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  ★相談index/ 1/2/3/ 
    
02年2月以降は new★機関紙「安全と健康」 おすすめ改善&相談事例

  相談インデクス. 2  こんな相談ありました(00年10月〜01年8月)

仕事が原因でケガをしたら労災です。また、頸肩腕障害、腰痛、有機溶剤による中毒、じん肺等さまざまな職業病があります。最近では働き過ぎによる脳卒中や心不全といった循環器障害が多発しています。 当センターでは被災者、労働組合、医師と共に労働基準監督署に対する労災の申請手続きのサポート作業に取り組んでいます。労災が発生する状況はさまざま。あきらめないでお気軽にご相談下さい(雇用関係がはっきりしていれば、パートやアルバイト・日雇いでも労災は適用されます)。


(センター「安全と健康」2001年7-8月号から
イラン人労働者が4年間のメッキ作業で腰椎ヘルニアに
     向島労基署で業務上認定

■メッキ作業で腰痛に
 イラン人のMさん(男・35歳)は、墨田区内のアルマイト・メッキ工場で働いていた。勤続4年。現場の作業はほぼMさん一人が担当していた。
 最初に腰に痛みを感じたのは2000年11月頃。12月に入ると痛みが強くなり、立作業ができなくなった。そのため亀戸ひまわり診療所を受診。MRI検査で腰椎椎間板ヘルニアと診断された。年が明けても痛みのため動けず復職できなかった。困ったMさんはセンターに相談した。

■民家の中のメッキ工場

 路地を入って木造二階建ての民家の玄関脇を通り抜け、突き当たりの土間に足を踏み入れると強烈な酸の臭気が鼻をついた。そこが工場だった。Mさんが休業中は社長が一人で現場のメッキ作業に精を出していた。会社は労災保険に未加だったため、まず社長を説得して労災保険に加入させた。
 狭い工場内を一目見ただけでMさんがなぜ腰痛になったか察しがついた。所狭しと水槽やメッキ槽が置かれ、コンクリートの床は水浸し。所々に腐りかけた木材のスノコが敷いてある。
 民家の一階のせいか天井も低い。冶具を運ぶホイストや運搬具が利用できない。両手に品物を付けた冶具を持ち(15s〜20s)、前傾・中腰姿勢を続けながら薬品槽や水槽に漬けて廻る作業はかなり腰にきつそうだ。それに小柄な社長に比べMさんの身長は182pだ。もともと工場内は社長の体に合わせた作りになっているため、Mさんには槽の高さが低すぎ配置も窮屈すぎた。

■意見書をまとめ労災申請
 メッキ作業では硝酸や硫酸の薬品槽の漬け置きや水洗い・染め・乾燥の作業を頻繁に繰り返しながらとその度に狭い構内を移動する。腰痛ばかりか冶具を両手に持ちながらの作業のため両上肢の負担も相当程度ある。
 現場の写真をデジカメで撮影し槽の高さや配置を測定。品種ごとに一日の作業量を出す。こうした作業工程や作業内容・作業環境・作業量を意見書にまとめ向島労基署に提出。主治医三橋徹医師は、労基署への意見書で椎間板ヘルニアの発症機序を説明したあと、Mさんの腰痛が「重量物の取扱に際して、作業点が拘束され、外力・負担が局所に集中してくり返し作用したため起こったもので、その業務の特殊性のため、腰椎椎間板ヘルニアが労働の積み重ねによって発症したもの」と主張した。こうした取り組みの結果、本年8月、向島労基署はMさんの腰椎椎間板ヘルニアを業務上と認定した。

■つぎは職場改善
 ぎっくり腰のような災害性の腰痛にくらべて、非災害性の疲労性腰痛はなかなか労災認定されない。椎間板ヘルニアと診断されると本人の素因とされかねない。
 今回のMさんの腰痛の認定の取り組みは、外国人労働者の腰痛という観点だけでなく非災害性腰痛(腰椎椎間板ヘルニア)という観点からも意味ある認定事例となろう。
 Mさんはまだ休業中だが、いずれは慣れたこの仕事に復帰したい。その時これまでと同じ仕事のやり方では腰痛が再発してしまう。社長も巻き込んで現場の改善にどう取り組むかが今後の課題だ。(事務局 飯田勝泰)

●じん肺アスベストホットラインから相談2件

 本年7月に横須賀の造船・米海軍基地の労働者を中心に被災者救済の活動を行っているじん肺・アスベスト被災者救済基金が行った「じん肺・アスベストホットライン」から紹介された2人のじん肺被災者がひまわり診療所に来られました。

■ Aさんは、1952年から1967年まで炭鉱や金属鉱山で働き、1990年に「管理3(イ)」の認定を受け、健康管理手帳の交付を受け、毎年じん肺健診を受けていました。健康管理手帳を見ると90年には、X線写真の読影結果が第2型であったものが95年には第3型、更に98年には第4型に悪化しています。せき・痰・息切れ・動悸等の症状も悪化しているようで、早急に管理区分の再申請をするべく準備に取り掛かりました。
 じん肺健診を毎年受けていながら、検査結果を活かしきれていないとすると、何のためにじん肺健診をしているのか疑問に思えます。

■ Bさんは、1951年から現場での切り出し・加工等を主とする石工として6年、その後鉄鋼会社の製鉄所で耐火レンガを使用する築炉・修理・解体作業に43年従事されていました。98年から、息切れのために自宅近くのI県内の病院に通院していましたが、息切れが悪化し、今は入院加療し、酸素を吸入しています。本人が入院中のため家族がひまわり診療所に来られ、粉じん職場で就労していたとする職場同僚の証言をもらうようアドバイスし、本人が外出許可を得てひまわり診療所に来た際、X線写真の読影・肺機能・喀痰検査と粉じん作業職歴の聞きとりをして、家族が集めた同僚の証言を添えて管理区分申請をしました。
 今後、合併症の労災申請も含めて、あらゆる手段を尽くして救済手段を探ってゆきたいと考えています。
                                        (ひまわり診療所 島田満)

 

