第四章 ―「暗雲」 4
―内務省高級官僚たちの新聞界乗りこみ大作戦―
電網木村書店 Web無料公開 2008.5.27
“蛮勇を揮った”警部
「とぼけていて油断のならない男――正力さんとは、そんな人らしい。
とにかく、傲慢無礼の冷血漢で、人を人臭いとも思わぬのが、この人の身上だと、入社以来、先輩からくどく聞かされていた」(『大人になれない事件記者』二〇頁)
正力の武勇伝の一部は、すでに紹介もした。それらのなかでも、正力自身の話が、いちばん威勢がいい。
「わたしは当時三三、四歳で鼻息の荒い時でありましたから、前の青年会館の時とは態度を変え、わたしが先頭に立ち六十余名の巡査を一団として、猛然群衆を突破して音楽堂にかけ上り、幹部を突き落し、あるいは検束しました。それは非常な勢いらしかったのです。この原庭警察署は当時から武道が盛んでありましたから、その巡査が、わたしや署長の指揮の下に、薄暗くて顔の見えぬのに乗じ、随分わたしとともに、蛮勇を揮ったものであります」(『悪戦苦闘』二八頁)
これが米騒動鎮圧の一節で、正力自身、「蛮勇を揮った」ことを認めている。柔道や剣道できたえあげた体力で、演説を聞いているだけの群衆に殴りこむのだから、相手は、たまったものではない。
ついで正力は、日本橋で米穀取引所を襲っていた群衆に立ち向う。ここでも突進して中心人物を捕えた時、投石で頭にケガをした。そして、白い服を血で染めながら、アーク灯の下に立って、群衆をにらんだという。この勢いに押されて、群衆は散るのであるが、大宅壮一は、これらの正力戦法を評して、つぎのようにいっている。
「このコツが彼の人生の後半部でも、舞台と扮装こそ異なれ、巧みな自己演出が行なわれて行くのである。これは彼の天性から出ていると共に、ある程度意識的、計画的になされていたらしい」(同前二〇頁)
さらに、「体当り捨身の処世法」については、御手洗が、中学校時代の「体当り打ちこみ剣法」(『伝記』二六頁)の修業に、その影響を求めている。
正力の戦法は、中心人物へのねらいの定め方にあった。そして、話し合いでいくか、体当りの「蛮勇」でいくかは、相手の組織力と思想次第であった。
一九二三(大正一二)年には、六・五第一次共産党検挙があったが、これを指導したのは、官房主事の正力であった。警視庁特高は、中心と目される早稲田大学の教授宅に、スパイを送りこみ、捜査の網をしぼっていった。そして、「特高では、正力を中心に何回も、入念な会議が開かれた。……(略)……ついに正力の一断で捜索と決定、総監や検事局の同意を求めて決行した」(『伝記』一〇四頁)。
この捜索の結果にもとづいて、早大研究室にふみこみ、大検挙となったものである。
また、この年九月一日には、関東大震災が起った。そして、戒厳令下に、朝鮮人、中国人の大量虐殺、大杉栄殺害事件、亀戸の八名虐殺事件が起きている。
いずれも、無抵抗のものを、近衛兵、憲兵、暴徒がうちころしたものであり、正力は、指導責任を問われる地位にあった。正力は、自分の指示ではないと、いろんな形で否定しつづけているが、戒厳令と軍隊の出動に関しては、みずから、「警戒打合せのため司令部に赴き参謀長寺内大佐」(『悪戦苦闘』一三〇頁)と会ったことを認めている。要するに、直接の指示や指揮をとって殺害したのではないにしても、責任をまぬかれる立場ではない。
亀戸事件では、南葛労働組合の指導者河合義虎ら八名が、警察署の中で近衛騎兵に殺されたのであるが、正力は、新聞談話で、つぎのような弁明をしている。
「……実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」(『正力松太郎』三五九頁)
なんと、無抵抗で「留置場」にいれられていたものが「暴行者」となり、それを引き出した警官は許され、しかも、「法に触れて刺殺」と断定されているのである。
また、正力の談話は、軍隊に責任をなすりつけようとしているが、これもおかしい。というのは、当時の制度によれば、警視庁の出兵要請で軍隊が動くのであって、その指揮の責任は警視庁にあった。大杉栄を殺した甘粕大尉は、憲兵隊の所属であったが、この憲兵隊についても、その指揮の責任は警視庁にあり、その上には内務省があった。そして、内務大臣と警視庁のつなぎ役こそは、だれあろう、官房主事たる正力松太郎なのであった。正力自身、官房主事時代をふりかえって、「俺は庁内で非常に重宝がられた」(『悪戦苦闘』二二六頁)と自慢もしているほどである。
一方、正力自身の発言によっても、『伝記』類によっても、この大震災の直後の何日間か、警視庁の庁舎にあって、その指揮の中心にいたのは、正力をおいてないのである。
そして、近衛・第一両師団から関東戒厳司令官への報告では、朝鮮人暴動説の情報は、「市内一般の秩序維持のための○○○の好意的宣伝に出づるもの」(読売新聞社刊『日本の歴史』第一二巻、二八頁)と記録されているという。
「○○○」とは、だれのことか、または、どんな組織のことであろうか。
すでに、くわしい研究もされている。九月二日の午後には、「内務省警保局長出」の電文が、被害をまぬかれた船橋送信所から、全国に打たれはじめている。
典型的な電文をみてみよう。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」(『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』一九頁)
打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長大森良三大尉記録」(同前二一頁)も残されている。“流言”の張本人は、内務省だったのである。
ところが、内務省は、みずからつくりだした“流言”を、さらに逆用した。九月七日には、「治安維持のための緊急勅令」を発し、さらに弾圧を強化した。たとえば報知新聞九月八日付紙面をみると、警察当局の発表として、「流言を絶つべく社会主義者大検挙」という見出しの記事さえある。
正力松太郎警視庁官房主事が、これらの動きに関与していなかったはずはないのである。
だが、正力の本務は、もっと深く、かげの部分にひろがっていた。そして、弾圧の実績もあってか、大変に重用された人物でもあったし、そのことを、本人も晩年まで、おおいに自慢していた。
「警視庁のころ、旅行させてもらえなかったんです。『君に留守にされると困る』……(略)……わたしほど進級の早いのはいません。警部から警務部長になりますね。そのときはだれでも、いったん警視庁を出る。わたしは離れたことがない」(『週刊文春』一九六五年四月一九日号、三二頁)
では、正力が、それほどまでに重用された理由は、どこにあったのだろうか。
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