偽ユダヤ人カザール(Khazar・ハザール)問題
2006.5.10(2019.5.31分離)
http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/923.html
シオニストは国際的孤立を自覚しカザール(ハザル)の歴史を継げ!
「聖都の守護者」を意味する「ナトレイ・カルタ」と呼ばれるユダヤ人の超正統派は、現在のイスラエルを「シオニスト国家」と呼び、その解体を求めている。この声を大きくすることが、目下の急務である。
拙著『アウシュヴィッツの争点』の横帯には、「ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために」とある。
ところが、この悲劇は、実に奥深いのである。シオニストの中心は、本来のユダヤ人ではなくて、ユダヤ教に改宗したカザール(ハザル)人なのである。
イランの大統領は、ホロコーストを「神話」と呼び、イスラエルを地図から抹殺せよと求めた。
しかし、深く考えると、何百万人の元・カザール(ハザル)人を、抹殺することは不可能である。
それならば、パレスチナ紛争の解決の道は、どこにあるのか。
6日前の5月4日には、「ユダヤ人カガノビチと共産主義ロシア革命の深層」を論じた。
いわゆるユダヤ人問題は、実は、カザール(ハザル)問題なのである。
湾岸戦争以来、ユダヤ人問題を追求してきたが、今や、いわゆるユダヤ人の9割の元・カザール(ハザル)人の歴史的な宿命に、哀れを催すに至った。
カザール(ハザル)帝国の故地、クリミア半島、カスピ海周辺に、カザール(ハザル)の歴史博物館を築き、民族の歴史を継承することが、最高の解決の道である。ウクライナ、ロシアには、今も、何百万のユダヤ人がいる。すべて元・カザール(ハザル)人なのである。
日本列島の歴史で考えれば、「アイヌ」あり、「琉球」あり、大和朝廷に先行した「九州王朝」ありで、それぞれの歴史を、互いに共有することで、日本人全体の融和が達成される。
5月4日には、「いわゆるユダヤ人の主流がカザールであると指摘するのは、命に関わること」として、以下の拙著の抜粋を紹介した。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-23.html
『偽イスラエル政治神話』
2章:20世紀の諸神話
4節:"民なき土地に土地なき民を"の神話
[中略]
[英植民相暗殺のテロリストを“英雄廟”に埋葬]
[中略]
カイロ駐在のイギリス植民地担当国務大臣だったモイン卿は、一九四二年六月九日、貴族院で、「ユダヤ人は古代ヘブライ人の子孫ではない[訳注1]から、聖なる土地の“正統な領土回復要求権”を持っていない」と言明した。パレスチナへのユダヤ人の移民を抑制する政策の賛成者だった彼は、《ヘブライ人の独立に対する執念深い敵》として非難の的となった(アイザック・ザール『救助と解放/イスラエル誕生にアメリカが果たした役割』54)。
一九四四年一一月六日、カイロにいたモイン卿は、イツァク・シャミール[のちのイスラエル首相]指揮下のシャミール集団のメンバー、二人によって射殺された[犯人二人はアラブ側に逮捕され、処刑された]。
その後、二〇余年を経て、オークランドの『イヴニング・スター』紙の一九七五年七月二日に掲載された記事によると、処刑された二人の死体をエルサレムの“英雄廟”に埋葬するために、二〇人のアラブ人の捕虜との交換が行われていた。イスラエルが暗殺者を褒めたたえ、英雄扱いしたことを知って、イギリス政府は慨嘆した。
訳注1:いわゆるユダヤ人、またはユダヤ教徒の約九割は、モイン卿の発言の通り、「古代ヘブライ人の子孫ではない」。ユダヤ教を採用したカザール帝国の末裔とその係累である。タタール系の民族を中心とするカザール帝国は、七世紀から一〇世紀に掛けて南ロシア周辺で栄え、その後に滅び、住民は離散した。巻末の「訳者解説」で資料等を紹介する。
カザール(ハザル)の歴史に関する本は、以下のように、すでに存在する。
『ユダヤ人とは誰か/第十三支族・カザール王国の謎』(アーサー・ケストラー著、宇野正美訳、三交社、1990)
『ハザール 謎の帝国』(S.A. プリェートニェヴァ 著)、城田俊(翻訳、1996、 新潮社)