● ある労災かくしのパターン  休業3日で退院を迫られたKさんの場合 

 Kさん(男・30代)は防水工として都内の某公共施設の新築工事現場で働いていた。元請は大手ゼネコンのW社。下請けはT社だった。彼は その下のP店の親方に雇われていた。
 目地シールの作業中、液を吹き付けるガンのプラスチックノズルの先端をカッターで切断しようとしたときカッターの刃が折れて左眼に突き刺さってしまった。
 大学病院で二回入院し手術を受けた。治療費は元請の労災保険を使った。
 入院して3日目に見舞いに来たT社の監督から「明日退院してほしい」と言れた。失明するかどうかの瀬戸際だったため冗談じゃないと断った。
 退院後はT社から毎月20万円程度のお金が銀行口座に振り込まれるようになった。明細表には被災現場名と支払代金が記載されていた。身に覚えのない特別加入労災の保険料と作業着代が差し引かれている。仕事ができる状態ではないのにT社の請負職人として被災現場で仕事を続けていることになっていた。
 T社の監督が「明日退院してくれ」とむちゃなこと言ったわけは、事故を休業災害(4日以上)にしたくなかったからではないか(注)。会社の都合しか考えない対応に不信感が募った。
 主治医から左眼の視力は元に戻らないと言われている。後遺障害が残ったときの補償問題を考えると不安になりセンターに相談に来た。
 あらためて休業補償給付の請求手続きをとるためKさんはW社とT社と交渉することにした。
 労災保険を使っても休業災害(4日以上)としないのは虚偽報告につながる。これも労災隠しの一つのパターンであろう。
(事務局長 飯田)


(注)労基署に提出する労働者死傷病報告は休業4日以上か未満で報告書の様式・報告義務者・提出期限が異なる。


(センター「安全と健康」2001年6月号から
●造作大工の筋骨格系障害を巡って

 近年の大工の仕事は昔とは大きく変わり壁貼りと天井貼りの占める割合が大きい。プラスターボードは1枚が大きさ1800または2400mm×900mm×12.5mm重量約12kgで木造2階建の平均的な住宅を1棟建設するために約300枚を使用する。総重量はこのうちの100枚以上は2階で使用するため2階へ運搬しなければならない。また、無理な作業姿勢も多く、例えば天井部へ大きく重量もあるボードを脚立などを使って一人で貼り付ける作業、壁面への作業でも腕を肩よりも上へ上げる挙上作業が多い。昔は鋸、金槌、鉋を使って手で切断、鉋かけ、打ちつけを行っていたが、今は全て電動工具に取って代わられている。かつては筋力をダイナミックに使って作業したが、今では材料や電動工具などかなりの重量物を持ち上げたり支えたりすることが多いといえる。このことは昔とは異なる災害性や疲労性の疾病が起こりやすくなっていることを意味する。

* * * * * * * * * * * *
イラン人のNさんは1998年から建築現場で造作大工の仕事を続けてきた。1999年12月、ボード4枚約48kgを持ち上げようとしてバランスを崩した時に腰に激しい痛みが起きた。K整形外科を受診し、椎間板ヘルニアと右坐骨神経痛と診断され1ヶ月ほど休業した。2000年4月10日やはりボードを持ち上げようとした際に激痛が起こり再びK整形外科を受診した。K整形外科ではなぜか「たいしたことない」とされて充分な治療を受けられず、4月18日あまりの激痛に耐えられず救急車でA病院へ運ばれ4月22日まで入院した。その後5月にイランへ一時帰国して手術を受け、再来日後はまた別の病院でリハビリを行ってきた。日本人と結婚し小さな子供もいるNさんは仕事ができず医療費も高額になり生活に困窮する。見かねた親方が労災申請するため新宿労基署で相談したが残念ながら充分な対応がされず、東京ユニオンを介してセンターを紹介された。それまでにかかった医療機関が多く、イランでの手術も行われているが、4月10日以降の請求を行うことにして、Nさんの努力で全ての書類をそろえて新宿労基署へ提出した。48kgの重量物運搬中の災害であり全く問題ないケースと考えていたが、新宿署は5月9日不支給決定を行った。理由を質したところ、K整形外科のK医師の診断書では1999年12月の最初の腰痛と比べて2000年4月10日の症状は著しい増悪とは認められない、という奇怪な回答であった。MRIも撮らず一貫してNさんの症状を軽く見ているK整形外科が「それほど悪くなっていない」と主張したこともいい加減としか言いようがないが、救急車で運ばれ手術を要した症状をもって業務上疾病を発症したと認められるほどの増悪はないと片付けた新宿署の決定は許しがたい。審査請求でこの不当な決定を逆転させる予定である。

* * * * * * * * * * * *
  65才で大工歴50年の大ベテランであるMさんはハウスメーカであるT住宅の下請けで一人親方としてこの5年間働いてきた。昨年4月24日作業中に右肩に激痛が起こり肩が上がらなくなった。M整形外科病院を受診したところ腱板断裂で肩の使いすぎによるものと言われた。Mさんは一人親方特別加入の労災保険に加入しており、業務上疾病であれば経営者ではあるものの労働者と同様に労災による補償を受けることができる。東京センターのホームページを見て娘さんが支援を依頼してきた。本人聞き取りから、大工さんの長時間労働と無理な作業姿勢の多さが明らかになった。Mさんの場合、例えば発症した4月は2日しか休みが取れず、その前も月に1日の休みしか取れていない。朝7時から夜7時までの長時間労働である。工期に追われて家族を動員することもある。木造2階建1棟につき300枚以上のボードの運搬、加工、貼り付けを行う。2〜5kg程の電動工具を使い、長時間挙上作業を行う。下請け大工の一人親方という事業主ではあるが、実態的には工期に追われる厳しい労働条件が明らかになった。現在柏労基署へ労災請求中である。(事務局 外山)

 

