『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(3-6)

第三章 ―「過去」 6

―読売新聞のルーツは文学の香りに満ちて―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.2

中興の夢やぶる関東大震災

 さて、話はもどって、松山忠二郎の読売新聞社長の期間は、四年四ヵ月にわたっている。そして、松山は、それまでの三万部前後の発行部数を、震災前には一三万部までのばし、読売新聞全体の近代化をはかり、その上、新社屋まで建設した。

 不幸にして、まさに、予定された新社屋落成式の当日、一九二三(大正二一)年九月一日、関東大震災が大惨劇をもたらした。だが、その突発的災害さえなければ、松山は、紙面はともあれ、読売新聞経営上の中興の祖たりえたことは疑いないのである。また、たしかに社屋や機材の破損はあったにしろ、松山時代につくりあげた体制があったればこそ、のちの正力の経営もありえたのである。

 にもかかわらず、読売新聞の『八十年史』の大見出しは「松山のばん回策ならず」であり、『百年史』のそれは「社長松山の改革実らず」となっている。この扱いは明らかに、このあとにくる正力時代をより大きくみせんがための、苦肉の策である。“見出しで勝負する”新聞人が、その技術を悪用しているわけである。中身を検討してみると、松山個人に帰すべき経営上の失敗は、ほとんどないといってよい。

 松山について、御手洗辰雄は、「東京朝日の経済部長として東京の実業家に信用を博していた」(『伝記』一三六頁)と評しており、『一九一九年』の「名士」Kの描写と、ウラオモテの関係で呼応している。

 松山は、典型的な近代的新聞エリートの一人である。早稲田大学の前身、東京専門学校政治科を卒業、東京経済雑誌を経て、東京朝日新聞に入社。一八九八(明治三一)年には、アメリカに特派されてコロンビア大学に留学し、帰国後には財政経済記者として論壇をにぎわした。一九一八(大正七)年一二月に、東京朝日新聞編集局長を辞任しているが、これも、彼個人の理由によるものではなかった。

 松山は、社長の村山竜平以下の首脳陣がほとんど退社のやむなきにいたるという、日本新聞紙上でも最大の筆禍事件、「白虹事件」に連座して、浪人中の身であった。

 この事件は、米騒動の報道への弾圧に抗議する記者大会の、大阪朝日新聞の報道記事をきっかけとしたもので、当時の政権の動きとマスコミの関係を象徴する事件であった。しかし松山は、この事件に直接の責任はない。大阪朝日新聞の編集局長と、連座の責任をとらされたというだけである。

 さて、松山の経歴自体は、まさしく、専門家としてのジャーナリストのキャリアー組、とでもいえそうなものである。その上、当時もっとも近代的、資本主義的経営方式といわれた朝日新聞で、充分な経験をつんできた。とくに東京で、しのぎをけずる販売競争をしながら、読売新聞についても、敵方としての研究をしていたといえる。

 当時の朝日新聞は、みずからの大阪方式の商法を発展させると同時に、読売の文学新聞としての社風も学びとり、すでに二葉亭四迷や夏目漱石を入社させ、二葉亭の名作「其面影」や「平凡」、漱石の「虞美人草」、「三四郎」から絶筆の「明暗」にいたるまでの全作品を連載していた。また、一九一六(大正五)年には、大阪で鉄筋コンクリート四階建ての、当時最新鋭の新社屋を完成するなど、一大飛躍期をむかえていた。

 読売新聞の社長就任発表とともに、松山は、一九一九(大正八)年一〇月一日の紙面に、「新経営の読売新聞」と題する抱負をのせた。

 「創刊以来四五年、半世紀に近い年月、本紙が果して来た歴史を論じ、従来の“穏健”の特色を保つと同時に他面“機敏”の実を挙ぐ、また、“趣味的”“家庭的”なるに加えて“実務的”“社会的”たらんことを期する」(『百年史』二七三頁)

 スタッフも、朝日新聞退社組のほかに、各紙から有力記者を集め、さらに、読売新聞の元主筆で早稲田大学新聞科の創設主任教授だった五来素川を、論説委員にむかえた。

 五来は、東京帝大仏政治科を出て読売新聞に入社、一九〇四(明治三七)年に特別通信員の肩書でパリヘいき、ソルボンヌ大学に学び、ついでベルリンで政治学を修めた。『白野弁十郎』(シラノ・ド・ベルジュラック)の翻訳脚本を、“在巴里”として掲載したこともある。「よみうり婦人付録」をフランスのフィガロ紙をまねて創設し、与謝野晶子らを入社させたのも、かつての五来主筆の時代であった。『百年史」も、彼が「社勢のばん回にも寄与した」(同書二五二頁)と評している。

 しかし、その一方で、五来の入社は、かつての対露主戦論の国粋主義者、中井錦城主筆の勧めによるものであったし、五来自身も、「善人であり詩人肌の熱情漢であったが、国粋主義的な思想の持主であった」(『八十年史』二二五頁)とされている。そして、社長の本野英吉郎や編集顧問の秋月左都夫らと対立し、ついには、社長を椅子ごと突きとばしたり殴ったりという暴力事件を起したため、主筆在任八ヵ月で、退社のやむなきにいたったという。

 松山社長は、この五来をはじめ、思想傾向をとわず、有能で外国通の人物を集めた。そして、「朝日新聞を仮想敵とみなし、特に政治、経済、外交記事に主力を注いだ」(同前二四〇頁)。そのためには、通信網の整備が急務であったが、「横浜、大阪に加えて、千葉、静岡、宇都宮、浦和に支局を開設、国外は京城、北京、上海、ニューヨーク、ワシントン、サソフランシスコ、ロンドン、パリに特派員または通信員を常置するなど、順次海外特電網をひろげていった」(『百年史』二七五頁)。

 これだけのことを一挙にやるには、それなりの資金も必要であったが、松山のうしろには、資本金一〇〇万円を準備した日本工業倶楽部の匿名組合がついていた。その後援によって松山は、三〇万円で読売の経営権を入手し、追加資金も得ていたのであった。

 第一次世界戦争後の日本は、船成金などを典型として、史上空前の好景気だったし、世界の大国のひとつにのし上ってもいたのである。その状況下に、エリートの新聞人も、おおいに能力を振うことができたわけである。松山はさらに強気で、社長就任の二ヵ月後には、広告料の値上げにふみきったりした。また、営業部長になった五味秀也は、ロサンゼルスで新聞経営の経験を持ち、アメリカ式の近代経営方式を取りいれたし、将来の新社屋計画を練った。

 そのほかにも、漢字のルビ廃止、漢字制限、口語体へのきりかえ、輪転機の高速化、電信局開設、電話の増設、販売配達網の整備など、あらゆる手段がとられている。

 記事内容では、言論擁護の論陣をはる一方、「よみうり婦人付録」を「よみうり婦人欄」に改め、与謝野晶子、山川菊枝、山田わか、高梨高子、平塚明子の五人を特別寄稿家とし、婦人記者を朝鮮、中国へ派遣して通信を連載、ほかにも特集や臨時付録など、婦人向け企画をくんだ。

 これらの努力のつみ重ねで、読売新聞の経営は着実に持ちなおし、部数も一三万部に達したし、銀座に新鋭設備の社屋を建設するにいたったのである。


(第3章7)プロレタリア文学の突破口