『煉獄のパスワード』(3-4)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第三章 最新指定キーワード 4

 新宿に着いたのは、もう午後四時過ぎであった。

「長崎さん、新宿なら私に任せて下さい」と浅沼巡査は張切っている。「ここの交番勤務が最初の仕事でしたからね。それと……、大体、あの背広は高級品ではありません。自慢じゃありませんが、安サラリーマンの私らは、こういうことには詳しくなるんです。大新聞の記者は高給取りだから、……長崎さんも仕立てばっかしでしょ」

「うん。まあね」

「下々の取材もしなけりゃ駄目ですよ。クラブ発表だけじゃ真相は分りませんから」

「馬鹿いえ。ちゃんと足で稼ぐ取材もしているよ」

 とはいうものの長崎の旗色は悪い。浅沼はますます調子に乗る。

「メーカーは無名ですね。デパートや安売りの流通センターは、下請けに作らせても、宣伝費を掛けた自分のとこのブランド名を入れさせます。ああいう無名のブランドのままの商品は、この辺りの小さな店にしかぶら下がっていないんですよ」

「浅草橋の問屋街なんてとこにも、結構あるんじゃないかな」

「そうですね。だけど遠いから、まず新宿で調べましょうよ」

「そうか、そうか」

 二人は早速、駅前の横町の洋服店から回り始めた。

 十数軒回って、いささかくたびれた頃に、とうとう、〈シックス・ポインツ〉を置いている店が見付かった。

「ヤッタアーッ……」

 浅沼がすっとんきょうな声を挙げた。店員が面食らっている。

 だが、いざ質問しようという段になると、二人とも言葉に窮した。先の事までは考えていなかったのだ。

「ええと……」と生れて初めて私服で警察手帳を示す浅沼の頭にカアッと血が昇った。ギクシャクする。非番だし、捜査員でもないのだから、後ろめたさもある。「うん。この背広を着た死体が見付かってね、身元を洗ってるんだけど……。あれだよね、背広買った人の名前なんか控えて無いよね」

「そうですね。まず無いですね。うちらはデパートと違って、宅配はしませんしね」

「そうだよね。弱ったな。せっかくメーカーが分ったのに……」

 しかし店長がメーカーと直接取引をしているという。二人はほっとした。まだ先がある。卸し売りのルートが分れば、それでも捜査の地域的範囲を絞ることが出来る。

 もう五時を過ぎたが、仕事をしているだろうか。

 メーカーはアーバン蓮見〔株〕。電話をすると、まだ残業で仕事をしているという。場所は江東区。早速タクシーで飛した。その時いたのは四、五人だが、フル操業で二、三十人位の縫製工場であった。隅っこに事務室がある。

「御免下さい。一寸伺いたい事があるんですが」

 浅沼巡査がミシンの音に負けないように大声を出した。一人だけデスクに向かっていた六十歳前後の男が渋々立上がって出て来て、社長の蓮見だと名乗った。事情を話すと、

「その通りです。うちの製品は、自前のブランドで出す時は小さな店ばかりですから、まず、同じことです。買い手の名前は分りません。卸しのルートだけですね」

「そうですか。やっぱりね」

 浅沼は、がっかりした。ところが、

「ただね……。もしかして、あの分だとすると、役所に控えがあるかもしれない」

「えっ、何ですか。あの分ってのは……」

「いえね。この春に残品を寄附したんですよ。中国から帰ってきた孤児へのプレゼントにね」

「えっ……。それは一寸、詳しく聞かせてくださいよ」

 と今度は長崎記者が身を乗出した。社長は、この話しになると満更でもないらしく、二人を事務所に通した。

「お茶を差上げて……」

 と奥に声を掛ける。

 長崎は聞き役に徹することにした。これは記事になるかもしれなかった。

 オーナー社長の蓮見紘太郎さんは満州生れで、五十五歳。戦後に十一歳の孤児の引揚げ者として日本に帰り、裸一貫から今日を築いた。蓮見社長は、両親に死に別れて命からがら日本にたどりついた身なので、残留孤児の話は他人ごとではない。自分にも、遠い親戚を頼りに洋服店に住込み、辛い思いに耐えてきた経験がある。いっそ一人一人に洋服を新調して励ましてやりたい所だが、繊維不況の昨今、経営は楽ではない。そこで考えたのが、前年の売れ残りの背広の贈呈であった。出来れば、一人一人に金文字のネームを入れてやり、何か記念の文句でも書き加えたい所だった。しかし、そこまでの手間を掛ける余裕はなかった。

