仕事が原因でケガをしたら労災です。また、頸肩腕障害、腰痛、有機溶剤による中毒、じん肺等さまざまな職業病があります。最近では働き過ぎによる脳卒中や心不全といった循環器障害が多発しています。
当センターでは被災者、労働組合、医師と共に労働基準監督署に対する労災の申請手続きのサポート作業に取り組んでいます。労災が発生する状況はさまざま。あきらめないでお気軽にご相談下さい(雇用関係がはっきりしていれば、パートやアルバイト・日雇いでも労災は適用されます)。
(センター機関誌「安全と健康」02.02月号)
40年間の電気工事でアスベスト曝露
●肺がんで亡くなったHさんに労災
2月、品川労基署は電気工事業を営んでいたSさんの遺族に遺族補償年金等の支給を決定した。Hさんは40年間にわたり電気工事に従事し、2000年3月に肺腺がんで亡くなくなった(享年64歳)。
遺族はHさんの肺がん死はアスベスト曝露が原因ではないかと考え、昨年1月品川労基署に労災請求した。労災認定の取り組みには首都圏建設産業ユニオン渋谷支部と東京建設国保組合顧問医の名取雄司医師(ひまわり診療所)が協力した。
■40年間電気工事でアスベスト曝露
Hさんは1956年に父親の会社で電気工事の仕事を始めた。以後実兄の経営する会社でデパートの内装を主とする電気工事に従事した。催事場等の改装のため内装業者の大工が新建材のボードを切断加工するかたわらで照明器具の取付や結線作業を行った。
1970年代には首都高速道路に面したビルやマンションの防音工事にともなうクーラーや換気扇の取り付け工事が集中した。玄関の分電盤からベランダの窓側まで配線する。事務所や住居の天井裏に入り配線工事を行った際天井裏の吹き付けアスベスト粉じんに曝露した。
1981年にHさんは独立。主にパチンコ店の電気工事を請け負った。店内改装・改築作業中に電気工事に入る。10件に1件は古いビルで吹き付けアスベストの天井もあった。改築工事はではかなり粉じんが飛散するなかでの作業だった。
■建設ユニオンで初めての肺がん認定事例
Hさんは剖検はしていなかったが生前の胸部単純レントゲン写真は0/1p粒陰影・0/1不整陰影、胸部CT写真で胸膜肥厚班が認められた。
このことから石綿肺0/1に合併した原発性肺がん、もしくは石綿肺の所見がなくとも石綿曝露作業への作業従事期間が概ね10年以上あり胸膜肥厚班の臨床所見があるため労災認定基準を満たすものと考えられた。
ほぼ1年間の調査期間を経て品川労基署より業務上認定の通知がHさん遺族にもたらされた。
東京建設国保のレセプト抽出をきっかけに埋もれた職業がんの発掘につながった意義は大きい。
建設ユニオン、医師団、センターの連携をより一層つよめ、建設労働者の潜在する職業病の掘り起こしを強めていきたい。
●石綿作業で亡くなったSさん時効前に労災認定!
