ラダイトからボルサまで 第2章

~労働組合運動の地域的&産業的組織の国際的経験と原理を探る~
1976年

第2章:労働組合運動の発祥地
――イギリスの場合

2000.11.4 WEB雑誌『憎まれ愚痴』60号掲載

1.史上初の団結禁止法との対決

 フォスターは、「資本主義はイギリスに生まれたが、さらにまた近代労働者階級と労働組合もその地に誕生した」[●注6]と記している。ここではさらに、最初のヨコ組織も、イギリスで生まれたと言うべきであろう。

注6:『世界労働組合運動史』(W・Z・フォスター、塩田庄兵衞他訳、大月書店、1957.
Outline History of World Trade Union movement, William Z. Foster, New York, International publishers, 1956. 上巻、25頁

 しかもこの最初のヨコ組織は、やはり人類史上はじめての労働組合弾圧立法との対決のなかで、その基礎をあたえられたものであった。

 ウェッブ夫妻は、大著『労働組合運動の歴史』[●注7]のなかで、労働組合運動の前進と、それに対抗する弾圧立法との関係を、つぎのように要約している。

注7:『労働組合運動の歴史』(シドニー&ビアトリス・ウェッブ共著、荒畑寒村監訳、日本労働協会、1973.原著:History of Trade Unionism, Sidney and Beatrice Webb.旧版・1894.新版・1920)。ウッブ夫妻は、後の労働党の理論的指導者。この大著への批判も、いくつか出されているが、いまだに、これを超える労働組合運動史は現われていない。

「18世紀の中頃から、下院の議事録は、たいていの熟練職業に雇職人の組合が存在していたことを知らせる、請願と反対請願でいっぱいである。そして決定的に、われわれは、特定の産業における団結禁止法の着実な増加から、そしてあらゆる団結を禁止した1799年の包括的な法令でそれが絶頂に達したことから、組合運動の広汎な成長を推定できるのである」

 続く1800年には、一般団結禁止法として知られる弾圧立法も完成した。労働者の団結と行動は、すでに普通法で規制されてきたのであるが、特定の産業についての立法の段階を経て、あらゆる団結が禁止される時代になった。ウェッブ夫妻は、この1800年法について、「重大な新機軸を象徴するもの」という表現を使っている。時代的背景については、1776年のアメリカ独立革命と革命宣言、1789年のフランス革命に発し、19世紀の中頃まで続く世界的なブルジョワ革命の波を配置してみなければなるまい。イギリス自体のブルジョワ革命は、1644年の名誉革命で一応の形式を踏んだのであるが、1800年に前後する産業革命の一大発展の中で、日の没することのない世界帝国にふさわしく、再整備を迫られていたものである。

 1800年法は、その点から見る時、一般的な政治活動への弾圧、つまりはフランス革命の影響を受ける動きに対しての、先制攻撃をも含んでいたといえる。それは、雇主たちの団結をも禁ずることになっていたのだが、雇主たちが労働者に対抗するために団結した場合には、全く規制は行われなかった。また、すでに未来の労働貴族のさきがけをなしていた熟練手工職人の穏健な同職クラブに対しても、何らの咎めもない場合が多かった。

 一般団結禁止法は、まさに、一般的な団結[●注8]へと向かう労働者の動きを、強権の下に踏みにじるものであった。しかし、この立法と同時に、かえって、この立法の趣旨と運用に歯向かう運動が巨大化していく。散発するストライキ、政治的暴動、挑発、スパイ、あらゆる種類の政府の密偵、裏切り、投獄、虐殺、貧困と悲惨の中から、非公然組織としてのラダイトが代表的な姿を示す。

注8:「一般的」(general)は、「すべて」の意味であって、この場合にも、すべての労働者の組織化を意味する。後に「一般労働組合運動」などの表現がなされるのも、この意味であって、具体的には、職業別組合(craft union)とは根本的に異なる出発点なり主張なりを、最初から表明していた組織運動である。

 ラッド王の秘密の指導の下に戦うと称する組織は、1811~1812年の間、イングランド各地に飛び火のように燃え広がった。この時期には、特に、織物機械の破壊が中心であり、掛枠編み物工の闘争に起因するもののようであるが、すでにウェッブ夫妻が強調するように、「むしろいずれかの一つの職業の職工ではなく、あらゆる種類の賃金労働者の広汎な、秘密の宣誓でしばられた共謀であった」。そして、闘争資金も、煉瓦積工、石工、石切工、紡績工、織物工、さらには地方連隊の兵士からさえ拠出されたのである。

