第一章 ―「現状」「現状」 8
―正力家と読売グループの支配体制はどうなっているか―
電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25
元内務・警察高級官僚の系譜
小林与三次は、単に、正力松太郎の女婿たるにとどまらない。旧内務省高級官僚としての、優秀な後輩でもある。戦前の内務省の実態と、正力松太郎の経歴の問題点については、のちに第四章「暗雲」でふれる。
小林は、日本テレビの『25年』などには、自治省事務次官以来の略歴しか記さないが、職員録や人事興信録によると、一九三六(昭和二)年に内務省地方局にはいり、熊本県警務課長、京都府警防課長と、地方警察まわりをしている。
本人は、最近になって、日本テレビの社員研修会の酒の席で、「警察はいやだったが、仕事の義務を果さなければいかんと思って、我慢した」というようなことを語っているという。その言葉を、そのまま受け取るわけにはいかないのだが、昭和の一〇年代という戦乱、国内の民主勢力弾圧という時代に、警察のどんな仕事が「いやだった」というのであろうか。
たとえば警務課長という役職だが、いまの警視庁警務部長が、いざ弾圧のときに指揮棒をふるうように、警務というのは、弾圧係なのである。積極的な反戦運動はもちろんのこと、消極的な徴兵忌避の動きにも、すぐに、しょっぴき、ひっくくるのが、地方警察の任務であった。サーベルをがちゃつかせ、民衆を威嚇することが、小林与三次の社会人としての初仕事だったことに間違いはない。そして、若くして民衆から、畏怖の眼で仰がれることに慣れ、それを当然のこととして受取る習性が、最初から、これら高級官僚たちの身にしみついていくのである。
つぎに、地方警察とマスコミとの関係を考えると、まず、新聞の検閲が日常業務となっていた。
『内務省史』は、「地方で発行される新聞等については、その地の都道府県庁の特別高等警察課(検閲課)で検閲して、問題になる点だけを電話で本省に照会」(同書一巻、八〇五頁)という体制だったとしている。
一県一紙への新聞統合は、一九三八(昭和一三)年からの動きである。のちに若干くわしくふれることになるが、全国で七三九紙を数えた日刊紙が、四年後には一〇分の一以下の、五四紙へ統廃合されたという、史上稀にみる言論機関への干渉であり、それを強制・指導したのが、地方警察だったのである。
小林の最初の任地、熊本でも、熊本日日新聞への統合が行なわれた。しかし残念ながら、社史『熊日二十年史』には、その間の事情が記されていない。
京都府では、京都新聞への統合が強行されており、『京都新聞九十年史』は、京都府警察部特高課長中村清が、「合併を勧告」したことを記している。また、『京都新聞社小史』は、そのころの状況の一端をつたえてくれている。
「発表記事のほかは何もかけない暗くて重苦しい時代であった。一県一紙令が出され、新聞社の統合が強行された。京都においても、京都日日新聞と京都日出新聞が、特高課長のあっせんのもとに合併した」(同書一九頁)
「競争紙の京日と日出の合併は、なかなかの難産であった。時の府警察部特高課長が、両社を呼んでのひざづめ談判であったが、合併の条件や人事についての合意がえられなかったためであった。結局は、特高課長の裁定で対等合併となった」(同前一三頁)
わずかに残る合併前の資料に、京都日出新聞の「整理部日誌」があるという。合併直前の一九四一(昭和一六)年後半、対アメリカ宣戦布告の一二月八日を前にして、「とくに目立つのが、特高からの記事差し止めの指示」(同前二〇頁)だという。また、「七月一六日の項には、近衛内閣の総辞職と後継内閣の組閣について、同盟通信社からの注意事項、特高からの指示が、ぎっしりと書きとめてあった」(同前二一頁)という時代であった。
内務省高級官僚、東京帝国大学法学部卒、高等文官試験の二科目にストレートでパスしたというエリートの小林与三次は、このような言論弾圧の実態を目前にみながら、どう感じ、どう行動していたのであろうか。
一九四三(昭和一八)年、日本の敗色がみえはじめるころ、やっと小林与三次の足どりについて、直接の証拠が残されるようになる。
「内務省事務官小林与三次」は、このころ「時局下隣保組織指導」に当っており、「部落会町内会庁府県指導者講習会」で講義をしていた。その速記録などが、「部落会町内会指導叢書第一二集」として、翌一九四四(昭和一九)年一月に、内務省地方局内自治振興中央会から発行されているのである。