■なくなる直前ホットラインに相談
昨年5月末Sさんが相談に来られた。神奈川のアスベスト被害対策基金からの紹介という。きけば夫が亡くなって5年近くになるが、最近アスベスト被害対策基金の事務局から連絡をもらい、肺がんはアスベストが原因である可能性が高いため相談に行くようすすめられたとのことだった。
Sさんは夫を1996年12月に肺がんで亡くした。夫は30年以上前に埼玉県内でアスベスト製品の原材料を製造するM産業(株)の工場で10年間働いた。その後転職して古鉄の圧延工場に勤め溶解炉の作業をしていた。
亡くなる2か月前、夫は埼玉労基局(当時)でじん肺管理区分3ロの決定を受けており、神奈川アスベスト被害ホットラインにも相談の電話をしていた。夫の死後相談が途絶えていたが、たまたま基金の事務局から郵便物が届き、遺族のSさんに連絡がつながった。
■床上に3pのアスベスト粉じん
M産業(株)はとっくの昔に倒産していており工場もない。幸い夫の実兄が一時同じ会社で仕事をしていたというので、彼からアスベスト作業の実態と構内の状況を聞き取ることができた。
それによると主な製造工程は次の通り。
@商社が輸入したアスベスト原料を横浜港の倉庫から工場に搬入する。
A繊維状のアスベスト原料を綿状に加工(解綿)するためクラッシャー機械にかけて粉砕する。
B綿状になったアスベスト原料にタルク(滑石)を混ぜ合わせる。混合比は用途によって異なっていた。
Cホッパーからアスベスト原料を袋詰めする。真っ白い綿状のアスベストを麻袋に詰め込む作業。
M産業(株)で製造されたアスベスト材料はスレートや耐火ボード等の建築資材、自動車のブレーキライニング、建築物の耐火吹き付け材として使用された。当時の取引先に山王スレートや曙ブレーキ等があった。
またボイラーの断熱材に使われていたアスベスト材や酸素ボンベの容器内に充填されていた廃アスベストを回収し再利用することもあったという。
夫は構内でA解綿作業→Bブレンド作業→C袋詰め作業を行っていた。実兄は「工場内はいつも白いアスベストの綿がもうもうと舞っていて埃っぽかった。床にはアスベストが3pほど積もっていた」と述べている。
アスベストの発がん性や取り扱い方法などは全く知らされず、アスベスト粉じん曝露防止対策は取られていなかった。Sさんの夫もアスベスト粉じんに常時曝露する作業環境のなかでガーゼマスク程度で働いていたことがわかった。センターではこうした作業実態を意見書にまとめて春日部労基署に提出した。
■時効前に遺族補償請求
以上のことから、肺がんはアスベスト曝露によるものと考えられるため、昨年8月春日部労基署に遺族補償給付の請求手続をとった。遺族補償の時効は死亡後5年である。
神奈川アスベスト被害対策基金を通じて相談がつながり、12月の命日をもって時効成立を迎えるまえに労災請求の手続をとることができた。
夫は亡くなる7年前から都内のT医大病院で間質性肺炎・石綿肺と診断され通院していた。あらためて当時の主治医に労災への協力を求めた。また死亡診断書を書いた地元の病院の主治医に石綿曝露の肺がん・石綿肺の意見書モデルを提示し医証の作成に完璧を期した。
その結果、主治医に『石綿肺の所見および業務との因果関係』について「胸部単純X線所見では両下肺野に多数の不整形小陰影(3/3相当)、両側の胸膜肥厚班、石灰化を認めた。肺病理組織は採取されていないが、喀痰細胞診にてアスベスト小体を多数認めた」とし「本業務上での石綿曝露が請求人の発癌の原因であり、かつ死亡に至る主原因でもあると考えられる」と述べていただいた。
今年2月初旬、春日部労基署は夫の肺がんを労災と認定しSさんに遺族補償給付年金等を支給決定した。
M産業に働いていた労働者はほかにもいるはず。Sさんは労災認定の報を当時夫と一緒に働いていた同僚に知らせた。アスベスト被害の掘り起こしはまだまだこれからだ。
(センター機関誌「安全と健康」01.12月-02.01月号)
●三田労基署が不十分な調査をもとに業務外決定
【上肢障害に業務外決定】
Nさんは1990年からM社に勤務し、1998年まで外国為替業務に従事した。1998年から証券の業務に移った。証券の業務は非常に過酷で残業は月80時間を超え、調子の良くない端末機による入力作業をしていた。この作業により手首が痛くなったため、1年後配置転換を申し出て庶務兼調査の業務をするようになった。しかし、かえって仕事量は増加し、報告書作成、売買の間違いの訂正、郵便の仕分け、派遣社員のタイムカード管理等々多様な仕事を強いられるようになった。そのため両側上腕骨外上か炎になってしまった。2000年8月に発症、同年12月労災請求をしたが、2001年10月三田労基署より不支給とされた。到底納得できないNさんはセンターに相談。センターのスタッフと共に三田労基署へ不支給の理由を尋ねた。