 第二次の機械打ち壊し運動は、1815~1816年、再びイギリス全土を覆い尽くしたが、この際には特定の機械ではなく、工場制度全体が破壊の対象となった。

 ラダイト型の闘争組織は、しかし、一つの頂点であった。当時の新産業たる繊維・製鉄・鉱業の全分野にわたって、頑強なストライキ闘争が行われ、しばしば軍隊の出動を伴う暴圧を受けていた。そして、これらの闘争もやはり、幅広い賃金労働者の支援の下にあった。わずかに残る当時の組合文書は、1810~1812年の3年間に、ロンドンの金箔職組合が14の他の職業組合に200ポンドの大金を貸与していた例、1823年に、ある綿紡績工の組合が28都市の25の同職委員会と14の他職業組合からカンパを受けていた例を、生き生きと伝えている。しかも、そのような広汎なカンパ活動に支えられて、団結禁止法に挑む裁判闘争さえ行われていたのである。

 1824年には、ついに団結禁止法が撤廃された。ウェッブ夫妻は、「地方的職業の合同委員会をつくろうとするこの傾向」という表現を用いているが、団結禁止法の撤廃に当たっては、以上のような激しい闘争を通ずる階級的連帯感の高揚があり、ヨコ組織形成への動きが、「非常に強化されたのである」。労働者は、請願の特別委員会に、いろいろな職業を代表する証人を合同で送り出したり、弁護料やストライキ資金を集めたり、後の労働評議会につながる活動をすでに、ごく当たり前に、実行していたのである。

2.遠い親戚より近所の他人

 ウェッブ夫妻は、さらに、当時の工業中心地の賃金労働者は、階級闘争への拡大をますます意識するようになったとしている。団結禁止法の撤廃と専制政治もしくはナポレオン戦争にひきつぐ戦時的支配を変更することなしには、「はるかに勢力的で機敏な労働者階級の指導者たち」が、「議会制度全体の徹底的な変革」へと突き進むことになったであろう。この事態を見通したイギリスの支配階級は、密やかに、団結禁止法の撤廃と労働団体結成の自由を認める法案を、通過させたのであった。

 支配階級が最もおそれたものは何であったか。そして、1825年以降に、彼らが育成しようとするものは何であったか。このこたえは、すでに団結禁止法下に、その初期の姿をあらわしていた。

 ひとつはラダイトのように「あらゆる種類の賃金労働者の広汎な」共謀であり、それと表裏一体の関係で進んだ「地方的諸職業の合同委員会をつくろう」とする傾向であった。この対極に、当時の一般労働者の3~5倍の賃金を獲得していたといわれる熟練手工職人の同職組合があった。ウェッブ夫妻は資料にもとづいて、この種の同職組合が1810~1820年のロンドンにおけるよりも完全に組織されたことはないと主張している。

 これらの労働貴族的同職組合は、たしかに、すべてが貴族的出発点を持つものではないし、1800年の一般団結禁止法ともある程度はたたかったにちがいない、しかし、わずか4分の1世紀の間に、彼らは労働組合運動の本流ではなくなった。系図の上でこそ前世紀の同職組合につながっていても、すでに似て非なる保守団体に成り下がっていた。労働組合運動史の今日的評価は、まず第一に、この点の明確化にある。

 一方、産業革命によって生み出された大量の新産業労働者群は、より階級的な組織形態を生み出していった。その際、当時の社会の物質的基盤が、地域的なヨコ組織への結集を第一にするものであったことに、注目すべきである。当時の陸上交通機関は、馬、馬車を最高速度とするものであったし、それさえも労働者が日常に使用できるものではなかった。蒸気機関車としては、スチーブンソン父子の発明になる改良ロケット号の完成が1829年、1842年になってはじめて、ロンドン・マンチェスター間に1日2往復の列車が走るようになったという程度である。

 当然、労働者の闘争は、それぞれの産業中心地で、ありとあらゆる支援を求める他はなかった。このためにかえって、職業・産業を超えた労働者同志の階級的団結は、いやましに強化されざるをえない。労働者が本当に死活の闘争をする場合には、この時代に限らず、まず、近所の他人とでもいうべき他産業の労働者に、必死の援助の要請をしているのであるが、その原型が早くも1800年代の初頭に求められることを特筆しておきたい。

 さらに、労働組合を闘争のための組織として確認するならば、その本流はすでにこの時代以降、同職組合ではなくなっているのである。

3.ヨコ組織と一般労働組合の発生史

 おそくとも1818年には、ラダイト以外にも、職業の枠を超える組織が作られていた

 「博愛協会」とか「博愛ハーキュリーズ」[ギリシャ神話の強力無双の巨人ヘラクレスに因む]という名称の団体が、1818年にマンチェスターからロンドンなどの各都市に広がった。この団体は、孤立的な同職クラブの無力さを確認し、さまざまな職業を含む連合体として結成されたものである。12人の委員が投票で選出され、3分の1が毎月順番で改選されるようになっていた。弾圧に対しては、同一地方の全体的援助のみならず、各都市の組織からの援助も約束されていた。

