ラダイトからボルサまで 第6章

~労働組合運動の地域的&産業的組織の国際的経験と原理を探る~
1976年

第6章:現代をリードするヨコ組織
――CGILとカメラを典型に

2018.9.4追記:CGIL(Confederazione Generale Italiana del Lavoro) イタリア労働総同盟。イタリア最大の労働組合中央組織(ナショナルセンター)。下記ローマ協定により設立。

1.統一の定式と「一都市、一地方」

 1944年6月4日、ファッシズムとの対決の中で、イタリアにおける労働組合運動の統一が声高く宣言された。共産主義、社会民主主義、キリスト教民主主義などの潮流を代表する指導者によって、有名なローマ協定が結ばれたのである。その基本原則は、つぎのように明快なものであった。

「一経営、一産業、一都市、一地方、そして全国的にも、それぞれ一つずつの組織」。

 そして、1953年、世界労連第3回大会は、国際自由労連の右派分裂とたたかいながら、つぎのように、簡潔な組織統一の定式をかかげた。

「一企業に一労働組合。一職種または一産業につき一つの全国的労働組合連合体。一国においては一労働組合中央組織。単一の世界労働組合連盟」。

 世界労連の定式であるから、ローマ協定と対比するならば、「一国」が「一都市、一地方」に当たる。「一都市、一地方」に一つずつの組織という統一の原則が否定されたわけでもなく、「一国」が世界全体の一地方とみなされたわけである。しかし、この定式の決定にあたって、地方組織軽視の傾向がなかったとは、断言できないのである。

 いずれにしても、世界労連の統一の定式は、少なくとも日本の労働組合運動の理解に取りいれられる際、ローマ協定の「一都市、一地方」を復活することなく、ただ単に「世界」がとれたものになっている。これは軽視ではすまされない。明確な誤りである。その誤りは、ローマ協定にいたるイタリア労働組合の経過に照らすとき、さらに重大なものとして浮かび上がるであろう。

2.下からの統一の拠点

 ローマ協定にいたるまでの、そして、ローマ協定を現実化していくイタリア労働組合運動の再建は、地方カメラを拠点として、つまりは、地方的ヨコ組織の主導権により、はじめて可能になったのである。

 カンデローロは、1944年というローマ協定成立の時期について、地方カメラが「すべての県で容易に再建されたもに反して」、産業連盟の「再建ははかばかしくなかった」とのべている。統一した組織が、実際にどこから建設されたのかといえば、それは地方ごとであり、都市ごとであったのだ。また、この労働組合としての地方的な結集の前段には、行政区を単位とする「解放委員会」の活動があった。レジスタンスの戦線も、ことの性質上、当然、地方的に組織されていた。

 政治的には、レジスタンスと解放委員会の活動で、中心的な役割を果たした共産党が、決定的な主導権を握っていた。フォスターは、この間の事情を、「反共主義者のギャレンソン」[●注24]の文章を用いて論証しているが、それによれば、「共産主義者の労働組合指導者たちは、いくつかの理由で、他よりたちまさりがちであった。共産党はファシズム時代のイタリアで組織を維持した唯一の反ファシズムの政党であった。その指導者たちは、試験ずみの価値をもった人々であった」。そして、ローマ協定締結の際にも共産党の指導者は、その内容を決定的な点で確かなものにした。その際の共産党代表ディ・ヴィットリオは、のちにCGIL書記長、世界労連書記長に就任するが、新しい労働組合の民主化について、重要な点では決して妥協しなかった。社会党とカトリックの代表は、ファッシズム時代の遺産として、「義務的な加盟と自動的な組合費支払い」のひきつぎを主張したが、ディ・ヴィットリオは、これにきびしく反対した。[●注25]

注24:前掲『世界労働組合運動史』下巻、232ページ。
注25:G・ナポリターノ、F・J・ホブズボーム『イタリア共産党との対話』、山崎功訳、岩波新書、1976、26ページ。

 共産党の主張の主要点は、労働者の選択の「自由の必要」にあり、チェックオフにもとづく官僚的な機関の形成に反対し、「大衆に最大限のイニシアティブと権威を保存させる」ことにあった。このような共産党の考え方は、ファシズム支配下の苦難の中で、きたえぬかれた大衆路線の思想になっていたのである。

 ローマ協定の内容は、充分な討議をへて、以上のような共産党の主張を、くみいれたものになっていた。そして、ギャレンソンによれば、「1947年6月、地方労働会議所の80%は共産党の指導下にあった。」