【許しがたい三田署の対応】
三田労基署ではA第2課長とB担当が対応し、2回の話し合いを行った。Nさんは三田署が要求した上肢障害用の申立書を痛む腕をこらえながら、同僚とも相談してキー数、ページくり数、郵便物の量を詳細に調べ上げ、詳細な申立書を提出している。これを見る限り、Nさんは雑多で量の多い仕事を期限に迫られながら、ほとんど一人でこなしていたことがよく理解できる。この申立書からは上肢障害で苦しんでいる労働者の姿以外見いだせない。「なぜ業務外としたのか?」とNさんはA課長に率直に疑問をぶつけた。A課長は当初「総合的に判断して過重な業務があったとは認められないため」と繰り返したが、追及するにつれ調査の矛盾と怠慢が明らかになってきた。Nさんは200人からの労働者を抱える会社の庶務を担当する2人のうちの1人。発症4ヶ月前に他の1名が退職しており、その補充は郵便物の仕分けのために朝夕10分程度手伝いが来ただけだったと主張している。三田署は、そもそも庶務課の仕事はたいした業務量ではなく、会社は欠員に対して補充もしていると判断したらしい。当然「会社と本人の主張が異なるときに、どうして会社の主張のみで判断したのか?」という問いには回答不可能であった。結局1回目の話し合いで、署側は調査の不十分を認め再調査を約束した。
2度目の話し合いでA課長は「会社に再調査した結果、やはり補充は充分になされていた」と言い放った。大会社の庶務の仕事は2人だけでもたいした業務ではなく、1人が欠員になったとしても会社側が「充分に補充した」と言えば、本人の主張を無視する。これが三田労基署の対応だ。自らの非に気がついていない者に反省を求めても無駄だ。いくら不誠実、非常識、怠慢、無気力と非難しても空しくなる。せめてこうしたことはA、B両氏の二人だけにしてもらいたいと願いつつ(この願いも空しくなりそうだが・・・)、三田署から審査請求書を提出するため東京局へ向かった。(事務局 外山)
●通勤中の事故死に通勤災害決定/●通勤途上災害
Nさんは1965年生まれ、1989年からT社に勤務し、1993年結婚、1995年長女をもうけるが、2000年9月26日帰宅途上の地下鉄のホームから転落し轢死。享年35才。本人の無念、家族の悲しみと衝撃は察するに余りある。当然、遺族は通勤災害による補償請求をすべく三田労基署を訪ねたが、担当のB氏は申請用紙を渡したものの「難しいですよ」と余計なことを口にした。不安になった遺族は会社の労働組合に相談。関西労働者安全センターを経由して東京センターが支援をすることになった。
センターでは事故当日の通勤の状況の調査、同僚の聞き取りを行った。事故当日、Nさんは朝から発熱しており「風邪を引いたようだ」と家族に言って自宅近くの医院を受診し、扁桃炎で38℃の発熱との診断を受けている。11時頃、出社し午後5時50分の定時まで勤務。その後予定されていた労組の会合を休んで退社し、営団地下鉄丸の内線赤坂見附駅から乗車し、6時20分頃乗り換えの中野坂上駅のホームから転落した。赤坂見附駅で改札に近い車両に乗車すると中野坂上駅ではホームの端から端まで歩くことになることも分かった。発熱と仕事と通勤により体力を消耗していたことも一因であろう。死体検案書でも「交通事故による不慮の外因死」としている。まさに「通勤に通常伴う危険が具体化した」のであり通勤災害以外のなにものでもない。同僚の証言も当日体調が悪かったこと、自他殺の可能性がないことで一致した。念のため、発熱に伴う体力の消耗により通勤途上の危険個所に転落した旨の意見書を提出した。
昨年12月遺族補償の支給決定がなされた。請求を通じて、通勤による苦痛や危険は近年増加しているように感じた。狭いホームにあふれる人、JRではホーム上の駅員が削減されているし、人身事故で電車が止まることも日常茶飯事になり、車内暴力なども問題化している。Nさんのご冥福をお祈りするとともに、同様の事故が再び起きないよう人々の叡智、努力によりホームの改善が進むことを望む。
(センター機関誌「安全と健康」01.11月号)
●左官のじん肺合併続発性気管支炎、認定勝ちとる!
