第三章 ―「過去」 8
―読売新聞のルーツは文学の香りに満ちて―
電網木村書店 Web無料公開 2008.5.2
大正日日新聞の悲劇
それより少し前、当時の日本で最大の新聞、大阪朝日では、御手洗辰雄が、「丸山幹治、花田大五郎など、当時の第一級の記者」(『伝記』一三七頁)と評価する大記者たちが、健筆をふるっていた。
そして、丸山・花田の両名は、「白虹事件」で鳥居素川とともに大阪朝日新聞を追われ、東京朝日新聞退社の宮部敬治らとともに、大正日日新聞の創立にくわわり、その崩壊ののち、読売新聞社に入社し、論説の中心にすわるようになる。ここに、めぐりめぐって、「白虹事件」の残党が、再び大正デモクラシーの精華を、東京において花咲かそうとする気運があったというべきであろう。
大正日日新聞は、このように、大阪朝日新聞を拠点とした記者たちが、読売新聞に移る前の活動の場でもあったが、のちの日本三大紙の競争にも、独特の陰影を落しているので、若干の紹介をしておこう。
大正日日新聞の創刊は、一九一九(大正八)年一一月二五日。「白虹事件」で大阪朝日新聞を退社した鳥居素川が編集局長・主筆となっており、朝日退社組のほかに、青野季吉という読売解雇組さえ加わっていた。のちの社会党委員長、鈴木茂三郎も報知新聞からはせ参じ、経済部記者となったというから、これだけでも大変な人間ドラマの場であった。
出資者は鉄成金の勝本忠兵衛で、二〇〇万円という資本金が朝日の一五〇万円より多いため、「日本一の新聞」を呼号した。勝本は、営業局長も兼ねたが、何分にも新聞販売はしろうとである。素川も、文章にかけては当代屈指の大記者ながら、小切手の使い方さえ満足にしらなかったという。
そういう内部事情もあったにはあったが、先発の朝日・毎日新聞連合軍による妨害は、大変なものだったようで、日本新聞戦国史上トップクラスの事件である。それを、御手洗の筆でみてみよう。
「社外では、大朝、大毎両社が提携して、極力この新聞の発展を妨げた。平素、仲の悪い両社も、共通の敵出現となって、手を握ったわけである。
第一に、電話の架設から電力の引きこみまで妨害して、工事のはかどりを妨げた。新聞社の印刷工員は、普通の工場の工員では役に立たぬ。どうしても二〇〇人くらいの工員を集めねばならぬが、両社から引き抜こうとしても、事前に手が打ってあって歯が立たない。
両社の販売店には厳命して、大正日日の取り次ぎを禁じ、いやおうなく新規販売店の設置に巨額の経費を投じさせる。京都、神戸、和歌山などの隣接地には深夜、新聞専用電車を運転しているが、当局を圧迫して大正日日だけは積ませない。しかたなく毎夜トラックの特便をもって、各方面に発送せねばならぬ始末である。四国行きの新聞は船のデッキ貨物となっている。大正日日の梱包は毎夜のように海中に投げこませてしまう。大広告主に向っては、おどして大正日日への広告契約を妨げるなど、至れりつくせりの妨害ぶりであった。
これがため二〇〇万円の資本金は二、三ヵ月後には一文も残らず、新聞代、広告料金も前記の次第で、内外の妨害からほとんど入金はない。両社の横暴に反感をもつ大阪市民は、熱烈に大正日日を支持したので、取りあえず一〇〇万円の増資を計画、勝本が五〇万円を負担することになったが、運悪く戦後の恐慌が襲い財界は倒産続出、なかでも鉄と船は最もひどい打撃を受け、勝本も一夜こじき同然となり、五〇万円の資金どころではなくなった」(『日本新聞百年史』三四七頁)
かくして創刊数ヵ月をもって、出資者去り、社長去り、素川も退社、ついに八カ月で解散の憂目となった。
大正日日の攻防戦は、しかし、いささか官憲の暗躍を思わせるものがある。電話、つまりは逓信省の協力による業務妨害、電力会社や市電に圧力をかけ、大広告主、つまりは大資本家をおどかし云々は、たんに朝日・毎日の両新聞だけの仕事とは思えない。大阪の官界、財界をあげての圧力とみられるフシがある。
大正日日新聞の紙面そのものについては、筆者も一応、紙面をめくってみたが、まさに大正デモクラシーの典型で、政権批判ばかりか、ストライキ報道などもくわしいものがあった。とくに重要なのは、普通選挙の即時実施に関する論調であろう。
同じころ、大正日日新聞を圧殺した同じ魔手は、形をかえ、所を変えて、あらゆる言論報道機関にのびていたというべきであろう。
この状況下、一九二三(大正一二)年九月一日、運命の日、関東大震災で読売新聞社の夢の新社屋は、激震におそわれ、大火になめつくされた。読売新聞の停刊は四日間、以後、二ページ、四ページ、六ページ、そして八ぺージに戻ったのは八〇日振りだったという。
明けて一九二四(大正一三)年は、すでにふれた第二次護憲運動の山場であった。
「大正一三年一月二一日付三面(写真右)は、四段抜き見出し『清浦内閣を倒壊し、併せて非立憲内閣の出現を根絶せよ』という社説で、全面うめられた。……(略)……筆者は花田比露思(大五郎)、『民意を代表する衆議院を無視した組閣は憲政の本義に反する。清浦内閣の倒壊をもって足れりとせず斯くの如き非立憲内閣の出現する諸原因を根絶せねばならない』と、元老の責任、貴族院の役割など論じきたり、ついに一ページに及ぶ。
二月五日上野精養軒に開かれた護憲全国記者大会に集まる者、記者、代議士ら三百余人。松山忠二郎が座長に推され、震災後の本社復興に骨肉を削りながら、なお烈々の闘志をみせた。これを第二次護憲運動と称する」(『百年史』二八四頁)
『百年史』のこの記事の右どなりの写真は、社説の大見出しであるが、サブタイトルは、「今日の政局を馴致せしものは誰ぞ、床次氏一派の謬見を破れ」となっている。床次は、ときの内務大臣であった。
なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である。実物をみると、関東大震災後の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字のあとから察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いはない。また、震災後の執筆者の中には、江口渙、藤森成吉、宮本百合子らの名もみえる。
このような記事内容、そして、「記者大会」などの「座長」に押される名門の位置づけ。それだけでも、時の政財界にとって、読売新聞は、頭痛のタネとなりはじめていたのではないだろうか。
そして、正力松太郎の登場。読売新聞の第二の半世紀が、治安維持法と戦雲たれこめるなかで開幕する。……
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