《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!
電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5
第四章 NHK《神殿》偽りの歴史 10
日放労よ、どこへ行く
日放労がレッドパージに反対しなかったのは、それが“政治問題”だからという理由だった。そのことの是否は、あえて問わない。
だが、日放労の歴史には、第二組合以来の上部はどうあれ、さきに紹介した第一、第三組合の伝統も生き続けている。一九五二(昭和二十七)年には、総評の戦闘化に反対する“四単産声明”が出されたが、この時の日放労指導部は、四単産への参加について翌年の中央委員会で“独走”の非難を浴び、総辞職せざるをえなかった。近くは、公開をはばかったものの、一九六五年の放送白書『原点からの告発』があり、一九七五年にも『放送白書』が作成されている。
この伝統は、一九八五年に向けて、さらに発展するであろう。一時は若年労働者が大半というエネルギーに支えられ、民放労連の放送運動の方が華々しく見えたが、日放労の地力は、これから発揮されるであろう。そして、ロッキード隠しで、上田哲「議席」体制くずしをあせった勢力は、短慮と私欲のとがめを受けるであろう。
だが、これだけ巨大化し、重要さを増しつづける《機構》については、そこの労働者、労働組合だけに任せておくわけにはいかない。労働組合とは、しょせん受け身の組織であって、日常的には、ある限度以上のことを期待するのは無理なのである。一六五~一六七ページの表(ページ末尾参照)のように、戦後の放送労働者は、多くの解雇事件を闘ってきた。大変な闘いであるし、その闘いの経験の上に、今後のマスコミなり放送の労働運動、文化運動が位置付けられなくてはならないだろう。
しかし、多くの場合、解雇事件を労働組合が正式に取り上げるには至っていないのが現実だ。レッドパージのような政党がらみの大量解雇という事態でもなければ、解雇事件は放送史の類いのなかでさえ、等閑に付され、歴史的に抹殺されかねない。中央舞台の傍目に華やかな事件だけでも山程あるのだから。そして、いわゆる情報洪水時代。商業紙の切抜きだけをつなげても、ひとつの物語が描ける時代なのだからである。
ところが、NHKでも民放でも、職場の一人一人の労働者は、放送史の片隅にも現われない解雇事件に、みずからの不安定なクビのつながり、仕事のほされ方等々を照らし合わせている。そして、その状態こそが、“闇の帝王”の力を及ばしつづける資本の真の支配力の秘密なのだ。レッドパージしかり、何々大争議しかり、そして、突然姿を消してしまう小さな小さなアルバイト契約者の、さみしい笑顔しかり。『知られざる放送』ほかの内部告発が、匿名の著者という形になるのも、その呪縛あればこそのことである。
やがて、それらの暗黒の底から、執念を燃やしつづける解雇当事者《個人》の告発が、部厚いマスコミ支配の壁を食い破りはじめる。公史になく、組合史になく、「『実情は、こんな生ヌルイものではない』と……歯がみする思い」で書かれた『知られざる放送』にさえ盛りこまれなかった“底辺”の弾圧事件の数々が、文字に記録されていく。
その点からいうと、小中陽太郎とその処女作『王国の芸人たち』は、ひとつの典型である。いやむしろ、マスコミ支配逆転の構図の、象徴的かつ法則的な事件の出発点であろう。小中の解雇事件は、NHKの業務で知り合った外国人女優との私的な恋愛を実名で公表したのが、NHKの「名誉を著しく傷つけた」からという理由になっている。のちの後妻とはいえ、秘書を同伴の公費ヨーロッパ旅行をスッパ抜かれた前田会長。「新聞記者のブンザイ」云々の暴言を公務中に発して、受信料不払い激増の功によりNHK《顧問》に迎えられた飯田元広報室長。これらのトップの悪業と較べるまでもなく、“演出家”つまりは芸術家小中の私費旅行や私的愛情関係を、ことさらにとがめるのは行き過ぎである。
