~労働組合運動の地域的&産業的組織の国際的経験と原理を探る~
1976年
第5章:商工会議所 vs 労働会議所
――イタリアの場合
1.カメラ・デル・ラヴォロ
イタリアには、フランスのブールスとほぼ同じ機能をもつ労働会議所(Camera del Lavoro、カメラ・デル・ラヴォロ、以下カメラ)が発達した。そして、現在も活動している。
カメラは、部屋の原義から出発し、会議所を意味する。定冠詞つきの大文字ではじまるときは、議会である。写真機のカメラも、部屋から箱、暗箱の意味で、同義語である。また、同じカメラでも、カメラ・デル・コメルチオ(Camera del Commercio)は、相手方の商工会議所である。そして、労働会議所の命名そのものが、商工会議所との対決としてなされたものであり、イタリア式の町の広場をはさんで、たがいに向かい合って設置されることもまれではなかった。
商工会議所については、1850年代に設置されはじめたイギリスのChamber of Commerceが、大トレイズ・ユニオンとの各地方における対決のためであった旨をのべたところである。このイギリスのChamberも、カメラと同語源である。奇しくも、イタリアにおいては、資本家側の商工会議所がイギリスに学んで設置され、それに対抗しつつ、フランスに学んだ労働会議所が発していくのである。しかも、この労働会議所、カメラこそは、トレイズ・ユニオンの伝統をもっとも忠実に、現代にまで生かす組織なのである。
2.「ある種の敵意」を乗り越えて
カメラの先駆となるような運動、事務所の設置などの試みは、1872年にも行われている。しかし、本格的なカメラは、フランスのブールス運動の成功に刺激されて、1891年に、ミラノ、トリーノ、ピアチェンツァでつくられ、以後の労働組合運動を形づくった。
1893年には、12のカメラが全国大会を開いて、カメラ連盟をつくった。イタリアにおける全国的結集には、1884年のイタリア勤労者総連合の結成があるが、これはストライキ指導に失敗し、すぐに解散している。それゆえ、カメラ連盟は、成功した点で、はじめてのナショナル・センターであり、事実上、現代にまでつながっているのである。
1898年には、大暴動の発生にともなって、当時25に達していた地方カメラのうち、21が解散させられた。しかし、カメラの再建と結集は急速にすすみ、1902年には71のカメラが、28万4430名を組織していた。[●注23]
●注23:カンデローロ『イタリア労働組合小史』石黒寛・代久二訳、国民文庫、1955
カメラの発展と時を同じくして、タテ組織の産業連盟も、つぎつぎに結成されていた。印刷・書籍・鉄道・金属・国営企業、建設などの産業連盟が、社会党組織と一体になって、独特の組織化をすすめていた。イタリア労働運動は、労働組合の産業組織と政治組織を一緒にした形のファッショという形をとって発達した。ファッショは結集の意味であって、後年この用語をムッソリーニが悪用することになるのだが、当時は、社会党の前身となった。社会党は、1892年に結成され、各種のファッショや労働組合の加盟を受けいれた。たとえば鉄道労働者の組織は、鉄道従業員ファッショと名乗り、社会党の重要な基盤となっていた。
社会党が以上のような形で結成された年は、最初の3つの地方カメラの結成の年と全国カメラ連盟の結成の年との、ちょうど間にはさまっていた。まさに、きびすを接して、というべきところである。当然、下部の段階では、組織合戦となり衝突がおきる。
1901年の全国カメラ連盟大会は、このような衝突を発展的に解消するために、「諸支部を産業別連盟に参加させる」、という方針を決めた。この「諸支部」とは、地方カメラの中に産業ごとにつくられていたもののことである。同じことは、フランスのブールスとCGTの合同に当たっても行われたのであるが、イタリアの場合には、労働組合運動としての全国的合同以前に、カメラの側がこのような組織方針を決めたという経過であり、複雑な実情をしのばせる。
しかも、カンデローロによれば、この方針をきめた時すでにカメラのなかに、産業連盟の側に対する「ある種の敵意」が生まれていたというのである。
だが、このような組織方針上の事情をのりこえて、1902年には、タテ・ヨコを合わせた全国結集を目指して、中央抵抗書記局がつくられた。この年には、フランスでも、ブールス連盟がCGTに加盟しているから、全国的結集体の統一は、ひとつの国際的傾向であったといえる。
3.毎日のような紛争
1905年には、合同の大会が開かれたが、主導権は改良主義的な保守派に握られており、カメラは、「その産業支部を産業連盟に参加させる義務」を課せられた。すなわち、すでに1901年にカメラ連盟がみずから決定した方針が、4年たっても実現(されておらず、逆に産業連盟の保守派から「義務」として催促されだしたのである。
1906年には、労働総同盟(CGL)が結成された。その規約第2条には、「全国的な産業連盟および地方的な労働会議所に参加しているすべての組織によって構成される」という組織方針が盛られていた。
これらの時期を通じて、不幸な主導権争いがくりかえされた。政治的背景としては、産業連盟の側が、トレイド・ユニオニズムとよばれるイギリス流の改良派社会党で、多数派であり、カメラ連盟の側が、サンディカリストと左翼的な社会主義者からなる少数派であった。
産業連盟の幹部は、カメラの産業支部を支配下にくみこみ、それまではカメラの幹部が行ってきた労働組合の機能をみずから代わって遂行しようとした。最も重要な機能は、当然、賃金交渉であった。そして、産業連盟の幹部の中には、カメラを「単なる地方調整機関にかえていこうとする傾向」が生まれた。カンデローロは、この間の状況を、「両者の権限をめぐって紛争が毎日のようにおこった」と要約している。カンデローロは、「産業連盟主義者と労働会議所主義者の論争」という表現もつかっており、組織問題と政治的党派問題を合わせもった紛争は、大変に根深いものだったようである。
4.下部大衆との結合
しかし、ひるがえってみるならば、同様の紛争は、すべての国の労働組合運動が経験したことなのである。イタリアの明るい太陽の下で、はじめて表面的な論争になり、公刊文書に記されたことが、たとえば1895年のイギリスでは、議事運営の技巧にかくされた陰謀として、テーブルの下で進んだのであった。
カンデローロは、その際、カメラの組織形態にふれ、それがイタリア固有の大所有地の農業労働者を組織しており、「さらに未熟練の、したがってもっともはげしい圧迫と搾取をうけている勤労者層の利益の重要性をとりわけ痛切に感じとっていた」という点に注目している。
1889年に創立された第2インターナショナルの右傾化、ヨーロッパ全土をおおう改良主義の潮流の中で、下部大衆とより密接に結びついた勢力は、カメラの壁のうちに、その階級的執念をねりこめていったのである。
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