●「じん肺合併症は6ヶ月で治癒する」?!
  真岡監督署のあきれた認識に厚生労働省も困惑…
     粉じん職場歴で37年のNさんの労災認定

 栃木県真岡市に在住のNさん(73才)の粉じん作業歴はトータルで37年間にも及ぶ。一番最初は敗戦後間もない1946年から北海道の炭鉱で採炭・坑内作業に従事した。73年、炭鉱閉山に伴い離職したNさんは大手自動車会社系列の自動車製造工場(栃木県真岡市所在)に再就職した。Nさんが配属されたのは自動車部品製造の鋳物作業現場での清掃管理であた。これもまた粉じん職場である。粉じん作業の最後の年となる79年、Nさんは栃木労基局からじん肺管理区分3の決定を受け退職した。
 離職後年金生活を送っていたNさんは、99年6月じん肺合併続発生気管支炎を発症し、療養をすることになった。
 Nさんからの相談を受けたセンターは、最終粉じん職場である自動車会社に連絡し、真岡監督署に労災請求を行なった。しかし、所轄である真岡監督署はNさんの申請から数ヶ月を経た後、主治医に対して「じん肺合併症については通常6ヶ月で治癒するもので、長期にわたっての療養は一般的にありえない」などという全く根拠のない理由で、一年近くに及ぶNさんの治療期間中の@診断録の写しA胸部X線写真B喀痰の検査所見C喀痰カラー写真等の提出を求めてきた。これに対して主治医は、「じん肺合併症の療養が長期間にわたることは極めてよく知られていることであること。ハンドブックの要件として求めるA、Bについての提出は了解するが、@、Cについてはその提出の必要性が不明である」として一部資料の提出を拒否した。  今4月、全国労働安全衛生センター連絡会議の厚生労働省交渉の場で、東京センターはN労災の資料を交渉席上で提示した。真岡署の「じん肺合併症については通常6ヶ月で治癒」という見解と、「主治医に求めた資料が認定作業上に必要」との見解を問いただしたところ、中央じん肺審査医は困惑気味に「そのような認識は持っていない。(真岡署の)要請内容には違和感を感じざるを得ない」と回答した。
 この本省交渉から約1ヶ月後の5月末、Nさんは待望の認定を勝ち取った。申請からおよそ一年の時間が経過していた。
(事務局 内田)


(センター「安全と健康」2001年4月号から
●じん肺(管理3イ)に合併した肺がんを労災認定!

1.セメントと珪酸混合剤の吹き付け作業
 今年4月、立川労基署はじん肺に合併した肺がんで1999年8月に死亡したHさん(当時)の遺族に対し、遺族補償年金給付等の支給を決定した。
 Hさんは1953年頃から隧道工事で掘進及びセメントと珪酸混合剤の吹き付け注入作業に従事した。粉じん作業職歴は約21年9ヶ月。
 1998年10月、テレビ番組で亀戸ひまわり診療所を知り受診。当時、すでに肺がんと診断され、手術を受ける間際であった。それまで通院していた大手の病院では、じん肺と診断されておらず、もっぱら肺がん治療を行っていた。明らかにじん肺所見があるにもかかわらず、管理区分の決定も受けていなかった。

2.労災知ることなくHさん逝く
 さっそく東京労働基準局(当時)にじん肺管理区分決定申請の手続きを行い、1999年2月、じん肺管理区分3イの決定を得た。つづいてじん肺合併続発生気管支炎で労災請求を行ったが、病状が悪化し、同年8月帰らぬ人となった。
 立川労基署が未支給の休業補償給付の支給を決定したのはHさんの死去後4日目のことであった。
 じん肺合併肺がんの労災は、いまのところ管理4のみを対象としている。そのことを遺族に伝えたうえで、IARC(国際がん研究機関)等で結晶性シリカの発がん性が認定されており、たとえ立川労基署が業務外決定を出したとしても、審査請求以降の闘いの中で、必ずや不当な労働省(当時)のじん肺合併肺がんの認定基準が見直される可能性があると説明した。遺族はHさんの霊前に労災認定を報告し、遺族補償給付を請求することを決意した。

3.じん肺管理4相当と判断
 立川基署はHさんのじん肺合併肺がんを労災と認定した。その理由は、死亡直前にはじん肺管理4に相当する状態であったと判断したという。確かにHさんは肺がん末期とはいえ、肺機能が極度に低下し在宅酸素を続けていた。
 遺族はもとより、私たちでさえ立川労基署が認定するとは全く予想していなかった。
* * * * * * * * *
 今回の決定は、従来の認定基準の見直しにつながるものではない。が、末期肺がんのじん肺患者に救済の道を開いた立川労基署の努力に敬意を表したいと思う。(事務局長・飯田勝泰)

●Mさん 遺族補償請求再審査請求棄却

 去る3月29日、労働保険審査会は新日本製鐵釜石製鐵所のコークス炉で働き肺繊維症で亡くなったMさんの遺族が請求していた遺族補償請求の再審査請求を棄却した。再審査請求公開審理までの経過は本紙2000年5月号を参照されたい。
 Mさんは1960年から1977年まで釜石製鐵所のコークス炉で石炭乾留工として働き、1993年肺繊維症と診断され、1995年8月13日亡くなった。遺族は、Mさんは長年コークス炉で働き粉じんに暴露し、1975年からじん肺の所見が見られることから、じん肺を原因として気管支炎などの感染症も相まって発症した業務上の疾患である、と主張しMさんの息子さんと平野医師が公開審理で意見陳述を行った。しかし、審査会は遺族の主張を認めず棄却の決定を行ったのである。
 裁決書は「コークス炉での粉じん吸入は多かったとはいえず、またじん肺所見は認めず、したがって被災者の肺繊維症は原因不明である」と主張しているが、歯切れが悪く、矛盾点もある。まず、粉じん吸入を「多かったとはいえない」としているが、その根拠が十分示されていない。会社はタールついて作業環境測定を実施しているが、裁決書はタールの測定値から作業場の粉じん濃度が一部を除いて低いと推定している(こんなことが可能なのかどうか不明だが)が、最も古い1975年のタールの測定では12の作業場所のうち9ヶ所で管理濃度を超え2ヶ所では管理濃度の10倍の濃度を記録している。大量の石炭を投入し過熱しコークスを作る作業場でのことである。普通このような作業環境は「劣悪」というべきであって粉じん暴露が多かったとはいえないと推定すべきではないだろう。審査会では被災者の粉じん暴露の過小評価を前提に、審査会での読影の結果として1988年のレントゲンでじん肺所見「1/0p程度」と認めながら、結論としてじん肺はなかったとしているのである。
 今回再審査請求が棄却されたためこれを覆すには行政訴訟しか残されていない。これを行うかどうかを遺族は現在検討中である。(事務局・外山尚紀)

 

●中国人シャーリング工の頸椎症が業務上認定に!