 蓮見社長は工場を指差しながら、

「なにしろ、今も残業で追込みの仕事です。それでもなかなかってのが、中小企業の現状ですよ」

「ネームが入っていれば、一発で身元が割れたのに」と浅沼は口走ってから、慌てて謝まった。「すみません。こちらの都合ばかり考えてしまって」

「つまり、背広を贈呈した相手については、役所の担当者でないと分らないということですね」と長崎記者。

「そうです」と蓮見社長。

 中国孤児の問題については、厚生省援護局に中国孤児等対策室が設けられている。関係資料はそこに集中されている。しかし、日曜日であった。

「役所は休みだ。しかし、待て待て……、いい方法があるぞ」と長崎記者がいった。「先ずだね、さっき撮った被害者の写真がある。そしてだ、我が社に戻れば新聞の切抜きファイルがある。新聞写真では不鮮明になっちゃうけど、元の写真そのものも項目別に整理されてる。較べてみて、似ている孤児がいるかどうか。やれるだけやってみよう」

 浅沼は、この長崎の提案を聞いて、ひとまず田浦に報告することにした。

 

 田浦は二人を新宿で降ろしてから、真直ぐ本庁に戻った。

 課長の自宅に電話報告を入れる。口癖の悪たれをブツブツ呟きながら捜査報告書を書き上げる。苦手のコンピュータにも報告書の要点を打込む。記者クラブでの発表用に、コピーを取って広報に渡す。自分でもコピーを読み直してから時計を見ると、昼勤の終了時間が近付いている。あとは、夜勤のデスク当番が来るのを待って、引継ぎをすればよい。

 ところが、帰り支度に掛ろう思って、椅子に座ったまま背伸びをしたところへ、浅沼が現れた。急ぎ足で擦り寄ってくる。顔はあぶらぎって薄汚れ、疲労で窪んだ目がギラギラ輝いている。〈これはヤバイ〉と横を向いて、とぼけようとする所へ、

「先輩、大変なことが分りました。いや、分るかもしれません」

「なんだ、今頃……。おれは、お前の遊びになんざに付き合ってられねえぞ。泊り明けの上に丸一日勤務がやっと終了だ」

「先輩……。先輩に花を持たせようってのに、それはないでしょ」

「花を持たせるだって。へん、花が聞いて呆れるぜ。何が分ったってんだ」

「先ず、あの背広のメーカーが割れました」

「ほう、割れたか。困ったな」

「困ることはないでしょ」

「困るよ。俺はもう今日の報告書を仕上げちまったんだ。明日にしろ。いや、俺は明日は休みだ。今夜のデスクにいえ。……いやいや、お前さんの火遊びにまでは、責任持てねえな。引継ぐわけにもいかねえや」

「そんな……。しかも、大変なことになりそうなんですよ」

「大変……か。本当かね。まあ、しょうがねえな」とついに田浦は座り直した。「かいつまんで要領良く説明してくれよ」

「はい」と浅沼は張り切る。「〈シックス・ポインツ〉のメーカーと直接取引をしている店が見付かって……。メーカーのオーナー社長の蓮見紘太郎さんは満州生れ。戦後に孤児の引揚げ者として日本に帰り、裸一貫から今日を築きました」

「おい、おい。立志伝まで聞く必要はないよ」

「いえ。それがおおありなんで。あの背広、中国残留孤児へのプレゼントのひとつだったのかもしれないんですよ」

「なんだって。それじゃあ、仏は、その、なんだ、中国残留孤児ってことか」

「はい。その可能性があるってことなんです」

「なんてこった。本当なら、このまま帰るわけにはいかないな」

「ああ、やっと真剣に聞いてくれましたね」

「馬鹿、まだ本当かどうか分りゃしないだろ」

「はい。それで今、長崎さんが新聞社に戻って調べているんです」

 と浅沼巡査は隣の椅子を引き寄せて、少し詳しく経過を報告した。しかし田浦は聞き終わると、あっさり結論付けた。

「なんだ。要するに、まだ可能性だけじゃねえか」

「随分冷たい返事ですね。がっかりしちゃいますよ」

「馬鹿。これぐらいでがっかりしていて、刑事が勤まるか。ともかく仕事は明日からだ。写真だけじゃ決め手にならん。厚生省のデータも見せて貰わなけりゃあな」

 そうはいいながらも田浦は、浅沼の話を報告書に書き加えた。

 背広のメーカーの身元と中国残留孤児の可能性について、である。コンピュータにも要点を追加した。丁度現れた泊りのデスクには口頭で、捜査方針の第一として厚生省への照会を引継いだ。


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