「トントントンカラリンと、となりぐみ」の歌つきで、町内会・部落会の下に隣組がつくられた。これは、一九四〇(昭和一五)年の内務省訓令によるもので、江戸時代の五人組、一〇人組制度を原型とするものといわれているが、近くは、関東大震災で自警団が組織されており、町内会・部落会とその下部組織としての隣組強化という内務省の発想は、ここから出ていると考える方が至当であろう。関東大震災の際には、警察・憲兵・軍隊総出動の戒厳令下、自警団が朝鮮人虐殺、社会主義者の狩り出しに活動したのであった。また、小林事務官が講義をしているころ、正力松太郎も警視庁幹部に対して、関東大震災の時の活躍ぶりを語り、もって「大空襲に際して」の「帝都治安」(『悪戦苦闘』一三三頁)の参考に供している。これも、単なる偶然とはいえないであろう。
というのは、そのころの民衆の状況については、『百年史』も、こう描いているのである。
「敗色の深まりとともに流言や落書きがふえ、憲兵や警察官は取締りに躍起となった。
『食う米なしのいくさより、負けて腹の肥る方がよかろう』
『敗戦で天皇陛下は千代田公爵となられる』
これら不穏な言動は、内務省警保局保安課の統計によると、昭和一七年三○八件、一八年四○六件、そして一九年にはいると一挙に六〇七件にふえ、このうち反戦反軍的なものが二二四件となっている」(同書四七一頁)
このような状況下、一九四二(昭和一七)年から、憐組は大政翼賛会の指導下にはいり、日本ファッシズムの末端組織の機能を果した。それは、有名な日本軍の内務班と同様、民間の内務班として、警察的支配の道具となった。隣組なかりせば、戦争への国民精神総動員も不可能であり、敗戦も早く、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下も、サイパン、沖縄などの玉砕もなかったのである。その意味では、隣組の指導に当った高級官僚は、明白な戦争犯罪人であり、天皇と同様、みずからは戦火の危険に身をさらさぬだけ、その犯罪性は強いといわざるをえない。
その証拠に、小林事務官の講義は、表面上、『地方制度の改正』という、さしさわりのない題名であったが、つぎのように、滅私奉公の強制に他ならなかった。
「これは私が今更申上げる迄もなく、日本の国柄というものの根本から自治というものを考えなければ、問題にならないのであります。日本の根本の国柄については、今更申上げる必要もないのでありますが、要するに万世一系の天皇の御統治、これが根本でありまして、御統治に対する国民の翼賛、これが他の反面なのであります。つまり御統治と翼賛、これが日本の国を構成している根本の大義であります。申上げるまでもなく、日本国民というか、自治体も国家の中にある日本国民の団体でありますが、この日本人の本質、それは団体と個人とを問わず、日本人の本質は何処にあるかといいますと、いうまでもなく、個人自体の幸福とか、発展というものは何の意味もない。全国における個人が集って、個人の最大利益を目的として国家を構成するという考え方は、初めから、わが国においては考えられぬのであります。いかにすれば日本人として翼賛の大義をまっとうできるか、それが全体としての日本人の目的であり、全貌であります。これは、いうまでもないことと思います。日本の国には、つまり、個人はおらぬ、簡単にいえば公民しかおらぬ、大御宝(天皇―筆者)があるだけで、個人はない、天皇の御統治を仰いで、翼賛の大義に、生れ、生き、死ぬる臣民しかおらぬ、外国のいわゆる個人は、日本には存在しないのであります」(同書七頁)
なんのことはない、「地方自治」の名において、自治を否定し、個人の権利を否定しているわけである。問題は、小林与三次が、この戦争中の演説や自分の思想を反省し、つぐないをしているかどうかであるが、まったく、そのような姿勢は見当らないようだ。
さて、小林与三次は、いま、旧内務省高級官僚仲間で自治省事務次官経験者の鈴木俊一現東京都知事)、柴田護(阪神高速道路公団理事長)とともに、「地方制度調査会」(林敬三会長=元統幕議長)の委員になっている。この三人はまた、自治省三羽ガラスといわれ、いまだに院政をしき、高級官僚の人事を左右しているという噂さえある。親玉の林敬三は、内務省で人事課長をしていたこともある。
高級官僚人事の実態については、松本清張の文章を借りるとしよう。
「昭和三八年九月二日現在『名簿』とのみあって、発行者名もなく、奥付もなく、その中は警察庁の入庁年次と官職氏名だけが羅列してある新書判のような人名簿がある。これは、実は警察庁の人事課で作成し、部内の有資格者だけに密かに配布されている特権有資格者の人名簿だ。……(略)……
毎年人事異動の時期がくると、最高幹部は長官室に集って、この小冊子をあれこれとめくり、『あれをこっちに、これをあっちに』と操作する」(『警察官僚論』全集三一巻、四七八頁)
この前に、それぞれの派閥やら、政財界やらの動きが活発になるのは、もちろんのことである。院政をしく大先輩には、この『名簿』が渡っているにちがいない。そして、問題なのは、旧内務官僚の政界進出が、いっそうはげしくなっているなど、彼らの実権が強化されていることである。
(第1章9)亡霊復活の世話役 へ