編集長の辛口時評 2006年9月 から分離

偽ユダヤ人カザール問題の解決法(6)

偽ユダヤ人カザール(Khazar・ハザール)問題

2006.9.5(2019.5.31分離)

http://asyura2.com/0601/holocaust3/msg/430.html
偽ユダヤ人カザール問題の解決法(6)

 カザールの故地は、クリミア半島からカスピ海の周辺である。

 ところが、シオニズムの創始者、ヘルツルは、自らもカザールの出身でありながら、以下の『偽イスラエル政治神話』「著者はしがき-2.総論」のように、政治的な理由により、パレスチナにおけるユダヤ人国家建設を選んだのである。

 《政治的シオニズムの創始者、ヘルツルは、いかなる宗派に属すると主張したこともなく、『回想録』には、《私は宗教的衝動に従うことはない》《私は不可知論者である》(同前)と記している。

 彼は聖地に特別な関心を抱かなかった。彼は、国家主義を実現する目的地として、ウガンダ、トリポリ、キプロス、アルゼンチン、モザンビーク、コンゴの、どこでも同じく受入れようとしていた(同前)。しかし、ユダヤ教徒の友人の反対に直面し、彼が「力強い伝説」(mighty legend)(同前)と呼んだものが、《逆らい難い力を持つ同志糾合の号令となっている》(『ユダヤ人国家』)ことを認めた。

 この動員力のあるスローガンは、すぐれて現実主義的な政治家である彼にとって、見逃せないものだった。彼は、この「復古的」な「力強い伝説」を歴史の現実に置き換えようと宣言し、こうも語った。

《パレスチナは我々の忘れ難い歴史の一部である。……この地名のみが我々の仲間にとっての力強い同志糾合の号令になり得る》(同前)》(了)

 しかし、パレスチナにはアラブ人がいた。ユダヤ人国家建設は、実質的な侵略戦争となった。この重大な「ねじれ」が、現在にまで至るパレスチナとイスラエルの紛争の出発点である。この「無理押し」を、国連のパレスチナ分割決議によって押し通すために、ホロコースト神話が使われたのである。

 嘘の神話による「無理押し」の建国よりも、歴史的な事実に基づく「やり直し」を推奨する。

 以下は、現在の「ウクライナ政府観光通商センター案内」の宣伝文句である。


http://www.unttc.co.jp/Crimea.html
クリミア半島はウクライナの中の自治共和国である。クリミアの南部の気候は亜熱帯気候なので、他のウクライナの地方に比べると暖かい。また黒海に囲まれて、リゾート地として有名である。19世紀の半ばごろにはクリミア半島の暖かい天気やきれいな空気と景色に感動した当時ロシア皇帝であるアレクサンドル1世)は初めて夏公邸としてクリミアで別荘を買ってきた。その後皇帝に習い、皇帝の身近な貴族がクリミア半島で別荘土地を買ってきて、立派な宮殿が次々とあらわれてきた。皇帝や貴族が夏・秋をクリミアで過していた。空気もとてもきれいで、薬草がたくさんあるので、当時はそれを使った治療方法が生じた。

クリミア半島の南部は古くギリシアの植民地が栄え、北の方にはスキタイ以来の遊牧民が住んでいた。13世紀まではクリミア半島はタヴリカと呼ばれていた。1223年にタタル軍がタヴリカ半島に侵略し、15世紀にクリミア半島ではクリミア汗国が創立された。しかし、1475年にトルコ軍がクリミアに侵略した結果、クリミア汗国が独立を失った。15世紀の終わりごろに、ヨーロッパとアジアの間の貿易関係がエジプトを通じて行われ始め、黒海が国際貿易地域としての役割を失った。

1783年にロシア帝国がトルコとの戦争に勝利し、クリミアはロシア帝国の一部になった。しかし、トルコが黒海地域の権威を失いたくなかったため、もう1つの戦争を計画し始めた。それが分った当時のロシア女王であるエカチェリーナ2世がクリミア半島への旅行に旅立った。その旅の理由は、ロシアの力を見せるだけではなく、豪華な旅を隠れみのにして、ロシア軍の部隊を配置換えることだった。エカチェリーナ2世のために町や宮殿などが早く建てられ始めた。クリミアの美しさに感動したエカチェリーナ2世がクリミア半島を ロシア帝国の王冠の真珠 と名付けたようだ。しかし、当時はクリミアの人口が少なく、道路がほとんどなかったため、発展させるのに努力が必要だった。

ロマノフ王朝の中始めてクリミアで別荘を作ったのはアレクサンドル1世であった。クリミア半島の旅行の時に、オレアンダという地方が非常に気に入って、そこで土地を買った。彼がなくなった後、その別荘はニコライ1世の財産になった。1860年にニコライ2世がリバーディアリバーディアという別荘を買ってきて、その別荘があった地域が段々発展してきた。19世紀~20世紀の始め頃にクリミアの南部にはヤルタ会談が行われたリバーディア宮殿だけでなく、現在クリミアの名所である立派な宮殿が次々と建築された。それと同時に転地治療が研究されていて、きれいな空気、薬草などで恵まれたクリミア半島が貴族のリゾート地になった。

1917年12月--1918年1月にクリミア半島にソビエト政権が樹立された。1919年からクリミアの保養地が国有化され始め、以前貴族の財産であった宮殿の中では一般人ためのサナトリウムが作られた。

1941年11月から1944年4月までクリミア半島ではドイツ軍との戦争が続いていた。

1954年にクリミア半島はロシア共和国の中に入っていましたが、1954年2月にソ連邦最高会議幹部会令によってウクライナ共和国の一部になった。段々工場などが建築され、農業、ぶどう栽培などが発展していた。

1991年8月27日にウクライナが独立国になって、クリミアは独立したウクライナの一部になったが、1991年9月4日にクリミア最高議会が「クリミアの主権宣伝」を採択した。

クリミア自治共和国の憲法により、ウクライナ国の公用語であるウクライナ語だけではなく、ロシア語も公用語になっている。

ソ連邦の体制が破壊された後、その中の全部の共和国に経済問題、政治問題などが生じて、現在も政治的・経済的に安定してないところがある。クリミア自治共和国も色々と混乱しているが、段々復活している姿を見せている。