第四章 ―「暗雲」 7
―内務省高級官僚たちの新聞界乗りこみ大作戦―
電網木村書店 Web無料公開 2008.5.27
維新の元勲たちの伝統
清浦奎吾(一八五〇-一九四二)、伯爵、一九四一(昭和一六)年の東条英機を首相に推す重臣会議への出席が、最後の政治活動として記録されている。
この清浦奎吾が、虎の門事件で引責総辞職した山本権兵衛のあとをつぎ、一九二四(大正一三)年一月七日から六月二日まで、わずか一五七日間の短命内閣を組織した。その間に、正力松太郎の読売新聞乗りこみが果され、しかも、正力の、のちになっての自慢話によると、郷社長=正力専務という体制で、民間のラジオ放送株式会社が発足しかけたというのである。
『百年史』もいう。
「正力は後藤新平伯を動かし、財界を味方にして、後藤から当時の逓信大臣藤村義朗をくどいてもらった。時の政府、清浦奎吾内閣も『もし正力の力で、有力な競願五社を統一できるなら免許を考えよう……』というところまで折れてきた」(同書八八六頁)
だが、認可直前に、清浦内閣はたおれ、翌年には、公益法人の東京・名古屋・大阪放送局の設立、翌々年にNHKへ統一、という経過をたどる。この間の動きは、大変にあわただしいのである。
清浦内閣は、“貴族院”内閣ともよばれ、政党政治に逆行する反動内閣として、新聞界挙げての倒閣運動さえ起きていた。
清浦その人は、歴史上の人物としては、さほど有名ではない。しかし、それだけにかえって、明治・大正期の内務省行政の化身そのものの観がある人物なのである。政治的には、元老山県有朋の直系政治家とされ、行政的には、山県が確立した陸軍・内務・司法の三分野のうち、内務・司法をひきつぐ人物と評価されてきた。また、天皇の最高諮問機関たる枢密院議長の地位も、山県の死後、受けついでいる。それまでも枢密院副議長であった。
弾圧関係では、警保局長当時、保安条例の緊急発令にかかわり、司法相としては治安警察法制定を推進している。もともと司法省で役人生活にはいり、検事となり、ついで内務省警保局長、司法相、内相兼農商務相、枢密顧問官という経歴だから、戦前の警察と司法の一体の関係を、一身で表わしたような人物でもある。
『明治法制史』という著書も、一八九九(明治三二)年に著わしている。出身は仏門で、儒学者として世に出ている。
いわば、元老山県有朋の陰の人物ともいうベき清浦が、大正期の政界で二度までも組閣を命ぜられたのは、ひとつの象徴的事件といえよう。一度目は、海相がえられず流産し、清浦流産内閣などといわれた。これが一九一四(大正二)年、シーメンス汚職事件で、海軍の山本権兵衛内閣が総辞職したあとのことである。二度目が、また山本権兵衛第二次内閣のあとで、虎の門事件による総辞職のあとを受け、さきにふれたとおり一五七日の短命内閣であった。
しかし、短命といえば、大正年間には、安定政権はほとんどない。一四年ほどの間に、一一の内閣で、三年以上におよぶのは暗殺された原敬のみ、二年以上は大隈重信、二年弱が寺内内閣だが、大戦、シベリア出兵、米騒動と、動乱つづきであった。
こういう動乱期、しかも、人心ゆれ動く中で、資本主義社会の真の支配者たる財界の大立物たちは、なにを考えていたのであろうか。
明治維新の元勲、元老が絶対的権力を振った時代、それは藩閥・軍閥・官僚閥の閥族政治として、明治とともに去りつつあった。議会とは名のみで、憲法にも明記されていない元老会議と枢密院が、天皇の顧問という資格で政治の骨格を定めえた時代は、もう終りとなるかにみえた。新しい支配体制を求めなければならない時であった。そして、その時に、明治の元勲たちの遺志をつぐ最後の人物こそが、清浦奎吾であった。
調べてみると、おどろいたことに、内務大臣のうち、山県有朋、清浦奎吾、後藤新平と、ともに立派な“公吏”的ともいえる伝記が残されているのだが、そのどれにも、徳富蘇峰がかかわっていた。そして、その蘇峰が、正力をおおいに激励するのである。
それはさておき、清浦については、『子爵清浦奎吾伝』と『伯爵清浦奎吾伝』(蘇峰監修)がある。
要点だけを紹介しよう。
保安条例というのは、一八八七(明治二〇)年、自由民権運動の嵐に抗しきれなくなった政府が、秘密裡に弾圧立法を発し、警視庁が芝公園で忘年会を開くという偽装までして、一挙に反対派を検束、市外に追放したものである。その時に清浦の「警保局長としての手腕を要したこともちろんである。異常な場合には、異常な人材を要するのである。彼の得意時代は、こうした騒々しい時代であったのである」(『子爵清浦奎吾伝』一二〇頁)という評価がなされている。
