『煉獄のパスワード』(5-5)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第五章 アヘン窟の末裔 5

 葬儀は最高裁葬であった。弓畠耕一は長官在職中に死亡したからである。

 青山葬祭場で正午から行われたる告別式を控えて、午前中からすでに千人を超える会葬者が詰めかけ、会場の外に溢れでていた。会場内の椅子席は補助席を含めて三百しか設置できない。会場内と廊下に、それぞれ四百人ぐらいは立ち並ぶ余地がある。椅子席の真中には右に遺族席と友人知人席、左に法曹関係者席と政府関係者席の立札があり、その周辺だけは着席者が密集していたが、まわりはまだまばらだった。理由は明らかで、スピーカーの低い声が何度もこう訴えているからであった。

「椅子席が少ないので、高齢者と身体の御不自由な方、ご婦人におゆずり下さい」

 智樹は前日の《お庭番》チームの打合わせ通りに、定刻一時間前の十一時に会場に着いた。記帳を済ませるとすぐに会場に入り、椅子席の右横の壁を背にして立っていた。入場者が増えるに従って目立たぬようにジリジリと前方に進んだ。椅子席に座る最高裁などの法曹関係者や高齢者、つまりは各界のボス連中の顔が良く見えるような位置を選んだのである。小山田警視は智樹の斜め後ろに、絹川特捜検事は向い側に、同じように位置を選んで立っていた。絹川には法務省の若手が椅子席に座るようにと勧めにきたが、絹川は丁重に断っていた。秩父冴子審議官はロングドレス風の粋な喪服を上手に着こなして、法務省関係者の案内役を買って出ていた。

「ミズ法務省は喪服も良く似合いますね」

 小山田が智樹に近寄って耳元にささやいた。智樹は黙ってうなずいた。智樹も同じことを考えていたところであった。なにか軽口を返そうとした時、入口の人波が揺れた。智樹の目も小山田の目も、向い側の絹川の目も、そこに引き付けられた。陣谷弁護士が黒紋付の羽織袴という出で立ちの老人を、いかにも畏まって案内してきたのである。老人の特徴は衣服だけではなかった。長く後ろに垂らした総髪と口ひげは真白。わずかにねずみ色が混じる眉毛は庇のように伸びている。見るからに相当な高齢である。しかし、背筋を真直ぐに伸ばしたままで腹を突き出し、一歩一歩、タンク型の小肥りな躰を前に進めていた。眼光には山猫を思わせる鋭さがあった。

「何者ですかね」と智樹。

「知りませんが」と小山田。

 老人が着席したのは友人知人席の最前列中央通路側であった。

 それまでその席に座っていた白髪の律義な感じの男は、あらかじめ席を確保する役だったらしく、陣谷が肩に手を触れるとすぐに立って席を譲った。老人の着席で周囲が低くざわめく有様を、智樹は素早く見回した。大多数は老人と顔見知りではない様子だった。何人かは老人の出現に愕然とした面持ちを隠し切れずにいた。怪訝な表情もあった。反応の速度は各人各様だった。

 顕著な反応を示した何人かの中に、智樹が自分の父親のかっての同僚として知っている元軍人が二人いた。

 二人とも友人知人席に座っていた。この二人の他にも元軍人の雰囲気を漂わせる高齢の男達が十人程、その前後左右に固まっていた。彼等と弓畠耕一との関係は、間違いなしに関東軍か北支那派遣軍、張家口の軍司令部での戦友である。智樹はすでに自分の父親の葬儀で同じ体験をしていた。張家口駐屯軍の戦友会があって、冠婚葬祭の折に依頼すれば即座に連絡が届くのである。事務作業は葬祭社に全て任しており、戦友会の会費で連絡費用の予算が組まれていた。葬儀だから、おそらく全員に連絡したのであろう。

 最初に目に入ったのは元防衛研修所長の立泉匡敏である。

 先に席に着いていた立泉は、智樹の姿を認めて静かにうなずいた。智樹も丁重に頭を下げた。あとで挨拶をしなければと思っていた。

 立泉は蒙疆当時、駐屯軍司令官の参謀で元小佐だった。

 戦後は自衛隊で陸将となり、防衛研修所長を最後に十数年前に退官。退官後もクラウゼヴィッツの戦争論やリデル・ハートの戦略論を孫子や日本の兵学と比較したり、それらを経営戦略に活かす著述活動を続けている。最近は、近代政治学の祖とされるマキャヴェリの『政略論』や『戦術論』にさかのぼる軍事学の古典思想に注意を促すなど、理論研究への衰えぬ意欲を見せている。立泉は老人をジッと見詰めた。始めはいぶしげであったが、次第に驚きがつのるといった表情を見せた。首を何度も縦横に振り、全身をかすかに揺らせていた。遠い記憶を辿って老人の正体を思い出し、その意外さに驚きがふくれあがるという風情であった。