■左官の仕事でじん肺に
東京建設従業員組合の組合員Fさんは1999年のじん肺レントゲン読影でエックス線写真の像が2型のじん肺が判明した。Fさんは1949年から左官として働き始め、58年に独立して事業主となり、94年に会社を解散し、99年までは息子さんの事業所で働いていた。通算50年間を建設現場での左官の仕事に従事してきたことになる。左官の仕事は小さな鏝(こて)一つで壁の平面を作り出すという技術と専門性の高いもの。近年ではボードなどの乾燥壁と鉄筋建築物が普及し、仕事の様子が少なからず変わった。塗り壁が減る一方で、ベランダ、浴室などの防水加工が増えてサンダー研磨が行われるようになった。また、テーリングという石綿粉を材料に混ぜることも一時行われ、吹付け石綿に接する部分へのモルタル塗り作業もパイプ室などの閉所で行ったことがある。とりわけ最近の住宅では表の部分に「見栄えの良い」サイディングなどの乾燥壁を使い、裏にモルタルを塗ることが流行り、左官の技術を発揮する場所が減った、とFさんは嘆く。その言葉どおりに、Fさんがその職歴の終わり頃に腕をふるったのは住宅ではなく東京ディズニーランドのスペースマウンテンの内部やテーマパークの疑似体験トンネルであり、完全密閉された閉所での作業であった。
■業務上決定を受けるが課題も残る
Fさんは2000年5月千葉労働局へじん肺管理区分決定を求め、6月管理3(イ)決定(この決定時に千葉局は主治医の「要療養」の検査結果を無視して「否療養」決定をしてしまうが、その経過は本誌2000年9月号参照)。2000年7月船橋労基署へじん肺合併続発性気管支炎で労災申請し本年11月に支給が決定した。実に1年3か月を要した。時間がかかった理由の一つは船橋署がFさんに認定上全く必要のない肺機能2次検査を求めたことである。これは東京安全センターとして抗議と申し入れを行い撤回させたが、じん肺合併症ではこのように認定基準を無視して勝手に検査を要求するケースが他署でも見られる。改善を強く求めたい。さらに船橋署は、本人による息子さんの会社で労働者としての請求したが、事務連絡73号(「安全センター情報」本年10月号参照)を根拠に、事業主特別加入での保険関係に基づく支給決定とした。これにより給付基礎日額は9000円から5100円に切り下げられてしまった。「労働者の期間と特別加入の期間を比べて長い方の保険を使う」という扱いで、一見妥当なようだが、特別加入していたことにより基礎日額が減ることがありえるわけで公平とは言えない。じん肺合併症の労災の場合、どこの保険関係を基にするかで徒に時間を費やしていることが多い。建設現場で働くことは管理されていない粉じん曝露環境で働くことを意味する。条件によって曝露の実態も大きく異なる。単純な期間の長さだけで比較するのは不合理だし、後から粉じん曝露の程度を推定することも困難である。対策が遅れてきたことは事業主だけではなく行政の責任も重い。使用する保険は被災者が選択するか、被災者に最も有利な選択を行うべきだろう。(事務局・外山)
●石綿作業で亡くなったSさん時効前に労災請求
■アスベストホットラインに相談後死亡
今年5月末、神奈川のアスベスト被災者対策基金より紹介されてSさんが相談に来られた。
Sさんの夫は1996年12月に間質性肺炎・石綿肺で亡くなった(当時52才)。夫は生前神奈川のアスベスト被災者対策基金が実施したホットラインに電話したことがあった。
今年Sさんは夫宛の郵便物を基金の事務局から受け取った。Sさんは夫が亡くなるまでのいきさつを書き送った。基金の事務局は労災の可能性があるとみて東京安全センターに相談対応を依頼した。
■10年間石綿製品の製造に従事
Sさんの夫は1968年から埼玉県のM産業(株)で建築資材や自動車のブレーキライニング等で使用する石綿製品の製造業務に従事していた。約10年間その仕事を続けたのち、古鉄の圧延会社に転職した。