 ギャレンソンは、また、同じ時期のフランスの労働組合運動についても、共産党の指導性を認め、「当時、共産主義者はすべての主要組合と実質上すべての主要な県労連を支配していた」と主張している。共産党が主要組合を「支配」していたかどうかは、評価の仕方に表現のわかれるところであろうが、いずれにしても、ここでは、地方カメラや県労連段階の指導性が問題になっている。フランスのCGTは、すでに、1934~1936年の人民戦線の経験があり、その際、共産党書記長トレーズは、「単一の地方連合と単一の県連合が構成された」という事実に注目し、コミンテルン第7回大会に報告している。[●注26]

注26:『トレーズ政治報告集』未来社、140ページ。

 いずれにしても、統一の力は、下部大衆の圧倒的な要求と行動に、そのすべての源をもつものである。そして、その源泉をからすことなく、そのエネルギーを不断に高め、維持し、しかるべきときに爆発させることは、現実にはなかなか困難な問題である。この点では、CGILも、決して、平坦な道を歩みつづけたわけではない。

3.CGILの組織方針から

 CGILは、結成の翌年以降、何度かの分裂を経験しつつも、依然として、イタリア労働組合運動の中心であった。しかし、1950年代の後半、組織拡大などの壁に直面した。

 1959年のCGIL第5回大会の討論要綱は、この事態の下におけるCGILの苦悩と、それ以後の大躍進の秘密の一端を物語っている。[●注27]

注27:イタリア労働総同盟『労働運動と構造改革』家里春路編訳、合同出版社、1963。

 その「第8章・組合民主主義」、それを受けた「第9章・労働組合の機構」の一句一句は、すでに見てきたような地方カメラの機能と歴史を前提としてみるとき、実に生々しい経験にもとづく具体的な方針といわなければならない。

 要点の第一は、「組織の分権化の点検」であり、第二点は、「組織的躍進にとっての阻害的要因の究明」である。

 「組合民主主義」の章では、つぎのような抜本的指摘がなされている。

「工場、産業、地域の新しい情勢を把握できないような政治方針や組織方針に統一的労働組合がしがみついているために、労働組合の立ち直りが遅れている」。

 このような点検は、学習運動や文化運動にもむけられ、それらの自己抑制をふまえて、第9章の「労働組合の機構」が、具体的に提案されている。

4.数百のカメラを建設せよ!

 すでにCGILの第4回大会では、職場でのたたかいを強化するために、「事業所支部」の建設が重視されていた。ところが、この際に忘れてはならないのは、つぎのような組合機構上の要点である。

「都市と農村のあらゆる市、町、区で数百の労働会議所や地方支部をつくり、組合の分権化を断固として実行しなければならない」。

 つまり、「事業所支部」の建設と職場闘争の強化のためには、第一に、組合運営上の「分権化」、すなわち組合民主主義のより一層の徹底が必要である。第二に、その「分権化」を保障するためには、数百の地方カメラという建物を含む機構と、地方支部という組織の建設が前提条件となる。それなくしては、「労働者と一層多様で生き生きと直接結合する」ことができない、というのである。この「直接結合」の重要性は、さらに、第5回大会の討議要綱で、つぎのように強調されている。

「事実、経験によれば、居住や職場の周辺で組織と労働者との結びつきをはかる最も有効な機関は地方連合会である」。

 この「地方連合会」は、日本の地区労段階にあたるCGILのヨコ組織であり、組合の機関である。この機関は、地方カメラという、独特の場を中心に、地方支部や経営・事業所支部をヨコにつなげている。しかし、この際、地方カメラの役割は、決して、既存の労働組合組織に従属するものではない。むしろ、つぎのように、新たな前進基地として、積極的に位置づけられている。

「組合の空白な市町村に労働会議所を設立することは地方連合会や労働組合の建設に向かっての有効な第一歩である」。

5.巨大な社会的エネルギーの中心

「組合の空白な市町村に労働会議所を設立する」という方針については、さらに強調して、日本の労働組合の活動家にも理論家にも、注目と真剣な論議をうながしたいところである。

 これは要するに、日本の地区労が置かれている現状とは全く逆なのである。

 日本の、とくに都市部では、多数の労働者が労働組合に組織されていながら、地評や地区労の機能は制限され、財政基盤はすこぶる貧弱である。多くの地区労は、独自の事務所すら維持できず、事務所があっても10人以上も入室すれば満員になる狭さである。常任幹事会や執行委員会という、最小人数の機関の会議を開くのにさえ、別の会場を、そのたびごとに借りなければならないのである。とうてい、「空白」に進出するなどという方針を、だせるような状況ではない。

 これに反して、イタリアの地方カメラは、まず、地域の労働者の「文化の中心」であり、「巨大な社会的エネルギー」に対してイニシアティブを発揮すべきものとして、位置づけられている。図書館や娯楽施設さえ備える地方カメラは、未組織労働者や農民、一般市民に開放され文化サークル(チルコロ)の拠点となる。この過程が、労働組合の組織化の活動に、先行するのである。