  Sさんは1992年来日した中国人男性だ。来日後1年間は江東区の枝川日本語学校に学び、その後の半年職業訓練校(亀戸)で、溶接技術を習得した。訓練校を出たSさんは、東京下町地域の鐵鋼所やアルミサッシの取付け工事会社で働いた後、97年3月汐見にある工場でシャーリング作業を担当することになった。98年6月頃、首の付け根から左腕にかけての痺れが始まった。手で探ると首の骨の一つが突起しており、腕のしびれがひどく頭も重いので有休を使って4〜5日休んで病院に行った。職場に戻ったがその後も通院は続けた。診断は頚椎症で、仕事を終えてから牽引や電気などをかけるようにと夕方6時まで受けつける自宅に近い整骨院を紹介された。
 しかし99年11月下旬、症状がひどくなり、首から左肘、手指の先にかけての痺れと痛みに苦しんだ。頭が常に重く、物は何とか掴めるものの、重量物は痛みで持つことが困難になった。そんな折、Sさんは工場移転に伴う人員整理で会社から解雇予告を受けた。2000年1月末やむなく退職したものの、その後も頭重と首と腕、手指の痛みは取れないままだった。悩んだ末、亀戸ひまわり診療所整形外科を受診し、昨年5月亀戸労基署に労災請求した。
  Sさんの従事したシャーリング作業行程は、伝票に示されたサイズに従って機械を設定し、置き台の上の鉄板をシャーリング機の上に移動させ、作業開始する。鉄板は一番厚手で、かつ正板のものは1枚につき40kg以上の重さだった。置き台からの移動は手では難しく、置き台上から両手とカギ棒状の工具で引っ張って機械の作業面に乗せりしていた。Sさんの担当した機械は工場にある他の機械とに比べ、小さく古い型だった。その上、鉄板は縦に長いので、切断作業台に乗りきらずはみ出した端部分は作業者であるSさんが両手で持ち、押して切り進んでいく。その場合、切断開始当初のSさんの立ち位置は、作業台からかなり離れた位置となる。Sさんは身長165cmで、機械の作業面はちょうどへそ下の高さだ。前述の通り、作業面からはみ出し板の端を、両手で下から支え、板の高さを機械の作業面と水平に保ち、切断面を確認しながら前傾姿勢で押し切り進めるのだ。最終的に機械の裏に回り切りたまった板辺を集めて、梱包し、それを所定位置までクレーンで運ぶまでがSさんの仕事だった。Sさんは1枚の板を切り終えるまで、切断の際の振動を受けながら、板面を同じ高さに保って前傾姿勢で端を支えるため首、肩、腕への負担を耐えなければならなかったのだ。 

 この4月、Sさんの業務上認定が決定した。
Sさんによれば、98年6月痛みと痺れに襲われ、会社の上司から「自分も同じような症状を起こしたことがある」と労災手続きが一度始まったそうだが、そんな矢先、当時の主治医が会社に「労災申請しても認定は困難」と話したことで労災は頓挫してしまったという。 Sさんは、日本語で周囲の人たちに自分の考えを伝えることが十分に出来ないため、苛立ちの多い日常を送っていた。センターでは、中学生の娘さんに、春休み返上で通訳として協力いただき、労災請求のサポートを行なった。 請求から一年。やっと出た業務上決定だ。Sさんが途中であきらめずに請求した意味は大きい。
(事務局 内田正子)


(センター「安全と健康」2001年3月号から
 
●相次ぐじん肺患者の相談

 現在、センターにはじん肺患者の労災相談が相次いでいる。
* * * * * * * * * *
 一人はAさん(男性・60歳)。1998年10月、テレビで亀戸ひまわり診療所を知って群馬県から相談に来られた。
 コンクリートはつり工として43年間勤めたが、最近体力が続かず仕事を辞めたという。群馬労働局にじん肺管理区分決定申請を行い、12月に管理3ロの決定を受けた。
 その当時、合併症の症状はなかったが、2000年10月に再度じん肺管理区分決定を申請したところ、PR4(C)で管理4となった。現在、元請け会社に労災請求の協力を求めて交渉中である。
* * * * * * * * * *
  Bさん(男・60歳)は、1963年から約28年間隧道掘進の仕事に従事し、じん肺となった。2000年12月、神奈川労働局でじん肺管理区分2の決定を受け、現在、山梨県の岡谷労基署に労災請求をしている。Bさんは全国じん肺患者同盟東京東部支部に所属する支部員の紹介で相談に来られた。
* * * * * * * * * *
  もう一人のCさん(男・73歳)は、20代の頃、京都府綾部山中のマンガン鉱山の採掘に従事し、その後はダム工事の隧道掘進に転じて全国を巡った。
 たまたま他の病気で大学病院に通院しているとき、医師からじん肺の所見があると言われ、そこの医療ソーシャルワーカーを通じて相談に来られた。
 現在、Cさんから粉じん作業場の職歴を確認する作業中だが、彼の記憶がはっきりせず、難航している。何とかじん肺管理区分決定申請につなげたい。(事務局・飯田勝泰)

 

●許されない労災隠し-
     保線工事中に被災したOさんのケースから…

 昨年から今年にかけて、毎日、朝日両紙では「なくせ労災隠しキャンペーン」が展開されている。社会保険庁の調べで10年間に56万件もの本来労災保険へ請求すべき医療費が社会保険へ請求されていたことが明らかになるなど、労災隠しが多発しているというよりは普遍化してしまっている状況が社会問題となっている。先日行われた全国安全センターの厚生労働省交渉でもこの問題が中心的な議題となり、労災隠しの抜本的対策を強く要求している(厚生労働省側はいささかセンスのない「労災かくしは犯罪です」と大書きしたポスターを作成したが、出席した省側代表からは「犯罪」に対処しているという切迫感は残念ながら全く感じられなかった)。
* * * *
 Oさんはそのような労災隠しの犠牲者の一人である。3年前に中国から日本に働きに来たOさんは、JRの保線工事の仕事を1年ほど続けていたが、昨年3月神奈川県内の現場で約4mの高さの足場から転落して右ひざ骨折、肺挫傷などの重症を負う。警察や救急車も呼ばれて東海大学病院へ搬送され入院するが、元請会社の監督もいながら、治療費と賃金の一部を下請け会社に負担させ、労災適用を免れようとした。
 しかし、賃金補償が滞ったり、会社が紹介した医療機関への不信から亀戸労政事務所へ相談し、東京安全センターで労災請求の支援を行うことになった。ひまわり診療所へ転医し、昨年12月にようやく請求を行い、今年2月に業務上認定を受けた。 しかし、被災当初の治療が不十分であったこともあり、長期の治療を要する見込みである。
 Oさんのケースのように建設現場で働く外国人労働者が被災した場合、これまでの東京安全センターで支援したケースからの実感では、「大多数が労災適用を受けて、たまたま不運にも救済されなかった被災者がセンターに相談に来る」のではなく「大多数が労災適用を受けておらず、たまたまセンターを知った幸運な被災者が救済されている」状況が実に10年以上続いている。企業の責任を追求することはもちろんだが、「ゼロ災」や「メリット制」など労災隠しを助長する制度を見直すことも必要だ。(事務局・外山尚紀)