1989年、職場健診で肺の異常を指摘され自宅近くの病院を受診。石綿肺・間質性肺炎と診断され通院を始めた。
在職中の1996年10月に埼玉労働基準局にじん肺管理区分決定申請を行い、管理3ロ(Pr3 F+)の決定を受けた。呼吸困難のため入院したが肺がんがみつかり12月に亡くなった。
■時効間際に労災請求
Sさんの夫の死はM産業で10年間の石綿製品の製造作業が原因と考えられた。まだ間に合うとはいえ死亡月の12月で5年の時効が来てしまう。さっそく労災請求に向けて動き出した。
M産業はとっくの昔に倒産していた。幸いなことに夫の実兄(都内在住)が一時M産業で製品の配達の仕事をしていたことが判明。8月実兄にセンターの事務所まで来てもらい当時の工場内の作業環境や作業内容等に関して聞き取りを行った。
夫は原料石綿をクラッシャーにかけて粉砕し、ホッパーの中でタルクを混ぜ合わせ、最後に製品を麻袋に詰める作業をやっていた。作業環境も工場内はいつも白い石綿の綿がもうもうと舞っていて埃っぽかった。床には石綿が3pほど積もっていたという。そうした事実や証言をもとに意見書をまとめた。8月半ば春日部労基署に遺族補償年金給付等の請求手続きをとった。
10月には5年間通院していたT大学病院の主治医と死亡診断書を書いた主治医とに会い、労災請求した事情を説明し協力を要請した。
現在、春日部労基署で調査中だ。ぜひSさんの認定を勝ち取りたい。(事務局 飯田)
(センター機関誌「安全と健康」01.10月号)
●じん肺患者の肺がんで埼玉労働局が審査請求棄却決定!
■じん肺療養中に肺がんで死亡
首都圏建設産業ユニオン多摩西北支部の元組合員のTさんは、じん肺(1998年じん肺管理区分管理3ロ)続発性気管支炎で療養中の1999年10月肺がんにより亡くなられた。従来、日本では管理4に合併した肺がん以外は労災として認められてこなかったが、じん肺患者や岩石に多く含まれるシリカ(二酸化ケイ素)に曝露した労働者に肺がんの発生が多いことは長年の疫学調査により研究され、1997年にはWHOの下部組織IARCが「グループ1:ヒトに対して発がん性がある」とし、今年、日本産業衛生学会でも発がん物質第1群物質に指定している。Tさんの遺族は、Tさんは長年にわたって隋道工事と水道工事にたずさわっておりシリカの曝露により発症したとして所沢労基署へ遺族補償の請求を行ったが、今年3月請求は棄却され、埼玉労働局へ審査請求をしたが、8月これも棄却された。国際的にも日本の学界でも認知された発がん物質に業務により曝露して、がんで死亡したにもかかわらず労災補償を受けられないという奇妙な事態が出来しているのである。
■許しがたい行政の対応
これはこの国の無能かつ無気力な官僚機構と、もはや御用学者としか形容のしようのない専門家たちの責任である。旧労働省は1998年に「じん肺症患者に発生した肺がんの補償に関する専門検討委員会」を設け2000年12月にIARCの決定を無視し、シリカと肺がんの医学的因果関係は明らかになっていない、とする報告書をまとめてしまう。しかしその5ヵ月後、日本産業衛生学会は「許容濃度等の勧告」の中で結晶質シリカを発がん物質第1群に指定した。しかも旧労働省の専門委員と産衛学会の許容濃度委員会のメンバーには重複している委員もいるのだ。
■補償を求めて
現在、じん肺患者の肺がんは新たな通達により@じん肺管理区分が管理3(ロ)で管理4の限界上にあること、Aイ)じん肺の陰影のため肺がんの発見が遅れたこと、ロ)肺がんの確定診断時にじん肺のため外科手術を受けられなかったこと、ハ)イおよびハのために死亡したこと、の条件を満たした場合に業務上とする、とされており、Tさんの場合には手術を受けられなかった点と死亡した点が該当するが他の条件を満たせずに今回の棄却決定となった。厚生労働省はシリカの発ガン性とその補償については新たな検討会を設け検討中である。IARCの決定から4年が経過しており、その間にも被災者は補償を受けることなく亡くなっているのだ。被災者、遺族と安全センターはそれを見過ごすことはできない。Tさんの遺族は再審査請求を提出し闘う。(事務局 外山)◆隧道・ハツリのじん肺被災者が労災認定