 ロンドンでは、メカニクス(Mechanics)[●注9]の博愛ハーキュリーズという形であったようだが、のちにアメリカの例を示すように、このメカニクスという複数の用語には、実に多数の幅広い職種が含まれていたのであった。

注9:後出「アメリカの場合」:「大工、石工、石切り工、裁縫師、艤装工、沖仲仕、指物師」。つまり、現代の意味の機械工は含まれていない。よって、「機械工組合」と訳すのは、まさに機械的な誤訳であり、ましてや、現代の日本の金属関係の産業「別」労働組合の先駆けと位置付けたりするのは、我田引水の曲訳と言わねばならない。

 この種の試みは、何度かの失敗、崩壊をくりかえしながら、1820年代後半に向けて、次第に有力な潮流をなしていく。たとえば、1826年にも、やはりマンチェスターで、「地区内の新職業」を幅広く組織しようとする企てがあった。さらに、それらは、明確な目的意識と理論に支えられた運動でもあった。

 1827年には、「有閑階級の一人」(One of the Idle Classes)と自ら名乗る知識人の執筆による労働者向けのパンフレットが発行されており、その中には、つぎのような箇所がある。

「周辺地区の諸職業における低賃金労働者の競争にたいして、手早い救済策は、国内の全職業のいっさいの一般組合を代表する中央組合である」。

 この論文は、全部門における均一化された賃金率の決定とか、労働市場問題にかかわる主張を含んでおり、若干の補正を加えれば、現代にも通用する理論的な内容であった。

 このような前段階をへて、つぎの時代が切り開かれるのであるが、「諸職業」(trades)という複数の職業の枠を超えた組織化運動は、のちの労働評議会などのヨコ組織と同時に、一般労働組合運動をはらむものであった。この点に関しては、のちにまた、フォスターが1927年のフィラデルフィアに世界最初の全市的規模の中央評議会(労働評議会)の起源を求めている例と合わせて、再び立ち返って考察する。

4.トレイズ・ユニオンの複数形

 1825年以降、労働組合の結成は名目的に自由になった。しかし、支配者階級の一部が団結禁止法再制定の巻き返しを策した事実にも表われているように、新たな敵意との対決が必要であった。それどころか、この年には、大恐慌による大量失業が発生した。賃金切り下げと解雇に反対するストライキは、軍隊による弾圧、そして労働組合の崩壊という結果に終わった。

 新たな労働組合の息吹は、1829年ころに明確になる。そして、1829~1834年ごろに、現代に伝わるトレイド・ユニオン(Trade Union)の名称の起源をなす組織が出現する。

 ところが、たったの1文字の相違で、この組織は、まったく反対の極を意味していた。簡単な英和辞典でも、tradeの項目にTrade(s)=unionなどと記載されている例がある。何気ない(s)なのだが、ここには、労働組合の組織を論ずる上で最も根本的な問題が潜んでいる。

 複数形のトレイズ・ユニオン(Trades Union)は、1839年ころの支配層によって、「ある巨大なくらやみの力」という表現で意識されはじめた。それは文字通りに複数の職業を意味し、職業の枠を超える組織化を、基本方針として明確化したのである。この組織方針自体が、狭い専門職に細分された同職組合の限界への挑戦であった。この方針をめぐっては、労働組合運動の内部にも論争が起きたほどであり、1834年の『タイムズ』紙の時評欄では、このトレイズ・ユニオン(Trades Union)を「妖怪」(bugbear)として取り扱っている。

 『共産党宣言』[●注10]以前の「妖怪」は、その組織方針上の理想として、「ただ一つの全国的労働組合に、全国のすべての労働者を完全に結集」することを掲げた。そして、現実には、とりあえず、ヨークシャー・トレイズ・ユニオンとか、リーズ・トレイズ・ユニオンであるとか、地方的な組織を作り、それなりの闘争を組みながら、1834年という画期的な年を迎えるのである。

注10:「共産主義という妖怪」を自称したこの宣言の文書は、1848年にロンドンで発表された。日時と場所からして、上記の1834年の『タイムズ』紙の時評欄の「妖怪」のパクリである可能性が高い。