 

 ●透析室での針刺し事故から一年後に発症
     C型慢性肝炎で、元看護婦が業務上認定

 21歳で資格習得以来、看護婦として働いてきたKさん(62才・女性)は、20年勤めた病院を一昨年3月定年退職した。その後、約一年、主婦生活をしていたが、2000年早春、新たな病院に再就職を決めた。
  ところが、新しい就職先の病院での健康診断で、Kさんが告げられたのは、まさかのC型慢性肝炎という診断結果だった。あまりに突然だったため、にわかには信じられなかったKさんだったが、記憶をたどっていくと、唯一思い当たる感染源があった。
* * * *
 それは退職も間近に迫った99年3月8日、Kさんが当時の就労先M病院(八王子市所在)の透析室で婦長として勤務していた時に起こした針刺し事故だ。
  その日、KさんはC型肝炎の患者さんへの透析終了間際、主治医の指示にしたがって、患者のダイアライザーに接続しているVチャンバーに注射器を差し込み、液薬を投与した。  投薬後に、差し込んだ注射針を抜き取る際、太めの針だったため、力を入れて上方向に引き抜いた。この時、Kさんは、引き抜いた反動で針刺し穴脇に添えた左手人差し指を針で刺してしまったのだ。すぐに、傷口から血を絞り出し水道の流水で洗い、アルコール綿をつけた。その場を通りかかった同僚に針を刺してしまったことを話したところ、「大丈夫か?」と声をかけられたという。
 しかし、事故を病院に届けなければと一度は思ったものの、退職間近のKさんは、「労災のカルテ作成等で職場に手数をかけるのは気詰まりだ。感染するとは限らない…」と自分に言い聞かせ、事業所である病院への届け出を事実上怠ってしまったのだ。

  退職してからの一年は平穏だった。そして肝炎の診断を受け、あの針刺し事故以外に感染は考えられないと、以前の職場に連絡した。当時、届け出を受けていなかった病院側としては困惑したようだ。自分の判断の誤りを反省しつつ、Kさんは針刺し事故の事実を証明し、労災認定を受けたいとセンターを訪れた。 
  昨年9月、八王子労基署へ労災請求し、99年3月の針刺し事故の経緯、および事故前の肝機能検査データ、事故後一年間の生活を検証し、感染は前述の針刺し事故によるとの確信を意見書で訴えた。現認者として、事故直後の流し場で会話を交わした元同僚からも、事故が事実であったことの証明に協力を得た。針刺し事故から2年たった今3月、KさんのC型肝炎は業務上と決定された。
認定決定を喜びつつ、残念でならないのは2年前、Kさんが病院側への報告を躊躇してしまったことだ。20年勤め上げた病院を退職するKさんがすべきだったのは、報告手続きの煩雑さを気遣うことではなかった。求められていたのは、Kさんの事故報告が今後も現場で働く同僚たちの針刺し防止対策に活かされることだったのではないだろうか。(事務局・内田正子)


(センター「安全と健康」2月号から
 
●Wさん 腰椎圧迫骨折の再発申請 不支給決定!

 タクシー運転手のWさんは、1998年10月、仕事中に災害性腰椎捻挫を発症し、その後腰椎圧迫骨折と診断された。向島労基署は、Wさんの労災を一旦認定したが、その後業務外とし、支給した休業補償給付を返済するよう命じた。
本誌2000年10月号のとおり、Wさんは再発の申請を行い、先の業務外決定も含めて業務上と認定するよう向島労基署に要求してきた。しかし署は昨年末、再度業務外決定を下してきた。Wさんとセンター事務局員はすかさず署に対し業務外決定の理由を確認すべく交渉を申し入れ、2月8日労災課長との交渉を行った。
労災課長はあくまで「圧迫骨折の原因は不明である」と主張し、本人と主治医の主張を無視した。前報のとおり、この問題は向島労基署が腰椎捻挫と診断された腰椎圧迫骨折を当初労災認定しながら、1年3ヵ月後に「原因不明」として認定を取り消し160万円もの休業補償給付の返還をWさんに求めたことが始まりである。この間に2度の署交渉を行ったが、労災課長は「局の専門医の判断による」との繰り返し、いかにもやる気のない責任逃れ的な対応をした。当然Wさんは徹底的に争う意思を固め、東京労働局へ審査請求を提出した。センターとしても全面的に支援していきたい。
労災が不支給となり、Wさんはやむなく健保組合へ傷病手当金の請求をしていたが、東京自動車連合健保組合は支給を保留してきた。担当者に電話で確認したところ、「健保は独自に判断し、労災であると考えている。再審査請求の結果を待ちたい」と、あきれ果てた回答を返してきた。
健康保険も労災保険も一つになった厚生労働省の管轄である。その二者が相矛盾する判断を勝手に行うこと自体言語道断だ。「再審査請求の結果を待つ」との理由で、被災者の生活に当てられるべき傷病手当金を何年も経ってから支給してどうするのか?疑問と怒りを担当者にぶつけたところ、「矛盾は感じるが、しょうがない……」と向島労基署労災課長と同じく無気力かつ無責任な態度に終始した。
後日談だが、A新聞がこの問題を取り上げ健保組合に取材したところ、健保組合は支給をする方向で検討中との回答があったという。労基署や健保組合は、責任ある仕事、明確な根拠、法的な裏付けもった基本姿勢から随分離れた所で仕事をしているらしい。
                        (事務局  外山尚紀)


(センター「安全と健康」2月号から
 
●介護労働者の疥癬感染が労災に !

