『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(1-4)

第一章 ―「現状」「現状」 4

―正力家と読売グループの支配体制はどうなっているか―

電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25

よみうりランドと九州進出

 「務台、正力と危機一髪

 務台さんが辞表を出して雲がくれしたことがあります。それは昭和四〇年三月、組合がスト権確立の全員投票を行なった直後のことです。務台さんは早朝高橋雄豺さん(当時副社長)の家を訪ねで辞表を預け、それから行方不明になりました」(『闘魂の人』三七三頁)

 これは、務台の、正力に対するストライキであった。原因には、まず、すでにふれたように、正力の大手町新社屋建設への反対があった。そして、当時最大の焦点としては、よみうりランド建設の資金ぐりと、それにからむ読売新聞の九州進出(西部本社建設)があった。

 インドから仏舎利を運んでおさめた塔を頂点とする“よみうりランド”は、当時すでに建設資金約一二〇億円の支出といわれた。現在の形になったのは、一九六七(昭和四二)年末である。

 「生前の正力が、その建設を目して、“私の悲願”とまで叫ばせ、日テレに粉飾決算を強い、巨人軍の金田の契約金を分割にし、果ては、読売本社の経営を危うくするほどにまで、コンツェルン内部の現金という現金をかき集めて注ぎこみながら育てたのが、この『よみうりランド』であった」(『正力松太郎の死の後にくるもの』三五七頁)

 つまり、一二〇億円のよみうりランド建設資金が、日本テレビ粉飾決算の原因ともなったというのが、最早、かくしようもない事実だったのである。日本テレビの内部でも、早くから社内に噂が流れていた。有価証券報告書には、資本金としての投入も、記載されているが、日本テレビの持株は、前身の関東レース倶楽部以来、取得価格で三億九三三八万円となっている。

 さて、務台のストライキに戻るが、『百年史』は、この事件を記していない。しかし、その前段となる九州進出については、正力と務台の対立をくわしく書いてある。いささか、企業の「正史」の枠をはずれているといってよい。これはそれほどに務台の政治生命にかかわる問題だったのであろう。そして、諌言すること数度、どうしても意見の一致をみない折から、読売新聞社の労使交渉で、関東レース倶楽部の有価証券報告書が提出された。一九六五(昭和四〇)年春闘のことである。

 関東レース倶楽部(のちに「よみうりランド」と改称)の決算報告をみると、読売新聞と日本テレビからの借入金は、つぎのようになっていた。

  読売新聞 日本テレビ 種別
一九六二・九月 一一億五千万円 一億五千万円 短期
一九六三・三月 一二億七千万円 二億五千万円
〃・九月 五億円 一億五千万円
一九六四・三月 六億円
〃・九月 六億五千万円 三億円 長期
一九六五・三月 約一四億三千万円 四億五千万円
〃・九月
一九六六・三月 約一七億八千万円 約三億五千万円
〃・九月 約一六億六千万円 約三億四千万円

(『有価証券報告書総覧』より作成)

 読売新聞社も、日本テレビも、一九六五(昭和四〇)年には、不況の影響下にあった。広告費のひきしめが行なわれたからである。それに加えて、よみうりランドの銀行借入金への保証、直接の融資が重なり、極端に金ぐりが苦しくなった。賃上げ交渉も難航し、その結果、団交席上への証拠提出となった次第である。そして、組合のスト権投票となり、務台は、「行方不明」となったのである。

 しかしこれは、なみの行方不明ではない。辞表を高橋副社長に預けたというが、高橋雄豺は、正力の後輩の元内務省高級官僚である。正力への、忠臣務台諌言の次第は、当然、務台専務と高橋副社長の間で、何度となく話し合われていたにちがいない。高橋が、「留め男」の任に当ったとみてよかろう。そして、結果としても、つぎのようになっている。

 「この事件があった後には、さすがの正力氏も、読売がランドのために手形を振り出させる話を沙汰やみとし、新社屋への反対も軟化しました。そして正力氏はある友人に、“務台はおれを試したよ”といったそうです」(『闘魂の人』三七六頁)

 正力は、この事件で、務台の力を見せつけられたのである。というのは、労働組合も動いたからである。

 「組合が、残った重役諸公に『当事者能力なし』と結論してから、戦術転換がねられ、スト権確立全員投票の中止、七五○○円アップ撤回、務台復帰呼びかけを決定し、闘争委の投票に図った。その結果は、賛成二八、反対二二、無効一の小差で決った。反対二二票は、印刷技術者として、人不足の折柄引っ張りだこの一、二階の工場委員で、賛成二八票は、三階の編集から上のホワイトカラー組。彼らは務台なき読売の崩壊を憂えたのであった」(『現代の眼』一九六五年九月号、一六七頁)

