わたしの雑記帳

2004/5/28 男子生徒がカンニングを疑われ?自殺


5月26日、埼玉県所沢市の県立所沢高校の男子生徒(高3・17)が、中間試験でカンニングを疑われ、飛び降り自殺をした。
新聞等によると、5月26日、男子生徒は中間試験の2時間目、物理の試験中に、1時間目の日本史の試験に関するメモを机の上に出していたため、監督教師に注意を受けた。
試験終了後、正午ごろから約2時間、個室で、担任ら5人(4人?)の教師が代わる代わる生徒から事情を聴いた。生徒は「(メモは)日本史の試験中には見ていない。物理の残り時間に勉強していた」と説明した。教師らは「疑われるような行為はよくない」と指導したという。
生徒は帰宅後、母親の携帯電話に「迷惑をかけてごめん」とメールを送り、直後の午後5時50分ごろ、自宅近くの立体駐車場から飛び降り、病院で死亡したという。
27日、学校は朝、全校集会を開き、校長が生徒の自殺や命の大切さなどについて話した。(共同通信・時事通信・ほか)

このニュースを読んで、どう思うだろう。学校の指導が行き過ぎだと感じるだろうか。それとも、たかがカンニングと疑われ指導を受けたくらいで死ぬなんて今の子どもはすぐに死ぬので叱ることもできない、弱い、と思うだろうか。
この事件をみるにあたって、いくつか気づいたポイントがある。

1.男子生徒が高校3年生であるということ。
高校3年生の1学期、最初の中間テスト。大学受験を控えて、そして内申書を意識して、最初の試験ということもあって、男子生徒はおそらく気合いが入っていたのだろう。
だから、試験の残り時間に、すでに終わった1時間目の日本史の試験結果が気になったのではないか。
せっかくのやる気が誤解を生む結果となってしまったことに、やりきれなさを感じただろう。
もしかしたら、「カンニングと思われた」ことが、今後の内申書や成績、推薦等にどう響くか不安になったかもしれない。もちろん、そこまでは考えていなかったかもしれない。しかし、子どもたちは学校や家庭で常に、受験を縛りとして、日常生活全般の細部にわたるまで脅しをかけられている。過敏に反応するように、洗脳されている。

2.出ていたメモ(資料?)は1時間目の教科のものだった。
もし彼が、堂々とメモを机の上に出していたのだとしたら、それは「悪いこと」という認識がまるでなかったからではないか。時間を無駄にしたくない。思い立ったときに勉強したい。物理の答案を書き終わって、空いている時間を有効活用しただけなのだろう。
もし、1時間目にカンニングしていたのだとしたら、違う言い訳が出ただろう。「テストの答案があっているかどうか気になって、休み時間にチェックしていたものをしまい忘れた」とか。
不用意だったことはあるにしても、記事を読む限りにおいて悪意は感じられない。
万が一、疑わしい部分があったとしても、それを教師が指摘できるのは現行犯の場合のみではないか。私たちは日常生活のなかで、おかしい、と思うことはあっても、確たる証拠のないことにはおいそれとは口にできない。ひとは誰でも間違いをする、勘違いもする。

3.絶対的権力者としての教師
ここに、生徒対教師という、絶対的な権力差がある。
これがもし、町の本屋で万引きの疑いで捕まったとして、確たる証拠が出てこなかった場合、どちらが謝るだろう。
客は犯人扱いされたことに怒るだろう。店は平謝りに謝るのが常識だろう。「お前が万引きと間違われるような真似をするのが悪い。反省するように」とは言わないだろう。まして相手が、店員を困らせてやろうと、わざと万引きと間違われるような不審な行動をとったのではない限り(だとしても客の言い分が通るかもしれないが)。
教師は、彼の言い分を疑っていたから、さらに事情を聞いたのだろうか。それとも、勘違いをしたことに引っ込みがつかなくなったのか。

4.なぜ5人(4人)もの教師が。
生徒が暴れて手がつけられなかったわけではない。教師の疑問に対してはきちんと納得のいく答えを返している(新聞で読む限り)。にも、かかわらず、なぜ、5人もの教師が指導する必要があったのだろう。
せいぜい、担任が事情をきく程度でよかったのではないか。多くても2人が限度だろう。
仮にカンニングだったとしても、他人を傷つけたわけではない。青少年期にはよくあること。万引き同様に、けっしてよいことではないが、重大な犯罪と一緒に考えるべきものではないと思う。
これは、他の生徒への見せしめではなかったか。それも、カンニング防止のためではなく、教師に対して口答えをしたことへの。自分が間違ったこと、相手が認めないことに対して、他の生徒の前で「恥をかかされた」と思ったのではないか。その思いに同僚の教師たちが同調したのではないか。