1.利用者からの感染
 最近、都内の某老人福祉施設のケア・マネージャーより、介護職員が感染した疥癬(ヒゼンダニによっておこる皮膚病)が労災認定されたとの知らせがあった。
 1999年末当時、センターではそこの職員の方々から疥癬感染についての相談を受け、意見書の作成に協力してきた。当該の職員は現在退職しているようだが、当時、かかっていた皮膚科の療養補償給付請求が労基署より支給されていたことがこの程施設側につたわり、ケア・マネから報告をいただいたのである。
 疥癬に感染した職員は、自己意見書に業務との関連性を次のようにまとめ、労基署に提出した。

@ 日常業務において、介護職員は利用者の身体に接触したり、排泄物の始末をしたりするため、絶えず感染する可能性がある。
A 今回の疥癬の感染源と思われる利用者X氏が疥癬にかかっていたことが判明したのは、当該職員が疥癬を発症していた時期と一致しており、職場の看護婦も同時期に感染した。
B 利用者X氏が通所停止になるまで、介護職員への有効な感染防止措置が施設内でとられなかった。
C 当該職員は、業務以外の日常生活で疥癬に感染するような状況になく、家族等にも当時疥癬を発症していた者はいない。

 当該職員は、痴呆性デイサービスの利用者X氏を担当していた。X氏は車椅子で、トイレ介助、バス送迎介助、移動介助を要するため、体を抱きかかえ、直接体に触れ合う。
X氏が薬の臭いをさせていることに気づいて家族に連絡をとったところ、3週間前から疥癬治療薬をつけていたことがわかった。その直後に、当該職員も皮膚の異常を訴え、皮膚科で疥癬と診断されたのである。


2.感染症は切実な安全衛生問題
 老人福祉施設や訪問介護で働く介護労働者にとって、感染症の理解と予防は重要な問題である。一概には言えないが、医療機関では、一応の感染症対策が義務付けられている。また、感染症に関する専門的知識もある程度備わっていると考えられる。しかし、こうした老人福祉施設等では、まだまだこれからのような印象を受ける。ましてや、在宅の訪問介護に従事するホームヘルパーの不安は大きい。
感染症には、ウィルスによるインフルエンザや肝炎、エイズ、細菌による結核、伝染性膿痂疹(とびひ)、MRSAやその他、梅毒、疥癬などがある。
介護労働者にとり、利用者への感染を防ぐと同時に、自らの健康予防のためにも感染症対策は切実な問題だ。
 介護保険制度での施設や在宅でのサービス提供事業者が、介護労働者への安全衛生面からも感染症対策に本腰を入れて取り組む必要があるのではないか。
センターでも三多摩地域で福祉職場の安全衛生プロジェクトが始まった。介護労働者の腰痛・頚腕予防だけでなく、感染症対策も重要な課題として取り組んでいきたい。
(事務局 飯田勝泰)


(センター「安全と健康」2月号から
 
●緊張のなかで患者さんの自殺を未然に防ごうと…
         只今、労災申請中!−看護婦さんが脳梗塞

 埼玉県に在住のSさん(女性・61才)は、昨年10月に全国労働安全衛生センター連絡会議呼び掛けでおこなわれた労災職業病ホットラインに相談の電話を寄せてくださった。
 Sさんは精神病院に20年在職のベテラン看護婦さんだ。そんなSさんが昨年1月勤務中に突然の脳梗塞発症という不幸に襲われた。

 その日(2000年1月21日)、公休明けの日勤でいつのものように出勤したSさんに特段の体調の変化は見られなかった。午後2時頃、Sさんの担当する開放病棟のナースセンターに電話が入った。「開放病棟の屋上に人影が見えるが、電気の工事でもあるのか?」と別棟の閉鎖病棟の問い合わせだ。開放病棟は3階建てで4階部分が屋上だ。屋上への出入りは常に自由ではあるが、問い合わせの電話によれば、人影が見えるのは屋上周囲に張り巡らされた高い防護フェンスの外側だという。電話を受けたSさんは、婦長に状況を伝え屋上に向かった。
  風が大変強くて寒い日だった(※後に地方気象台に問い合わせをしたところでは、午後2時:気温は5.1度、風速8.8m/午後3時:気温4.3度、風速8mであった)。全館暖房で、20度以上の室温が確保されているナースステーションを出て階段を昇り、寒風の吹く屋上に出たSさんは電話の話の通り、フェンスの向こうに人影を確認した。Sさんにはそれが数日前から「死にたい…」と言葉を漏らしていた開放病棟の患者さんだとすぐに分かった。だが、その患者さんもSさんに気づくと、屋上の縁に足をかけ、飛び降りようと身構えたのである。驚いたSさんは3階への階段を駆け降り「誰か来てください!」と必死に助けを呼んだ。彼女の叫びを聞きつけ、慌てて人々が駆け付けた。Sさんはフェンスを乗り越える人を押し上げ、野次馬を静止し、事態の収拾のために夢中だった。やがて患者さんの身柄は無事確保され、事無きを得た。
 しかし、潮が引くようにみんなが屋上を去って行くのを尻目に、Sさんは急に手足の脱力とめまいを感じてひとりその場に崩れ伏してしまったのだ。脳梗塞が起こったのである。

 Sさんの発症は、暖房の聞いた室内から20度前後の温度さのある屋外への移動という急激かつ著しい作業環境の変化、そして入院患者の自殺騒動という突発的かつ非日常的な出来事に遭遇した緊張と強度の精神的ストレスの負荷によって引起こされたことは明らかだ。現在、右半身の後遺症と闘っているSさんだが、発症から1年を経た今1月、労災請求した。今後もセンターはSさんへのサポートを継続していく。 (事務局 内田正子)


(センター「安全と健康」12-1月合併号から 
●左上肢のRSDで障害等級6級に
  −再審査請求を理由に2年間処分を放置した
     中央労基署が新たに障害等級を決定−

  昨年11月、中央労基署は神奈川県在住のTさん(男・51歳)に対し、右上肢のRSD(反射性交感神経性ジストロフィー)を障害等級6級と認定し、障害給付年金等の支給を決定した。実に2年3か月ぶりの決定であった。
 