だが、清浦は決して、暴れ者というばかりではなかった。こののち、一八九一(明治二四)年にヨーロッパに遊び、新聞、通信事業を視察し、帰ってから、「東京通信社」を設立している。この時の事情を、本人が語っているのだが、正力の読売新聞乗りこみと合せて読むと、ギクリとする話なのである。
「あの頃までは、まだ新聞の通信社は少なかった。二つ位あったかと記憶する。……(略)……政府の趣旨が誤りつたえられて、政府の不利になることがあるから、一つ通信社をおこして、その弊を除き、正確なる材料を提供したいものだというのが、警保局長としての私の意見であった……(略)……当時警保局でやっていた警官練習所に大分県から選抜入所せしめられていた警部で、五十嵐光彰というのがいて、これが思いのほか、漢学の力もあり、文章も立つというので、あれにやらせたらどうかということになり、五十嵐を辞職させてやらせることにした。もちろん、経費も警保局の方で助けていたし、随分、公平にやっていたが、新聞社側からは、やっぱり御用通信だというような批評もあった」(『伯爵清浦奎吾伝』三八四頁)
そして最後に、本人の講話をまとめた『奎堂夜話』なる著述があり、これが大変なものである。「日本人としての心の鍛練」とか、「国体の本義と思想国防」とかいう題目があって、全編これ、デモクラシーとかマルクス主義、社会主義への悪罵が溢れている。しかし、一応の論理も立てており、意外な柔軟さをみせている点が、かえって恐ろしいのである。
たとえば、「悪思想の流行」に立ち向うための注意として、こういっている。
「さて現代の人は、昔の人とちがって、教育の力により、理智が発達しているから、まず第一に、なにゆえにかくせざるべからざるか、という問題をきわめなければ、首肯しない。落着かぬというような風で、昔の人は忠孝とでもいえば、直ちに服従したものであるが、今日の人はそう容易には承知しない」(同書一四五頁)
こういう人物が、大正の末期から昭和にかけて、明治の元勲たちの富国強兵策の遺業を守り、帝国主義発展に向けていたのである。そして、清浦自身、元勲の教えを積極的にひろめてもいる。
象徴的な部分を紹介しておこう。見出しは「国民思想統一の要」とある。
「山県公は、いうまでもなく、明治の元勲で、文官としても、また武将としても、国家のために、維新以来、非常に力をつくした方である。山県公が、なくなられる前々年であったが、わたしに、最後の書簡をおくられた。それは、絶筆というべきものであるが、これも、この場合参考になると思うから、肝要なところだけをのべてみよう。
『欧洲大戦終了後は、全世界にわたり、物質上、非常な変化をきたすべく、しかして、この競争は、東亜の天地を中心として、襲来いたすべきものと信ずる。また、その競争は、政治上、経済上、直接間接、種々の形式をもってあらわれ、列強、東亜の天地に、覇を争うにあたりては、帝国の地位は、戦後に起るべき大颶風の衝にあたると、覚悟しなければならぬ。この強風怒濤にむかっては、挙国一致、人心を結合して、国家の基礎を、輩固ならしむるの覚悟が、必要である。しかれども、これを実行するは、容易のことではない。実に想うてここにいたれば、帝国の前途は憂慮にたえない次第である。老兄もまた御同感と信ずる。同志とともに、憂国の志士をかたらい、将来ますます帝国の光輝を、発揚せらるること、切望にたえない』(要領)」(同前一三九頁)
ここで何度もでてくる「競争」の論理こそは、正力松太郎警務部長らを通じ、マスコミ界にも注入された毒素であった。この論理のよってきたるところについては、のちに考えたい。
ともかく正力は、一九二六(大正一五)年三月一九日、歌舞伎座を買い切っての「社長就任披露の大祝賀会」をもよおした。そして、若槻首相以下三〇〇〇名の名士の前で、「新聞報国への固い決意を開陳した」(『八十年史』二七六頁)のであるが、なんと、その時の来賓激励あいさつの中には、「新聞協会会長清浦奎吾」(同前一七六頁)の名がみえるのであった。
『伯爵清浦奎吾伝』は、「通信新聞事業に壷力」の項で、この新聞協会会長就任にふれ、こう記している。
「日本の新聞、通信事業が異常の発達をとげた今日において、伯が全国新聞、通信社を網羅し、かしこくも東久邇逝殿下を奉戴して、日本における同業団体の最大組織たる日本新聞協会の会長に就任したことも、決して偶然ではなかった」(同書三八六頁)
新聞協会は、名称も含めて、いくどかの変容をとげたが、清浦会長の下、「新聞報国」という戦争への思想動員にむけて、御用機関、自主規制機関の役割を果すのである。
しかも、新しいマス・メディアたるラジオも、この新聞協会の会員社となっていく。』
そして、やがてはテレビも、……
(第5章1)日本ラジオ前史の陰謀 へ