 もう一人は、当時の張家口駐屯軍司令官の副官だった元中尉、角村丙助である。

 この顔を見るのが智樹には苦痛であった。想い出したくない人物の筆頭格だった。

 角村は自衛隊で陸将となり、陸上幕僚長を最後に十年程前に退官した。天下り先が兵器生産の比重を高めつつある五島重工業だったことが世間の評判となった。常務取締役で入社し、いまも同社の相談役の地位にある。角村は老人の姿が目に入るや否や、全身に電撃ショックを加えられたかのような驚き振りを見せた。智樹は、その目の動きが一瞬の驚きから立直ると、直ちに困惑に変わったと感じた。老人の正体を良く知っているが、この場に老人が現れることには賛成できない、自分の立場がない、という感じである。

 

 絹川特捜検事は法曹関係者席に目を配っていた。

 怪しい老人が出現した時、法曹関係者席にも激しい驚きから強い非難への変化を見せた人物がいた。清倉誠吾であった。元関東軍司令部法務官、元検事総長、元法務大臣、現憲政党幹事長、その清倉を驚かせ、出現を非難させる人物とは、一体何者なのであろうか。また、非難は本人だけに向けられたものだろうか。それとも誰か他のものにも向けられたものであろうか。答えの一端は、その場でも得られた。清倉の非難の目は先ず、老人を案内してきた陣谷弁護士に向けられていたのである。陣谷はその視線を感じて軽く会釈を返していた。清倉の視線の強さに抗し切れず、慌てて詫びる風情であった。

 

 小山田警視も清倉の強い反応に気付いた。

 だがその時に小山田の目を引き付けたのは別の二人の人物であった。老人を案内する陣谷の後を追うように、大日本新聞社社長の正田竹造が入ってきたのである。正田の秘書らしい中年男が間に挟まっていた。その中年男は老人の後ろの列に空きを見付けると恭しく手を泳がせて正田に着席を促した。さらにその時、正田を目で追いながら入ってきたのが、長崎一雄記者であった。向かい側の壁沿いに長崎が前に割込んでいく有様を見て、小山田はつい舌打ちをしてしまった。

〈死体の正体に気付いたのかな、あのブン屋は。あの時も確か、仏は見たような顔だと抜かしやがったが〉

 小山田は額を掌でこすった。涼しいのに汗がにじみ出していた。冷たい汗であった。弓畠耕一の本当の死因を知っているものは、この会場に何人もいない。その事実を改めて思い起こすと、やはり胃袋が縮み上がってくるのだった。

 

 受付の側にいた冴子は、怪老人が車から降りる時の有様を目撃した。

 黒塗りの同じ型のパンパス・プラフィティアが三台つながってきた。三台とも屋根の額と後頭部に当たる部分に金色の菊の紋が張られ、車体の横には白地に金のふちどり文字で《興亜協和塾》と書いてあった。車が止まると、先ず前後の二台から四名づつ計八名の黒いダブルを着込んだ屈強な若者がパッと飛び降り、SPよろしく周囲を固めた。

 

 次に真中の車の助手席に座っていた黒ダブル、黒いサングラス、細身で長身の壮年男がユックリと周囲を見回しながら降り立ち、後ろのドアを丁寧に開けた。最敬礼で老人の下車を迎える。

 そこへ歩み寄ったのが、陣谷弁護士と大日本新聞社の正田社長であった。陣谷と正田の二人の態度は、明らかに老人の到着を待ち構えていたもののそれであった。陣谷は黒いサングラスの壮年男に声を掛けた。陣谷が老人の案内を引き継いだのであろう。黒ダブルの計八名は無言のまま別れて会場内に消えた。会葬者に混じって老人の警護を続ける様子である。

 サングラスの男は静かに身を引き、黒塗りパンパスの車内に姿を隠した。

 老人が記帳を終えると冴子はさりげなく、読み取り難い達筆の名前を盗み見た。久能松次郎と読めた。

 

 もう一人、未知の弔問客が冴子の目を引いていた。

 第一級の美人だった。シックなドレス風の喪服。黒い帽子。そして、なによりもその帽子から垂れ下がる黒い網目のベールで覆われた卵型の整った顔。まだ三十前後と見受けられる見事なプロポーションの躰。……だが、いささか釣合わぬのが厚化粧と、ことさらに伏目の無表情振りであった。葬式の場だから不思議とはいえないものの、なぜか仮面のように思える顔の動き、いや、あまりに動かない顔付きが冴子の心に残った。

 冴子は原口華枝と一度も会ったことがなかった。智樹の口から何度かその名前と仕事振りを聞き、強い関心を抱いてはいたのだが。……もし一度でも会っていれば、女同士のことである。華枝の偽装をすぐに見抜いたことであろう。