●隧道・ハツリのじん肺被災者が労災認定
●隧道工のじん肺
一人は元隧道工夫のMさん(男性・65歳)。
Mさんは北海道出身で1956年から地元の炭坑で掘削夫として働き、その後隧道、ダム建設工事で掘削夫・軌道工として働いた。東京では下水道や地下鉄のシールド工事に従事した。こうした粉じん作業のためじん肺となり、1986年9月に神奈川労基局(当時)からじん肺管理3ロの決定を受けていた。
昨年5月頃より続発性気管支炎となりひまわり診療所に通院していた。
労災請求にあたり最終粉じん事業場がどこかを確定するのに手間取った。どうやら1977年当時、栃木県塩原郡の川治ダム建設工事で堰堤のアンカー掘削作業が最終と考えられた。元請会社の鹿島建設(株)関東支店に確認照会をしたところ当時現場の作業員として働いていた事実が判明した。鹿島はその後職歴不明を理由に事業主証明を拒否したが、Mさんは今年2月今市労基署に労災請求の手続をとった。
自宅での訪問聞き取り調査等を経て、今市労基署は本年9月にじん肺合併症を認定した。
●ハツリ工でじん肺管理4決定
Eさん(男性・63歳・群馬県)は1955年7月からコンクリートのハツリ工として約34年間働いてきた。10年前から胸部レントゲン検査でじん肺所見有りとされてきたが仕事を続けた。
1998年10月、テレビ番組でひまわり診療所を知り受診。12月に群馬労働局にじん肺管理区分申請をし管理3ロの決定を受ける。当時合併症の症状がなかったが、月1回の受診は欠かさなかった。
2000年6月から息切れや痰や咳がつらくなったため合併症の治療をはじめた。9月には再度じん肺管理区分申請をしたところ管理4の決定を受けた。
元請の三井建設に事業主の証明を依頼したところ拒否された。そのため5月に宇都宮労基署に労災請求していたが9月半ばに業務上認定された。
(事務局長 飯田)
(センター機関誌「安全と健康」01.9月号)
●事業主特別加入の大工さんのじん肺合併症認定される
■造作大工でじん肺に
全建総連東京都連・首都圏建設産業ユニオン渋谷支部組合員のNさんは1952年から半世紀近く大工さんとして建築業に携わってきた。1956年に造作大工として独立。1973年に長島工務店を設立し特別加入し現在に至る。Nさんは今月上野労働基準監督署からじん肺続発性気管支炎の業務上認定を受けた。1999年の健康診断でじん肺が発見され、2000年7月からひまわり診療所でじん肺合併続発性気管支炎の治療を開始した。労災申請を同年9月に行った。
一人親方や事業主の大工さんのじん肺合併症による労災認定は、ここ数年全建総連東京都連との共同の取り組みにより少しずつ広がりつつある。
建築現場での粉じん曝露は、じん肺法施工規則に特定されている24の粉じん作業に該当する。厚生労働省も通常の建築現場での建材の切断や研磨による発じんを粉じん作業と認めている。
しかし、まだ業界全般に職業病としてのじん肺が理解されているとは言えない。
■建築職人は労働者と事業主の期間が混合
多くの建築職人は親や親類・知り合いに就いて見習期間を経て独立する。見習期間を経た後は工務店などに勤めるか、独立して事業主になる。ある年月を雇われ、その後独立し、子供が跡を継いだ後は再び子供に雇用される。労働者の期間と事業主の期間が混合していることが多い。
労災認定に際しては、事業主でも特別加入の労災保険の加入の有無が重要になる。
旧労働省は粉じん作業に関わった期間について、「労働者の期間+事業主で保険加入していた期間>事業主で保険加入していなかった期間+3年」を基本的な認定基準としている(基発第51号、事務連絡第73号)。但しこの基準を満たさない場合でも粉じん曝露量などを含めて慎重に判断すべきとしている。