以下は、平凡社『世界大百科事典』の項目である。
平凡社『世界大百科事典』「ハザルぞく」
ハザル族、Khazar
6~9世紀を中心に南ロシア草原で活動した、おそらくアルタイ系(中でもトルコ系)の遊牧民族。少なくとも6世紀半ば以降、西突厥の宗主権下に南ロシア草原に明確に姿を現し、7世紀前半にはビザンティン帝国と同盟してササン朝ペルシア帝国と争い、7世紀半ば、西突厥が衰えると独立して「ハザル・カガン国」を形成した。
ブルガル・オイグル部族連合を破って、南ロシア草原の覇権を握り、642年以降はカフカス地帯の領有を巡って新興のアラブと対立。また、7世紀後半までに南西のクリミア半島の大半を領有した。8世紀に入ってもアラブ軍との戦いを続けたが、737年、後ウマイア朝カリフ、マルワーン2世に率いられたアラブ軍がハザル地域奥深く侵入して勝利を得ると、「ハザル・カガン国」は一時的にイスラムを受容しウマイア朝カリフの宗主権を認めた。
しかし、ほどなくカリフの宗主権下を脱し、再びアラブと争ったが、9世紀になると戦いもやみ、ボルガ下流域の首都アティル(イティル)は国際貿易の中心地として栄え、ムスリム商人でこの地に移住する者も多く、ハザル人の中にはイスラムに改宗する者も増加した。ただし、カガンをはじめとする王族は9世紀のはじめにユダヤ教に改宗した。
[中略]
アラブはカスピ海を「ハザルの海」と呼んだ。
シオニストのユダヤ人国家建設は、その出発点から、多くのユダヤ人の反対の声を押し切った暴挙だったのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-6.html
『偽イスラエル政治神話』
「著者はしがき」より。
政治的で、国家主義的で、植民地主義的な教義、これらが、一八九七年秋のバーゼル会議で採択された政治的シオニズムを定義する三つの特徴である。天才的でマキャヴェリ的な創設者としてのテオドール・ヘルツルは、この会議の終了に当たり、十分な根拠を持って、《私はユダヤ人国家を創設した》(前出『回想録』)と語ることができた。
半世紀を経て、第二次世界大戦の直後、実際に彼の弟子たちが彼の政策を忠実に実行し、彼の方法と彼の政策の路線に従って、イスラエル国家を創建した。
しかし、この国家主義的かつ植民地主義的な政治的計画は、いかなる意味でもユダヤ人の信仰や精神の延長線上にはなかった。
シオニストの会議がバーゼルで開かれたのは、(ヘルツルが予定した)ミュンヘンでの開催にドイツのユダヤ人団体が反対したためだったし、同時期(一八九七年)に別のユダヤ人団体がカナダでモントリオール協議会を開いていた。そちらでは、当時のアメリカ大陸におけるユダヤ人の中で最も代表的な人物、アイザック・メイヤー・ワイズ法師の提案によって、シオニズムによる旧約聖書の政治的かつ部族的な解釈に根本的に反対し、精神的かつ普遍救済的な予言者の解釈を擁護する動議が可決されていた。
それにはこうある。
《われわれは、ユダヤ人国家の創設を企むいかなる提案にもすべて同意しない。この種の試みは明らかに、イスラエルの使命についての間違った考え方に起因している。……ユダヤの予言者は第一に、こう説いている。……ユダヤ教の目的は政治的なものでも国家的なものでもなくて、精神的なものであることを確認する。……ユダヤ教が目指しているのは、地上に神の王国を築くために、すべての人々が、まったく一体の偉大な共同体への参加を承認する救世主の時代の実現である》(『アメリカ法師中央協議会年度報告』)
このような最初の反応の声が、“ドイツ法師協会”にはじまり、“フランス普遍救済イスラエル同盟”、オーストリアの“イスラエル同盟”、同じくユダヤ人ロンドン協会に至るまでのユダヤ人組織から、一斉に挙がった。
このような政治的シオニズムへの反対の声は、ユダヤ教の精神への愛着から発しており、第二次世界大戦以後もその発言が止むことはなかったが、イスラエル・シオニズムは、国連において様々な局面での各国間の敵対関係を利用し、なかんずくアメリカの無条件な支持を得て、支配的な勢力として他を威圧することに成功し、ロビーの力によって局面を逆転させ、世論においても予言者の立派な伝統に対抗して、イスラエル・シオニストの優勢を勝ち取った。しかし、それでもなお、偉大な精神に満ちた人々の批判の封殺は達成できなかった。