 1996年11月、Tさんは自家用車を運転し出勤する途中、前方に割り込んできた保冷車が接触し、ガードレールに激突し負傷した。その後、療養を続けたが1997年8月に症状固定にされ、障害等級12級と認定された。Tさんは、これを不服とし審査請求をしたが棄却。労働保険審査会へ再審査請求をしていた。
 しかし、Tさんは障害等級の見直しを要求していただけではない。Tさんの訴えは、@中央労基署の労災課長と担当官が嘘・偽りをもって障害給付を請求させたA請求書の記載内容を密かに改竄したB正確な治ゆ年月日は1998年1月であり、障害も右上肢機能はRSDにより廃用であるというものであった。
 1998年9月、東京センターはTさんと一緒に中央労基署と交渉をもち、1997年の障害給付請求に関する事実経過を確認した。次長は請求書の一部をTさんに断りなく補正したことを認めたものの、受理までの手続や障害認定、処分決定に問題はないと回答した。
  署が請求人に確認もとらず勝手に補正するとは許し難い逸脱行為である。
 Tさんは納得せず、あらためて治ゆ年月日が1998年1月、傷病名が「反射性交換神経性ジストロフィー、頸椎捻挫」、障害の状態が「右上肢全体の強い痛み、筋力低下のため、右上肢機能はほぼ廃用んじ近い状態」と記載した横浜労災病院の主治医の診断による障害給付請求書を提出し、その場で受理させた。署は、すでに処分決定済みの障害給付の請求書をもう一度受理したことになった。
 中央労基署は同請求書を受理したものの、「処分の決定を労働保険審査会の裁決が出るまで待つことにしたい」と述べ、事実、その後2年以上も決定を放置した。
 Tさんは労働省、東京労働基準局、中央労基署に再三再四にわたり抗議を行った。その結果、昨年11月、中央労基署はTさんの障害等級をあらためて6級とする決定を行い、障害年金給付を行ったのである。もちろん、障害12級とした前の処分を不服とする審査請求は取り下げた。
 諦めずに闘い続けたTさんの勝利である。(事務局長・飯田勝泰)


(センター「安全と健康」12-1月合併号から 
●千葉労基署が
   金型組立工の上腕外側上顆炎に業務上認定

  金型工場で働くYさん(65才)上肢障害の疾病である左上腕外側上顆炎との診断を受け、11月労災請求をした。
 かつてYさんは実兄と金型加工の工場(主に、自動車のリクライニングシートのパイプを曲げる加工)を経営していたが都合で事業を退き、1998年(H10年)4月1日から現在のK社(事業所:千葉市花見川区)に金型部品組立工として就労した。この工場で主に取扱われていたのは自動車のドア枠の加工である。製品を使うには渡された図面にそって「抜き」、「しぼり」、「曲げ」など数種類の加工工程を経るのだが、Yさんはその加工過程に必要な金型を組み立てる。正確さを要求される仕事であり、Yさんは月にして平均3〜4件を担当していた。
 鉄の金型組立作業は、重量物取扱い作業である。とりわけ、組み立てた型の上下入れ替えによる試し作業の繰り返しは腕、腰などに負担が大きい。昨年8月、以前に得意先に納入した自動車部品の返品・直し作業が入り、10種類ほどの工程を工場の従業員9名が手分けして修正作業を行った。Yさんもそのうちの一人であり、自分が通常通り担当している仕事と同時並行で、修正要請のあった部品の金型修正や細かな工程(付属品の修正)等を手伝った。緊急の修正作業を急かされ、いつにも増して疲労がたまっていった。
 8月18日、Yさんは担当する金型組立作業で、いつものように部品上下の入れ替えをしようと金型を持ち上げひっくり返した際、左腕・ひじ部分に痛みを覚えた。すでに夕方で終業も近かったので気になりながらも作業を続行し、その日は業務を終えた。しかし、翌日以降、1週間ほどしてもひじの状態はよくならなかった。20日頃より修正部品の仕事分担から外れることができ、従来の担当の仕事に専念するようになっても金型を持ち上げるたびに左ひじの痛みに襲われた。終業後では、医療機関を利用できる時間までに帰宅できない。悩みつつも仕事を続けた。9月にはいるとYさんの左手は茶碗を持つこと、持ってもそれを口元まで持っていくことができなくなってしまい、左手を上げることが辛いので右手だけで顔を洗わざるを得ないところまで悪化していた。
 こんな状態では仕事も無理だと思ったYさんは、会社を休み自宅近くの整形外科を受診した。医師から「腕の使い過ぎですね」と言われた。腕を休めて様子をみて、1週間後、業務復帰したものの、やはり物の上げ下ろし作業の度に痛みが生じ、早退を繰り返す毎日が続いた。10月、繰り返す痛みにたまりかねて8日より休業に入ったものの以降、会社が労災の手続きをなかななか進めないなかで、経済的に追い詰められたYさんはセンターを訪れた。11月始め、Yさんは労災請求を行った。その後、相談のたびにガンコに残る腕の痛みにも関わらず、明日の生活費にも事欠くので職場復帰したいと話していた。
 そうこうするうちに今年1月、千葉労基署から彼の左上腕外側上顆炎を業務上と認める旨の支給決定書が送られてきたと、Yさんからの嬉しい連絡をもらうことができた。
 腕の痛みがこのままずっと取れないのではないかという不安と、あまりにもせっぱ詰まった生活の苦しさのなかでYさんの過ごした2000年年末を思うとやるせない思いになる。それでも、新しい年、業務上認定を克ち取った今、まずは安心して治療に専念してもらえたらと願わずにはいられない。 (事務局・内田正子)


(センター「安全と健康」11月号から 
●安全靴は役に立たなかった
    審査請求で認定されたイラン人労働者の労災 

 9月に報告したイラン人Hさん(男性・42歳)は、審査請求で原処分庁の決定取り消し−業務上認定を勝ち取ることができた。
 昨年10月、千葉市内の家屋の解体現場で、Hさんは4トントラックの荷台に乗って廃材の整理作業中、ユンボでつり上げた廃材の一部が右足に落ちて負傷した。
 千葉労基署は、Hさんは安全靴を履いていたので、ケガをするはずはないとの予断に基づき業務外とした。事後の交渉で、千葉労基署の労災課長は、Hさんの聞き取りを十分行わず、実際に当日彼が履いていたという安全靴も確認していないことが分かった。
 Hさんが履いていた安全靴は、彼の足のサイズ(24センチ)より一回り大きい28センチのものであり、足指を防御できなかったのだ。
 私たちは、千葉労働局の労災保険審査官に、Hさんの意見書や、当日彼を診察したイラン人医師の証言、代理人の意見書を提出し、千葉労基署のずさんな調査による誤った事実認定を取り消すよう求めた。
 その結果、本年11月初旬、Hさんは業務外とした千葉労基署の決定を取り消すとの決定書を手にすることができた。
 Hさんは千葉労基署で業務外とされてから、生活に余裕がなく満足に治療も受けられなかった。そのせいか、今も症状が残っている。(事務局長 飯田勝泰)