 華枝は智樹から、今度の事件は危険だから外での調査はしないでくれといわれ、仕方なしに了承していた。だが、新聞で弓畠耕一の死と告別式の日程を知ると、途端に気分が変わってしまった。どうしても葬儀の現場を見たくなったのである。

 黒い網目のベール、厚化粧、伏目の無表情は、智樹に気付かれないための、精一杯の工夫なのであった。

 

 大日本新聞の長崎一雄記者は、始めは目立たないように心掛けていた。弓畠耕一とは個人的関係もないし、小山田警視との口約束もある。そっと観察して置くだけの積りであった。ところが異様な黒塗りパンパスの一団が着き、その上、自分の社の社長までが現れたのには驚いた。だが、直ぐに閃くものがあった。

〈《満州帰り》か。あの線だな〉

 長崎が思い出したのは、ある先輩が退社してから書いた『情報帝国大日本新聞グループ』の一節であった。そこには長崎が入社して以来、断片的に聞きかじっていた大日本新聞の過去の系譜が詳しく描かれていた。戦後の大日本新聞は時代に先駆けて多角経営に力を入れた。現在のようにラジオとテレビの全国ネットをグループ化するまでには、それなりの苦心の歴史があった。その中に戦後の一時期の仕事として、主に満州から引き揚げてきた芸能人を中心とする芸能連合社の活動があった。

 カイライ政権とはいえ、満州国は現実に十三年間は存在した。それ以前にも大連や旅順を含む関東州の租借と南満州鉄道、略して《満鉄》の付属地支配があり、その歴史は日露戦争にまで遡る。合せれば、日本人が大量に住み着き始めてから四十年は経たのである。最早日本の本土に戻れば根無し草の芸能人は膨大な数であった。

 なかでも桁外れに大きかったのは、満州国政府と満鉄が半額づつ出資して一九三七年に設立した国策会社、満州映画協会であった。敗戦までに八年の歴史を持つ略称《満映》は、まだテレビのない時代、最先端の大衆向け文化宣伝事業であり、超々巨大集団であった。スタジオも東洋一の規模であった。満州全土における映画の輸出入と配給権も一手に握っていた。

 ラディオ放送局も、関東州の大連放送局に始まり、中国側で建設した奉天、現瀋陽とハルビンの二放送局の接収、満州国首都の新京、現長春での放送局の開設があり、いずれも満州国時代には日満合弁の満州電電に所属していた。

 大日本新聞社の先代社長である故正田梅吉は、これらの数多い《満州帰り》を集めて芸能連合社を設立したのである。初期の仕事は主に進駐軍相手の芸能活動であった。だがすぐにミュージックホールや舞台も復活し、やがて民間ラジオからテレヴィへと芸能活動も復興の一路を辿ったのである。

 正田梅吉の息子である竹造は、父親と同じく元内務官僚で警察畑も経験していたが、日中戦争中には興亜院に出向いていた。興亜院は後に大東亜省に吸収されるのだが、その名の示す通り、亜細亜大陸の権益確保のための官庁であり、当初の案では対支院の名称であった。先輩の著書でそういう事実をかじっただけでも、戦後生れで現代史をほとんど知らない長崎はドキドキしてしまったものである。

 長崎はそれ以上の具体的な文献に触れたわけではなかったが、正田竹造が興亜院時代に満州を中心に活動していたことは大日本新聞の古参社員にとっては常識であったから、断片的な噂は流れ続けていた。ただし、口伝てに知るだけのぼんやりとした伝説のような話である。確かなことを知るものは少なく、一種の社内タブー的な知識であった。《満州帰り》の人脈についての噂もそのたぐいで、昔から大日本新聞に出入りする何人かの怪人物について語られるおぼろげな秘話であった。いわく、某々氏の自宅には満州から敗戦直後に飛行機で持ち帰った骨董品がゴロゴロしてるとか、某々氏は元関東軍の特務機関員だったので中国語がペラペラ、今でも北京週報を取り寄せて読んでいる、といったたぐいの話である。

 長崎は今、その《満州帰り》の実物の、しかも超大物の生残りを目の前にしているのだと確信した。車のボディに菊の紋と一緒に金泥でオドロオドロしく描かれた《興亜協和塾》の《興亜》の二文字が、それを証明しているのだ。

〈一寸ゴロが悪い。興亜と協和の二つの言葉を無理にくっつけたみたいだな。興亜は、亜細亜を興すだ。興亜院を知らなくても意味が分るけど、協和ってのはなんだろうか〉

 自分の今までの知識では及びもつかない過去の亡霊に対面する思いであった。

 菊の紋の高級外車もさることながら、乗って来た人物も典型的な過去の亡霊風である。しかもまだ、立派に生きている亡霊なのだ。


(5-6) 第五章 アヘン窟の末裔 6