 ついで、文化サークルの会員の中から、CGILの新組合員が生まれる。組合員数が少ないうちは、産業の枠なしの、地方支部に編成される。強化された地方支部は、やがて地方連合会に発展し、その中に産業支部、事業所支部をつくりだし、それらが全国的産業同盟の活動にも加わっていくのである。

 CGILは、その間の指導体制についても、以下のように、具体的な指示をしている

「地域によって労働組合がまだ自主的に自己の諸任務を解決できない場合には、組合にかわって労働会議所は粘り強い活動を続けなければならない」。

6.ヨコ組織の指導性

 このように、地方カメラの段階においても、労働組合の組織化とその初期における指導責任の所在が、明確にされている。

 しかし、かつてのカメラ同盟と産業同盟との、「毎日のような紛争」を想い起すまでもなく、闘争指導の責任の所在というものは、組織運営の根本にふれる問題であり、簡単に整理ができるものではない。そこでCGILは、「組織の分権化」という方針とあわせて、「機能の均衡化」をも重視している。

 たとえば、地区連合などの「横断的組織にも産業別組合固有の諸任務」をもたせるという方針が明記されている。かつての紛争の際には、産業連盟が地方カメラを、「単なる地方調整機関にかえよう」としたのであるが、いまでは、その逆の方針がつくられているわけである。

 もっとも、指導責任を云々する以前に、指導能力が問われなければならないのであるが、その点でみても、イタリアのヨコ組織の幹部・活動家の層は大変に厚いようである。「CGILを含めて横断的諸組織における組合幹部は、産業別組織の自主交渉能力を高め、指導」していくのである。

 日本でも、「地区労は労働組合の労働組合だ」という表現があるが、新しい産業分野の発展にともなって、つぎつぎに新しい未経験の労働組合が誕生する時、ヨコ組織が提供する幹部の果たす役割は、大きいといわなければならない。すでに長い実戦経験をへた幹部・活動家は、日本にも多数いる。とくに、手痛い敗北と困難な巻き返しの経験は、金のわらじで探し求めるべき、最も貴重なものであろう。この失われやすい経験を、単にタテ組織の追憶としてではなく、ヨコ組織を通ずる教練として、実地につたえ合うことは、まさに階級的責務なのである。

 そして、それを可能にするためには、指導機関相互の関係をより明確にしていく必要があろう。

 CGILの方針は、その点からみると、タテ組織とヨコ組織の関係を、つねに関連づけて考えているのであり、その一端を、つぎのような文章にうかがうことができる。

「どれほど産業別労働組合が発展強化しても、そこには限界はなく、またそれによって労働会議所の役割が制限されることにはならない。むしろそれは労働会議所の活動領域を拡げ、その活動の質を高めることになる」。

「CGILをふくめて、産業別組織や横断組織の下部、県、全国のあらゆる指導機関の役割をもっと活動的にするために、機能の均衡化をはかることが必要である」。

 指導機関のあらゆる段階について、その権限や機能を均衡化していくことは、なかなか困難な事業である。しかし、それなしには、労働者階級の真の力である「数」と、その数をまとめあげるための真に「民主的な組織」は、きずきえないのである。

7.現代日本の労働組合組織論

 ヨコ組織の歴史は、当然、労働組合運動史のすべての章に、切れ目なく描かれるべきものであった。すでに見てきたように、地方的ヨコ組織の再形成は、つねに、全国的タテ組織の再形成よりも素早かった。それゆえ、歴史的記述としては、タテ組織と甲乙の差なく、具体的に分析されてしかるべきものであった。

 しかし、日本のみならず、労働組合運動の歴史のなかで、ヨコ組織にあたえられている評価は、現実の意義よりもはるかに低いといわざるをえない。それのみか、とくに、本稿で収録した組織上のタテ・ヨコ抗争の事実は、発見しうるかぎりの通史のなかには盛られてもいないのである。

 また、ほとんどの場合、「職業別組合から産業別組合への移行」として簡単に論じられ、公式的な前提とされている組織発展の実態は、そのような直接的なものではなかった。トレイズ・ユニオン、ワーカーズ・ユニオン、ワン・ビッグ・ユニオン、そして、ブールスとカメラの運動を通じて、そこには、つねに、一挙に職業・産業の枠をこえて、労働者全体の結集を求めた事実があった。いうところの「産業的労働組合」とは、そのような階級性の鋭い爆発にささえられ、そのエネルギーを吸収することによって、ようやく職業別の枠をのりこえたものであった。

 ではなぜ、このような労働組合組織の発展における重要なポイントが、正確に描かれてこなかったのであろうか

 この疑問に答えるためには、はるか一世紀をさかのぼる歴史を、もうひとつの側面から見直さなくてはならない。その側面とは、政治的ないしは革命路線的な抗争の側面である。


第7章:意外史の分岐点―ロシア革命と社会主義国の労働組織

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