 


(センター通信「安全と健康」10月号掲載)
●タクシードライバーWさん
不当な労災支給決定取り消し問題で
向島監督署交渉

 去る9月22日、Wさん労災支給決定取り消し問題で向島監督署交渉を行った。
Wさんは1963年からタクシー運転手を勤めるベテランドライバーだったが1998年10月1日、乗客の降車を補助しているときに激しい腰痛を発症した。翌日から全く動けなくなり、S病院を受診したところ「急性腰痛」と診断された。治療の効果はあまりなく、牽引治療の結果、めまいなどの症状も出てしまい、その治療薬も服用していた。その薬によるものかは不明だが、11月14日夜意識不明になり救急車でM病院へ運ばれた。M病院でMRIを撮ったところ「圧迫骨折」が発見される。その後翌年7月まで治療を続けたものの十分には回復せず、「症状固定」とされてしまい、自宅での静養が続いた。所轄の向島労基署は一旦以上の全てを労災として認め、療養、休業補償を支払った。
ところが、今年1月向島労基署はいきなり1998年11月15日以降の支給分について、以前の決定を翻して「不支給」とし、これまでに支払った休業補償を返還するよう求めてきた。Wさんは不満ながらもやむなくその一部を返還したが、やはり納得できず、亀戸労政事務所に相談し、安全センターで対応をすることになった。
どのように考えても当初の「急性腰痛」の診断が見落としで、MRIを取った結果「圧迫骨折」が判明した、と考えるのが普通だが、向島労基署は「急性腰痛」発症の後に特に事故もないのに「圧迫骨折」を発症したと解釈し「圧迫骨折」分を不支給としたようだ。
しかし労災の不服申し立て手続きである審査請求の請求期間を既に過ぎており審査請求はできない。苦肉の策として、ひまわり診療所で再度治療を開始し「再発」として労災申請を行い、向島労基署には、支給取り消し決定の理由を確認するとともに、再発を認めた上で、支給取り消し決定を取り消すよう交渉を申し入れた。9月22日行われた交渉には、本人と主治医である三橋医師とセンター事務局員が参加した。向島労基署の取り消し決定の理由は、単に「因果関係が明確でない」というだけで、160万円もの金額を返済させる決定の理由としては余りに軽薄としかいいようがない。
Wさんからは@被災時に「ボキッ」と大きな音がしたこと、非常な激痛があったこと、牽引でも激痛が起こったこと、被災時以降に新たに圧迫骨折を発症するようなことは一切なかったことから、圧迫骨折は1998年10月1日被災時に発生していた。A圧迫骨折の治療は現在も必要であり、現に治療により効果が出ている。Bしたがって、現在の圧迫骨折の療養、休業については労災保険から補償が行われるべきである。と主張し、三橋医師もレントゲン、MRIでもって医学的にこれを補足した。この「再発」申請は圧迫骨折を労災として認めることを前提としている。つまり「再発」を業務上と認定すれば業務上を取り消された部分も再度業務上決定をせざるを得ない。交渉で私たちはこの点を確認し、圧迫骨折の部分も含めて再度検討するように申し入れ、署側も了承した。
一度支給された労災補償を署が覆し不支給とする場合には、時効などの制限がなくいつでも決定できる。(逆の場合もある。本誌2000年3月号の新宿署のケースでは不支給決定を取り消した)それにしてもWさんのケースは乱暴すぎる。審査請求を行わずに「業務上決定取り消し決定の取り消し決定」を求めるという希なケースだが、向島労基署には誠意ある対応を期待したい。
(事務局 外山)


(センター通信「安全と健康」10月号掲載)
●出稼ぎ労働者の過労死に不当な不支給決定

 Sさん(当時じ42才)は奥さんと1才の男の子を秋田に残して、98年11月初めに出稼ぎで上京しました。江東区に本社がある土木会社の宿舎に寝泊りして水道坑工事等で働きました。最初の就労場所は地下42メートルの縦坑の中でした。深い地底は暑苦しく、ひっきりなしに小雨のような漏水があり、蒸し風呂のようでもある。雨合羽を着用して汗だくになりながら、15kgもあるエアブレーカーを操作して岩盤掘削などの重労働に1日12時間従事しました。12月に入ると荒川にかける橋脚根堀作業に回されましたが、今度は一転して厳しい寒風に吹き晒されての肉体労働でした。ここで1週間働いた後、鈴木さんは再び下水道の縦坑での作業に回されます。作業内容は型枠組み立て、コンクリート打設、型枠解体という重労働でした。しあも始業時間は作業の都合で最初は8時、次に12時、それから20字、再び8時とわずか1ヶ月間にめまぐるしく変わります。
 宿舎も劣悪でした。プレハブの上に暖房はコタツだけで冷え切っていました。就業時間の異なる労働者の共同生活であるため、就寝は午前0時を過ぎることが多く、また兆食は5時半と決められていて睡眠も充分とれませんでした。このよう作業環境の中で、Sさんは、11月以降頭痛を訴えるようになり、同僚から見て明らかに元気を失っていきます。正月に帰郷しても食欲もなく、頭が痛い、疲れたといって横になってばかりで家族を心配させます。それでも、正月明けには上京し、同じ現場に就労するのですが、1月11日、終業間際にくも膜下出血を発症して倒れ、13日亡くなってしまいます。
 Sさんの遺族は死亡前あるいは当日の業務は過重であり、くも膜下出血は業務によるものであると労災申請をしました。その後、センターの協力を得て、意見書を提出したり、労基署との交渉を行ってきました。脳神経外科の専門医による意見書は「11月末に頭痛を訴えた時点で過重労働による脳動脈瘤の微少出血を発症した。幸い『かさぶた』により一時的に止血したが、1月11日の重労働により再破裂したと推定される。」と過重な労働とくも膜下出血との因果関係を医学的に説明するものとなっています。ところが、このような有力な証拠にも関わらず、中央労働基準監督署は、今年9月遺族に対して不支給決定を行いました。
 極めて不当な決定ですので、遺族は今後もセンターに協力をいただきながら審査請求で争っていきます。
(佐々木法律事事務所・弁護士 佐々木幸孝)