だが、そのことはさておき、私事を理由に解雇され、労働組合の支援を受けなかった小中は、『王国の芸人たち』こと、NHKの差別支配にあえぐ音楽家の実態を、裁判所や労働委員会から掘り起こし、より広い世間に持ち出した。そして、日放労にも、契約者や下請関係の労使問題を突きつけた。
そしていま、すでにふれた龍村仁の裁判が、東京地裁で結審となり、判決を待っている。日放労は、この解雇に反対したいきさつもあり、支援決定は出来なかったが、必要な資料提供等の協力はしている。そして、この判決と上田体制の行方次第では、新たな事態の展開を見るかもしれない。龍村の事件がはらむ問題点の数々は、いずれ機会を改めて深くえぐりたいと思っている。ここでは、ひとつの象徴的な出来事と、NHKにおける芸術的ないし社会的な表現の問題だけを指摘しておきたい。
象徴的な出来事と呼んだのは、わたし自身が『キャロル闘争宣言』をはじめて読んで、自分の思い違いとその原因に気付いたことだ。わたしは、というべきか、わたしも、というべきか、ともかく週刊誌で見た断片的な風評に、自分が強く影響されていたのがわかったのである。「オレは京都織の老舗『龍村』の息子だゾ」とか、「黒メガネにヒゲの小野氏、長髪にジーバン姿の龍村サン」といった週刊誌風描写は、まったくのデマなり誇張もいい所だったのだ。しかも、そのデマの出所が、NHK内部だと思われるのである。
ミニコミまで悪用して、個人の良心の抹殺を図るマスコミ企業体。この衆知の事実を改めて思い知らされ、自分も欺された一人だと気付いた時、わたしの血は逆流した。怒りと恥の感情的交錯で、全身が熱くなった。
その龍村仁は、ロックンロール・グループ「キャロル」をドキュメンタリーで取り上げた。それはすでに数養番組班で認められた企画だったのに、その後赴任してきた部長から、「ドキュメンタリーになじまない」という国会答弁風の反対でボツになりかけ、抗議運動を展開。それを見たNHK当局が、音楽番組として一方的に放送してしまうという、いわばハグラカシ。さらに、キャロルのメンバーの一人が失踪するという新事態があり、ATGで自主映画を制作する。
その時、部長は、通常の休暇願いも拒否。NHK当局としても、ATGからの協力要請を拒否した。龍村と協力者の小野は、無給の休職という処置も願い出たが、これさえ拒絶された。しかも、仕事はほされっぱなしである。そこで、龍村と小野は、休暇を取り、欠勤を届け出た。映画『キャロル』は、不眠不休で作られ、ATGの他の映画の約半分の制作日数で完成し、好評を博した。
NHKの解雇理由は、さまざまに動揺の跡を残すが、ともかく、「他の業務に従事した」というヘリクツが根本的なもの。それでは、NHK職員たるもの、対外的な意見発表の場を持てなくなってしまう。現実には、雑誌原稿を書くものもいるし、著書のある有名人もいる。その点の争いは、法廷でもくわしく展開された。NHKは、「原稿を書くのは時間外」だというヘリクツを張りつけたのだが、「最終準備書面」はこう反論を加えている。
「この論理の誤りを、原告龍村は法廷で明快に指摘している。
NHKは、活字の場合は業務をやって時間外に原稿が書けるからそれでいいんだということを言っていると思いますが、これは、たまたま活字メディアの表現の方法と映像のメディアの表現の方法が根本的に違うから生じる、メディアの違いから生じる違いに過ぎない。
例えば『世界を翔ぶ』という本を磯村さんが取材する段階というのはどういうことかと考えますと、彼は、NHKのキャスターとして海外にいろいろ行かれて、NHKの職員の仕事をなさっている。そのなさっている体験の中でいろいろ得た知識、情報みたいなものを頭の中にためておいて、書くという行為だけを時間外のところでやっておられるということになると思う。こういうことが可能なのは、メディアが活字だからで、取材段階では別にキャメラがいるとかフイルムがいるということはない。