■1973年から特別加入を認定
Nさんは1973年に事業主特別加入していた。しかし東京労働局が保存している特別加入者の記録は1985年以降の分だけで、それ以前の記録は破棄している。1973年から加入していたとすれば加入期間が未加入期間を3年を超えて上まわるため問題ないが、1985年とすると加入期間が足りなくなる。
東京労働局で認定に必要な記録が破棄されているため、業務外とされてはたまらない。最終的にNさんの場合、上野労基署は「1973年に加入していたとするのが合理的」と判断し業務上認定した。
今回の決定の意義は、特別加入期間が明確ではなくても(そもそも原因は局にあるのだが・・・)本人や組合の申し立てが合理的であればその期間が認められるということである。
建築現場での粉じん作業はコンクリートなどを破砕するはつり作業、建材を切断したり研磨したりする作業、溶接やグラインダー作業など多岐にわたる。これまでの粉じん濃度測定でも濃度の差が大きく、管理されていないことが判明している。
期間だけの単純な比較では保険加入期間の曝露の軽重は分からないことが多い。通達や事務連絡を単純に適用すべきではない。そのような管理されていない現場作業に携わったのであれば、加入期間と未加入期間の比較だけではなく、一定の期間の保険加入で認定を行うべきと考える。
(事務局 外山)
●肝腫瘍で亡くなったKさんの遺族補償が認定
■ピリジン・クロロホルムで肝機能障害に
昨年6月、長らく肝硬変で療養していたKさんが肝腫瘍のため入院先の病院で亡くなった。享年75歳。
Kさんは1972年から江東区内のN検査会社の試験所で鉄鋼・鉱石の分析、材料試験、水質・土壌分析等の業務に従事していた。1982年7月の定期健診で肝機能の異常を指摘され、8月に関東労災病院で慢性肝炎と診断され療養を始めた。
体調が悪く復職できないKさんは同年9月に解雇通告を受ける。地労委に申し立てるが最終的に1988年中労委で和解した。
その一方、Kさんは仕事で使っていた化学物質・クロロホルムやピリジン等の試薬が肝機能障害の原因として亀戸労基署に労災請求したが不支給処分とされた。Kさんご夫妻はある労災事件を巡る新聞報道で当センターを知り相談に来られた。
■審査請求5年半で業務上に
1988年2月、審査請求で不支給処分が取り消されKさんの肝炎は業務上として認定された。決め手になったのは東京労災病院のS医師の鑑定意見だった。S医師は「肝炎(この場合ウィルス性で非B型)が当該物質使用以前より存在(この場合慢性肝炎非活動型の状態)していたが、当該物質への曝露による肝障害を契機にその炎症が増悪した可能性が考えられる。当該物質使用以後に肝炎を発症したとすれば、当該物質への曝露による肝への影響が易ウィルス感染とし、またその後、肝障害の増悪を持続的なものにした可能性が考えられる」と述べた。その結果、東京労災保険審査官は肝炎を業務上として認定したのである。
しかし、亀戸労基署はまたしてもKさんの休業補償給付請求に対し一部不支給の決定で報いた。関東労災病院の主治医が休業の必要を認め8号用紙に証明をしているにもかかわらず、病院での入院治療後2週間しか休業を認めなかった。
結局この休業補償給付の一部不支給決定の処分は労働保険審査会まで闘ったが覆すことはできなかった。
■肝硬変から肝腫瘍に
1990年8月より肝硬変の症状が悪化し入院して以降、労災保険での休業補償給付が再開された。その後昨年6月に亡くなるまで療養・休業補償給付を受け続けた。
Kさんの遺族は、Kさんの肝腫瘍がこれまで治療してきた肝硬変が増悪して発症したものとして昨年10月遺族補償年金等の請求を行った。
亀戸労基署にさんざん痛めつけられた遺族は不安だったが、本年8月に遺族補償年金等の支給が決定した。(事務局 飯田)