5.問題はこの時だけではない。
日頃、生徒と教師との間に信頼関係があったとしたらどうだろう。
「おい、本当にカンニングじゃないんだろうな?」「カンニングなんてしていません。信じてください」「わかった。信じるよ。カンニングだと決めつけた先生も悪かった。みんなの前で恥をかかせてすまない。でも、試験中は資料を何も出しておかないルールは知っているだろう。間違われても仕方がない。今度から気を付けるように」「はい。すみません」この程度の会話で、すますことのできた内容ではなかったのか。
そしてもし、教師への信頼があったとしたなら、一時、教師の仕打ちを恨んだとしても、自殺するまでには至らなかったのではないか。高校2年間のなかで、積もり積もったものがあって、その上に今回のことが重なって、自殺への最後の引き金になっのではないか。
そして、試験のあと、正午ごろから約2時間というが、昼食はどうしたのか。中間テストで弁当も持ってきていないとしたら、成長盛りの男子生徒に昼食もとらせないのは虐待だ

6.学校側の事後処理
事件があるたびに、学校側は「命の大切さ」を生徒に説く。
これは暗に、自殺した人間を「命を大切にしなかった」例として、責めている。そのことで、自分たちへの批判を交わそうとする。
本当に「命の大切さ」「心の大切さ」を知らなければならなかったのは教師であり、自殺した男子生徒は教師たちにそのことを教えたかったのではないか。命より大切なものがあるとしたら、別の誰かの命か、心だ。思春期の子どもたちにとって特に、心の存在は大きい。自尊心を深く傷つけられたとき、青少年の潔癖さもあって、それは絶対に許せないことだった。彼にとっては命をかけるべき出来事だった。発作的な部分があったとしても、けっして命を粗末にしたのではなく、自尊心を何より大切にしたのではなかったか。


この事件の一報を聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのは、同じ埼玉県で2000年9月30日に自殺した大貫陵平くん(中2)の事件だった。
最初、「たかが、お菓子を食べたことを叱られたくらいで、死んでしまうなんて」と思った。しかし、実際には「たかが、お菓子ではない」と追いつめたのは教師たちだった。大人たちの過剰反応。息苦しく管理された学校生活。生徒を支配するために見せしめとして使われるほんの小さな出来事。まじめで、感受性が強く、やさしい生徒ほど、理不尽さへの怒り、攻撃、やるせなさが、他者へは向かわず、自分自身へと向かってしまう。
陵平くんの「死にます/ごめんなさい/たくさんバカなことをして/もうたえきれません/バカなやつだよ/自爆だよ/じゃあね/ごめんなさい/陵平」と書いた遺書。そして、今回、母親に送られたメールの内容は「迷惑をかけてごめん」。今回の件に関してはまだ詳細はわからないにしても、教師を恨む言葉を書き連ねても不思議はないのにと思う。

もし、彼がカンニングをするような生徒だったら、それを何とも思わないような生徒であったなら、教師を殴ったり、腹いせに他の生徒やものに当たって、校内暴力くらい起こしたかもしれない。それができない生徒だったからこそ、自ら死を選んだ。
そして、学校内では往々にして、そういう生徒こそが、教師たちのターゲットにされやすい。問題の多い生徒には何も言えない教師たちが、ほとんど問題のない生徒がささいなことを起こしたときに限って、自分たちの権威を見せつけようとして大騒ぎをする。まじめで大人たちの期待に添おうと努力する子どもたちほど、疲れはてて、追いつめられやすい。

自殺を美化する気はない。しかし、彼は勝手に死んだのではない。死に追いつめられたのだ。大人たちはせめて、子どもが命をかけて伝えたかったメッセージを正面からきちんと受け止めるべきだと思う。耳を塞ぐべきではないと思う。
言葉が、心が、大人たちには届かないと思ったから、死を選んだのではないか。男子生徒は5人の教師との2時間のなかで、自分の言い分を受け入れられているとは、実感できなかったのだろう。何を言っても無駄だと、誰もわかってはくれないと思ったのではないか。
子どもたちの自殺を食い止める方法があるとしたら、「死ななくても、あなたの言いたいことはちゃんと聞くから、心から受け止めるから」そうメッセージを子どもたちに送り続けることしかないのではないか。
「命」を大切にしようと思うのなら、もっともっと子どもたちの「心」を大切にしてほしい。「心」を大切にしてこそ、「命」もまた大切にできる。




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