5.ワン・ビッグ・ユニオンの理想

 いくつかの前段階を経て、1834年のはじめには、「妖怪」の理想が実現した。「大ブリテン・アイルランド全国労働組合大連合」[●注11]と訳出されている全国規模の大トレイズ・ユニオンが、嵐のような組織化とストライキ闘争を繰り広げることになった。

注11:「全国労働組合大連合」の訳語は『労働組合運動史』によるが、原語は、Grand National Consolidated Trades Unionである。Consolidateは、「合併」「統合」であり、「連合」ではない。この新組織は、単位組合の連合ではなくて、複数形の諸職業、トレイズ(Trades)を組織対象とする全国規模の単一組合なのである。これ以前にも、建築関係を中心とするGeneral Trades Unionがあり、その中に各職業別の支部が作られていた。

 この大トレイズ・ユニオンは、完全に単一の労働組合であり、単なる連合体ではなかった。ウェッブ夫妻は、「妖怪」の理想として、全国単一大組合(One Big Union)という総合名称を与えたが、それは、新たな組織化の展開、全国的な合併、統合による単一のヨコ組織なのであった。この単一ヨコ組織は、新しい労働者の組織化と並行して、無数の地方同職クラブを吸収した。かつてない勢いで大規模な組織化が進んだ。ウェッブ夫妻の推定によると、50万人という規模の当時では史上最大の単一労働組合が出現したのである。

 イギリスの支配階級とその政府は、当然、驚愕した。そしてただちに、手段を選ばぬ弾圧が始まった。「秘密の宣誓」をさせたという口実で、指導的な労働者がつぎつぎに逮捕され、ある場合には7年間の植民地追放の刑に処せられた。オーストリアなどの植民地における強制労働は、多くの場合、死刑に近いものであった。

 この一方で、資本家の側は、労働者個人に対して、誓約証書への署名を強要した。いわゆる黄犬契約である。労働組合に加入しないという誓約が求められ、拒否するものには解雇が強行された。ストライキによる抗議に対しては、組織的なスト破りが導入された。そして、全国各地における果敢な抵抗にもかかわらず、50万人の大トレイズ・ユニオンは、1834年末には崩壊してしまった。

 大トレイズ・ユニオンは、世界で初めての一国規模のヨコ組織の労働組合の組織化運動であったが、1年で敗退した。その断片は、もとの地方的同職組合に閉じこもってしまった。しかし、この約1年間の輝かしい闘争は、支配者階級の動きから見ても、画期的な意義を持っていた。支配階級は、すでに述べたように、黄犬契約という新しい発明によって、合法化された労働組合に対する反撃を始めた。さらに、地方的な労働組合運動に対抗する組織として、この時期に、商工会議所(Chamber of Commerce)を設置し始めた。わが日本の経団連につながる労務対策組織が、かくして、資本家同志の競合を超えて、イギリスの各地に設立されたのである。

 大トレイズ・ユニオンの理想と1年間の闘争は、パリ・コンミューンの2ヵ月半と同様に、典型的な分析の対象としてしかるべきものである。[●注12]

注12:『労働組合運動の歴史』の「訳者解題」には、すでに「ゼネラル・ユニオン」(1818~1834)への注目、「巨大な一般組合の成立史」などへの関心がのべられている。そして、この側面からの研究が、最もおくれているのである。

6.労働組合評議会への道

 大トレイズ・ユニオンの崩壊後、11年を経た1845年に、全国労働者保護労働組合同盟(National Association of United Trades for the Protection of Labourer)が成立した。この構成単位は、連合労働組合(United Trades)であり、すでに同職組合単位をそのままにした連合体が各地で結成されていた。全国同盟の結成に当たっては、マンチェスターほか7つの地方連合体が、その代表を送り出した。

 これらの地方的連合体は、かつての失敗に懲りて、トレイズ・ユニオン型の組織方針を否定し、むしろ明確に、「既存の労働組合の組織に干渉しようとする意志をもっていない」などと、規約に明記さえした。このような経過を踏んで、現代につながる労働組合評議会が各地で結成された。1860年には、今日のロンドンの労働組合評議会が、最初の会合を開いている。1867年には、全国に12の労働組合評議会が作られ、これらの労働組合評議会のイニシアティヴの下で、1868年に、今日のTUC(総評議会)が成立した。

 1870~1873年には、労働組合評議会数が倍増し、1889~1891年には60に達する未曾有の激増期を迎える。当然、この背景には、労働組合運動全体の高揚期があった。