 もちろん、“販売の神様”として知られる務台の「一生の大事」であるから、販売店主も務台復帰をかかげたことはいうまでもない。

 ところで、よみうりランド建設と、読売新聞の九州進出が深いつながりを持っているという、これまた奇妙な話なのである。

 「正力はそのとき、よみうりランドに力をいれていたが、それには相当金がかかる。ところが、たまたまアメリカにMCA(ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ)という会社があって、よみうりランドに投資してもいいという話があった。MCAはメトロなど大手の映画会社が合併した大会社で、日本テレビにテレビ用のフィルムを売っていた。よみうりランドヘは五〇〇万ドル、約二〇億円を投資するということで、柴田が何度も渡米し、MCAからは副社長が三回来日していた。……(略)……MCAの投資は現金ではなく、日本テレビに年間五億円ほど古フィルムを買わせ、それをよみうりランドヘ投資する方針であった」(『闘魂の人』二八○頁)

 正力は、読売新聞を土台として、政界へ進出し、A級戦犯・公職追放をくぐりぬけたのちに、テレビをはじめ、ついにディズニーと小林一三の向うをはって、レジャーランド建設へふみ出したわけである。そのために、新聞とテレビから、政治的にも経済的にも吸い上げていかなければならない。ここでは、新聞の政治力が問題となった。いよいよ、MCAのワッサーマン社長が正力に会いにくることになったのだが、もうひとつ、パンチをきかせる必要があった。

 「正力としては、この投資を実現させるためには、ワッサーマンをして、読売新聞を日本の代表的な『全国紙』であることを認識させることが、かれを説得する上でも効果的だと考えた。しかし、地図をみると、読売新聞の発行されている地区は東京、大阪、北海道、それに名古屋と同じ地区の高岡である。だが残念ながら九州がない。ここで新聞を発行しないと『全国紙』の体裁をなさない。ワッサーマンに、読売新聞が全国紙であることを誇示するには、どうしても九州に発行所がなければならぬ、」という正力の強い考え方が、話をしているうちに務台にはよくわかってきた」(『百年史』七三五頁)

 こういうわけで、九州進出が強行された。ところが、MCAのワッサーマン社長は、来日したものの、東京都心の日本テレビから、よみうりランドまで、二時間もかかる自動車道の混雑ぶりを「視察」してしまった結果、提携をことわってきた。このため、赤字の読売新聞西部本社がのこる一方、よみうりランドヘの資金投入はやめられず、読売グループ全体の金ぐりが、極端に苦しくなったのである。

 務台は、しかし、この金ぐり難の苦境のなかで、やがてみのるウルトラC級の、起死回生策を放った。

 九州の読売新聞西部本社は、なんと、巨人軍や読売会館(有楽町のそごうデパート・ビル)を含む“読売興業”株式会社“新聞部”の仕事になっているのである。『現代』一九七八年三月号の特集「読売新聞と務台光雄を裸にする」は、その時点の収支バランスを推定している。

 読売興業の社長は正力亨であるが、代表取締役として務台光雄がはいっており、「務台光雄の左の掌から右の掌に、巨額の金が動く。そのからくりは、『務台社長以外には、うちにはくわしく知っている役員は、ほとんどいません』、これが読売側の回答だ」(同誌一二四頁)という状況だから、概算でしかないが、それでも、すごい金額になる。

 「当時から読売ジャイアンツは年間、二、三億円の黒字を出している。……(略)……

 現時点では読売興業が大成建設に貸している旧社屋からは、推定で月に五億円の収益だから、年間で六〇億円。そごうに貸してある有楽町の読売会館の月あたりの収益が、やはり推定で五億円で、年間には六〇億円。……(略)……

 ジャイアンツのテレビ中継料年額二億円、入場料一六億八○○○万円……(略)……」(同前二一三頁)

 これだけあれば、九州進出で予想された年間一〇億円の赤字などは、まったく問題にならないわけである。むしろ、九州でのわずかの赤字をネタに、このあやしげな商法をゴリ押ししたといってもよい。『日本新聞年鑑』をみると、西部本社の発行部数は、なんの注釈もなしに、読売新聞の全国発行部数に加えられている。発行元の新聞協会に問い合わせたところ、「読売新聞本社の発表そのまま」という返事がかえってきた。

 まったく人を食った経営方式だが、これが読売グループ一○○年の「資本力」というベきであろうか。


(第1章5)正力家の御家騒動