映像の場合を考えますと、磯村さんがNHKの業務の途中で取材していられるようなことも、映像の場合は、ただ頭の中で見た場合には映像にならない。具体的にその場所で、キャメラを回わし、フイルムに撮って、録音を取るという行為をしないと取材にならない。その間は、例えばNHKのフイルムや器材を使って外の仕事をとるということは出来ないわけですから、その間ピシッと休みを取って取材をするという形にならざるを得ない。
この違いは、実はメディアの違いからくる方法の違いであって、『片方は時間外にやっているから認めるが、片方は業務をさしおいてやるので認められない』という論理はおかしいと思うわけです(五五・七・二三・龍村調書・一四〇項)」
いずれにしても、休暇を認めず、龍村らの創作欲を阻害しつづけたNHKには、常識的水準でも分がない。そして、龍村側の主張は、最後にこういう断罪にいたるのである。
「本件は、『放送の自由』、『制作労働者の表現の自由』という憲法上の基本権に関する重要な争点を内包し、その審理には六年余の年月を必要としたが、弁論終結直前の本年三月二十三日、経済同友会は、『日本型成熟社会の構築をめざして』と題する提言を発表した(甲第二〇号証の二)。
『モーレツ型から多面型へ』をサブタイトルとするこの提言は、まず、『経済的豊かさと政治的民主化、一応の文化水準に達したわが国が先進国病に陥り、活力を失って社会の硬直化や停滞を招かないよう配慮することの必要』を指摘する。そのためには、『人々の活力を維持し、能力と意欲を十分に発揮させるために企業と個人の関係について新たな観点から考える』べきであり、『これまで個人は生活の大半を企業活動に投入し、その結果が非個性化の傾向を生んでいるが、社会の成熟化と共に人間的豊かさや精神的安定を求め企業外の生活にも目を向けつつあり、企業も対応できる条件整備が必要』であるという。
そして、右提言は、『企業の新たな対応の結果、個人は幅の広い視野や柔軟性を持って新たな意欲と活力を発揮する一方、企業にとっては企業活動自体の活力維持を可能とし、さらに企業の存在意義と社会との調和を一段と高める』と結論づけている(朝日新聞記事・甲第二〇号証の一)。
労働訴訟において、労働者側が、日本を代表する経営者団体からの『提言』を有利な証拠として援用するのは異例のことであり、原則論的な立場からの非難を受ける余地すらあるだろう。
しかし、われわれがあえて右の『提言』に触れるのは、『業務遂行能力をNHKを差し置いて他の企業に提供する』、『業務を遂行する能力はまずNHK内部で発揮すべきもの』、『本来の職務を軽視する風潮を醸成』等のNHKの主張が、高度な憲法レベルで論ずるまでもなく、現在のわが国の経営者の発想水準にすら達せず、経営者団体からの失笑を買うほどの硬直な労働契約観を反映するものであることを、最後に強調したいからである。
労働者を企業内に閉じ込め、その精神的・文化的要求を問答無用とばかり切り捨てることができた時代は、すでに過去のものなのである」
いま、まさに裁かれようとしているのは、NHKの、NHK職員に対する閉鎖的支配である。
だが、わたしは、さらに付け加えたい。NHKがその終身雇用制の職員に、いわば門外不出の純血性を求めるという現状の対極には、外部からの演出家や言論人を迎え入れようとしない《電波独占》体制があるということだ。「負担金」の虚構とは裏腹に、外部の人間はタレントとしてしか画面にも音にも出さぬという、電波の権力支配があるという歴史的事実だ。天皇を敬々しく登場させ、権力者にこびへつらうよう仕込まれた今様「宦官」にしか、電波を使わせまいとする権力の意志が、いま問題にされなければならないのである。
それは、NHKだけの問題ではない。しかし、とりわけNHKの「宦官」ぶりが目立つし、それを評価してくれたのが、なんと、時の日本国首相であったのだ。
(5-0)第五章 NHK《宮廷》の華麗なる陰謀を撃つ
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