7.ワーカーズ・ユニオン

 1880年代のイギリス労働組合運動は、一般労働組合の組織化運動の新たな波を迎えた。この組織化方針は、パリ・コンミューンの刺激をも受けた社会主義者の指導になるものであった。彼らは、フランス語で組合を意味するサンディカ(syndicat)を、社会改革の主体に位置付けており、イギリスでもサンディカリストと呼ばれた。サンディカリストは「産業革命主義者」とも訳されるが、この呼び名の歴史的かつ政治的な意味については後述する。この時期には、万を単位とする労働組合が、数年の内に次々と結成された。TUCは、その組織人員を、1885年の約58万人から1890年の約147万人へと、倍以上に増やした。

 前進の主な局面は、半熟練および非熟練の労働者の組織化であった。その中でも、7万人という大組織になった「ガスならびに一般労働者組合」(National Union of Gasworkers and General Labourers)は、新しい一般労働組合の特徴を、その名称に刻み込んでいる。従来のTradesからworkers, labourersへと、用語の革新が行われたのである。「一般労働者組合」と訳されているが、これまた何気ないが意味の深い「者」の一字なのである。日本でも労働組合ではなくて労働「者」組合を名乗る例がある。この「者」の一字は、workers, labourersの意味を継承しており、すべての「一般」労働者を組織化する基本方針の表明となっているのである。

 1898年になると、新しい用語を冒頭に掲げて「ワーカーズ・ユニオン」(Workers' Union)を名乗り、明快至極に、すべての労働者を組織化する方針を持つ新組織が誕生した[●注13]。この組織は、1929年の合併を経て、今日も、TUCの中心をなす運輸および一般労働者組合(Transport and General workers' Union)の中に、その名称の一部とともに、生き続けている。

 このような、組織化の嵐の中で、旧来の職業別組合は、組織的な統合を余儀なくされ、単一化に向かったのである。

注13:Richard Hyman, The Workers Union, Clarendon Press, Oxford, 1971.

8.TUCからの排除

 一方、この間に、現代のTUC型の組織構造を決定付ける事件が、政治的な背景を伴いながら進行していた。

 1895年に、TUCは一方的に、地方労働組合評議会を、その構成組織から排除した。ウェッブ夫妻が述べているように、「この評議会こそは総評議会[TUC]の創始者であった」のだが、産業「別」の中央集権的なタテ組織への傾向を強める全国組合の強大化とともに、形勢は逆転していた。

 つぎのようなウェッブ夫妻の筆になる文章は、現代の日本のヨコ組織とタテ組織の関係を考える上でも、大変に深い意味を含みをもつものと言わなければならない。

「全国組合の中央執行部は、自分たちが直接に代表されない指導的な団体の存在にたいしては、疑いと嫉妬心をもっていたので、その地方支部は、実際に禁じられないまでも、想像上でも競合的な力となるかもしれないものを固く守るようなことは奨励されなかった」

 このような雰囲気の下で、複雑な、いまだ正確には解明されない主導権争いが頂点に達した。1895年のTUC大会は、あらゆる地方労働組合評議会を直ちにTUCから追放すること、各労働組合の総組合員数にもとづく投票制度をとること、代議員は有給の役員もしくは現にその職種で働いている組合員に限ること、などを決定した。

 結果として明らかなことは、第一に、地方労働組合評議会が、自らが生みの親だったナショナル・センターのTUCから追放されたことであり、第二に、当時のサンディカリスト指導者として著名なトム・マンが、TUC大会の代議員資格を失ったことである。この提案が審議され可決されたTUC大会について、ウェッブ夫妻は、「非常におそろしい雰囲気であった」と記している。

 奇しくも、この年は、ウェッブ夫妻の名著、『労働組合運動の歴史』の初版が刊行された翌年であり、エンゲルスの没年でもあった。

 以来、イギリスの地方労働組合評議会は、労働党の地方構成要素というような、日本でいう「選挙地区労」の蔑称の地位に甘んじながら、今日に至る。ウェッブ夫妻は、「全国労働組合評議会連盟をつくろうとする企ては成功しなかった」と記しているが、時期その他の状況は記していない。この「全国労働組合評議会連盟」なるものが作られたとしたら、それは、のちに見るフランスやイタリアの場合のように、ヨコ組織の結集による全国中央組織を実現したことになる。歴史は意外な展開を見たのかもしれないのである。

 いずれにしても、現代のTUCの組織構造の形成には、明白な意図的工作の証拠が残されている。TUCは、その創立の1868年以来、1895年までは、タテとヨコの両組織を含み、フランスのCGTに近い組織だったのである。では、この型の基本原理、およびそれを崩した力は、いったい何だったのであろうか。その原理と力学を、より正確に探るためには、もう一つ、イギリスと近い関係にあるアメリカの場合をも、観察する必要がある。


第3章:地方的ヨコ組織からの出発―アメリカの場合

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