているとは思えない。しかし、子どもに対して、まして多少の逸脱行為はあったかもしれないが、犯罪者でもないものに対して、警察官でもない教師が、複数で生徒を脅したり、暴力をふるったり、長く拘束した状態で、証拠もないものに対して、自白を迫り、その後のフォローもないということは、どういうことだろう。
事件から、いくつか共通することがみえる。 教師がふだんから暴力をふるったり、暴言を吐いたり、特定の生徒をターゲットにしたりと、生徒との間に信頼関係がない。教師の思い込みによる叱責や体罰も多い。 また、学校全体の方針として、ささいな逸脱行為を許さず厳罰にする、他の生徒の非行事実などを生徒同士に告発させる、部活動の停止など連帯責任を科すなど、生徒指導に必要以上の人数であたり威圧感を与えるなど、生徒を効率・能率よく支配・管理するためのルールが、教師から生徒に一方的に押し付けられている。 そして多くの場合、教師たちはほんとうに問題のある生徒には手付かずで、むしろ素直に言うことをきく、内省の強い生徒を周囲への見せしめ的にターゲットにすることが多い。 突っ張っている子であっても、親には迷惑をかけられない、かけたくないと思っていることが多い。 精神的にも大人になろうとしている時期は、ブライドは大人以上に高くなる。 親と一緒に問題を考えることはとても大切なことだと思う。しかし、一緒に考えようとするのではなく、生徒の目の前で一方的に親をさらし者にすることで、生徒の罪悪感を掻き立て、心理的に追い詰めようとする傾向が見てとれる。(まるで、警察ドラマにある「泣き落とし」のように) いじめ、万引き、カンニング、喫煙、飲酒。どれもやってはいけないことだ。しかし、このなかのどれひとつも経験せずに大人になる人間が果たしてどれだけいるだろう。 子どもならではの好奇心もある。子どもは未熟で当たり前だ。失敗のなかから様々なことを学んでいく。学んでいける社会でなければいけないと思う。子どもの心身の成長を助けるのが大人の役目だと思う。 思春期は心が柔らかな分、不安定で傷つきやすい。それでも、教師が本気で生徒のことを思っていたとしたら、その思いが生徒に通じていたとしたら、叱られても、もっと納得がいったのではないか。 話せば教師たちも自分の気持ちをわかってくれると生徒が思えたなら、死なずにすんだのではないだろうか。話しても無駄。わかってもらえるとは思えない。言葉が通じないと思うから、ある子どもたちは暴力に訴える。そして、暴力という形で他人を傷つけることのできなかった子どもが、大人たちへ抗議の意味を込めて、自殺という行動に訴えるしかなかったのではないだろうか。 圧倒的な力の差を前に、理不尽さに絶望感を強くしたのだと思う。 自殺は「僕(私)たちの気持ちをわかってよ!」という、子どもたちの最後の叫びではなかっただろうか。ここでも、子どもたちは好きで死を選んだわけではない。心を深く傷つけられて、死に追い詰められたのだと思う。 せめて、その思いを受け止めて、大人たちは自分たちの言動のどこかに生徒を死に追い詰めた原因がなかったかどうか、検証すべきだと思う。 子どもが自殺したあと、大人たちは必ずのように「命の大切さ」を生徒たちに説教する。 本当に、命の大切さを知るべきは大人たちではないだろうか。 失われた命を悲しむより先に、「迷惑をかけられた」と公言して憚らない教師たち。教育委員会。子どもの死から、何も学び取ろうとしない大人たち。 裁判の性質上、原告である親はどうしても被告(この場合、学校・教育委員会)の非ばかりを責める形になってしまう。しかし、親はきっと誰よりも自分自身を責めている。あのとき、ああすれば、こうすれば子どもは死なずにすんだのではないか。救えたのではないか。子どもの死のいちばんの原因は自分にあるのではないか。 それでも、どんなに自問自答しても解けない部分があるとき、納得がいかないとき、訴訟に踏み切るのだと思う。 世間から非難されることはわかっても、負けるかもしれない辛い裁判になることがわかっていても、自分のことであったらとうにあきらめていることであったとしても、子どものためだと思うからこそ、親は耐えられるのだと思う。子どもに詫びる気持ちがあるからこそ、最後まで戦い抜こうと決心するのだと思う。 遺族がもし声をあげずにいたら、私たちは自分の子どもにも迫っているかもしれない危険に気づかずにいるだろう。 過去に起きた事件は、きちんと検証し、具体的な対応策をたてなければ、必ずまた起きる。 このままいけば、陵平くんの死も、将紀くんの死も、多くの子どもたちの死が無駄になってしまう。 子どもに何があったのか。なぜ、死に追い詰められなければならなかったのか。どうすれば、死なせずにすんだのか。たくさんの目で裁判の成り行きを見守りたい。二度と再び、同じ事件を繰り返さないためにも。 |
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