ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
電網木村書店 Web無料公開 2000.9.9
第4部 マスメディア報道の裏側
第7章:はたして「ナチズム擁護派」か 5
集会参加者と記者会見同席者をすりかえて「ネオナチ」攻撃
「悪魔化」の第二の手段は、集会参加者のたった一人に焦点をあてて、それを全体のイメージにふくらませるという手法である。しかもこの場合には、別の場所の映像を積みかさねることによって、錯覚をつくりだそうとしているとしか思えなかった。そういう編集の仕かたになっていた。
このシーンの最初の画面では、アーヴィングがドイツ語で演説している。日本語版のスーパーはつぎのようになっている。
「ドイツの歴史学者は皆、意気地なしです。人をバカにしている。真の歴史を記述するために、私は国際的なキャンペーンを行なってきました。二年後のドイツについて私はこう予言します。ドイツ人は歴史の虚偽に気付き、根拠のない罪悪感から解放されるでしょう」
拍手がおこる。カメラはパンしながら会場の情景をうつしだす。テーブルのうえにはちいさな飲み物のビンがならんでいるだけで、質素な感じだ。なごやかな雰囲気の集まりである。数十人の参加者は、ごくごく普通の市民層なのではないだろうかと思える顔つきだ。
正面にカメラがもどると、アーヴィングのとなりにツンデルとロイヒターが立っている。ドイツ人のツンデルが、「イギリスからきたアーヴィング」などとみなを紹介しているところに、解説がかぶさる。
「これはドイツ南部の町、ホルツハイムでひらかれたあるキャンペーンの模様である。会場にはフレッド・ロイヒターやエルンスト・ツンデルら、一連のメンバーが顔をそろえている」
ここでカメラはいったん会場の建物のそとにでたような感じで、実は別の建物にはいっていく。キャンペーン集会とは別に、ツンデルたちは地元での記者会見をしていたのだ。ところが、こういう画面構成をされると、おおいに疑いつつ見ているわたしでさえ最初は錯覚し、混乱してしまった。ビデオのリピートでやっとちがいを確認できたが、最初に見たときには、おなじ集会の場面のつづきかなと思ってしまったのだ。実にあやしげなこきざみ編集の仕方である。しかも、そういう編集の仕方になった基本的原因は、つぎに紹介するようなゆがんだ制作意図にあるのだ。
記者会見の方の場面の解説はこうなっている。
「エルンスト・ツンデルは記者たちをあつめ、裁判で勝つ自信があることを強調した」
ツンデルがしゃべっている。かれは、自分の裁判で提出したロイヒター報告について、アウシュヴィッツの模型をしめしながら説明しているようだ。しかし、その内容は紹介せずに、解説はこうつづく。
「列席者のなかに、オーストリアのナチズムの大物がまじっていた。ゴットフリート・キュッセルは、議会外野党と称するネオナチ組織をひきいている」
ゴットフリート・キュッセルという名の「オーストリアのナチズムの大物」は、たんに記者会見の席にはいりこんでいただけである。だが、画面は屋外でのネオナチのデモの風景にきりかわる。ウー、ウー、ダン、ダン、ダンとおもくしい音楽がはいる。その音楽のものものしさのほどにはデモの迫力はない。先頭に立っているキュッセルの姿などは、大物どころか、そこらのいきがった「街のあんちゃん」程度でしかない。直後に、デモのうちあげであろうか、ネオナチの若者がよっぱらってクダをまくシーンが不気味なアングルでうつしだされる。一人の若者が腕をのばして「ジークハイル」とぼやくようにさけぶ。これもチンピラ以下のおそまつさだ。
そのほかの短いショットを積みかさねたのちに、画面はふたたびホルツハイムのキャンペーン集会の席にもどる。こうして、「一連のメンバーが顔をそろえ」たキャンペーン集会には、「ジークハイル」のイメージがべったりとはりついてしまった。
「ガス中毒死した死体」という根拠のない断定を追認する解説
この『ユダヤ人虐殺を否定する人々』というテレビ番組の制作意図は、あきらかに、「ホロコースト」物語の肯定と維持にある。
その目的のための取っておきの駄目おしは、すでに紹介した老人、「強制収容所に収容されていたヘンリー・マンデルバウム」の「証言」である。ロイヒターがアウシュヴィッツの第二キャンプ、ビルケナウの現地でサンプルを採集する情景を撮影した報告用の画質のわるいヴィデオと、「ディゾルヴのカギ十字」模様のうえにおかれた『ロイヒター報告』にかぶせるという順序で、おなじ廃墟の跡をゆっくりと歩く老人の姿がうつしだされる。
解説者は、しんみりと同情的な調子で、言葉を一つ一つ、印象づけるようにくぎりながら語る。
「おなじ現場で、一人の男性は、正反対の主張をする。五〇年前、かれは、死体を、焼却炉へ運ばされていた」
つづけてマンデルバウムがこう語る。
「たくさんの死体をここで焼きました。ガス中毒死した死体です。その数は検討もつかないほど大量でした。わたしが運んだものだけでも、数千人はくだらないと思います」
死体の焼却炉、または火葬場があったことは、『アウシュヴィッツの嘘』にもちゃんと書いてある。クリストファーセンはつぎのように、当時からあった「噂」の真相をたしかめていたのだ。
「実際、アウシュヴィッツには火葬場があるが、ここには二万の人々がいるのだし、それくらいの規模の都市なら、どこにでも火葬場があるものだという説明をうけた。もちろん、ほかの場所とおなじようにここでも人は死んだが、死ぬのは収容者だけではなかった」
ただし、この「二万人」という数字はすくなすぎる。アウシュヴィッツのメイン・キャンプだけの数字のようである。
『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』によると、「アウシュヴィッツの収容所複合体は、それぞれが一〇万人以上の設計」になっていた。だが、「設計」はあくまで「設計」である。計画全体が敗戦で中途放棄されているのだから、「設計」どおりに完成されたわけではない。わたしは、「アウシュヴィッツの収容所複合体」の宿舎の主要部分であるアウシュヴィッツ・メインキャンプと、ビルケナウのI、II、IIIのキャンプのすべてを自分の目でたしかめた。現地の宿舎跡には、「一棟に五〇〇人から八〇〇人が収容されていた」という展示板の説明があった。
実際の収容人員については資料によってかなりのへだたりがあるので、帰国してから、現地の博物館で撮影してきた宿舎の配置図をもとにして計算してみた。同形の棟がすべて宿舎だとはかぎらないし、あくまで概数の計算になるが、一棟に五〇〇人として全体で約一六万人、一棟に八〇〇人として全体で約二五万人になった。中間をとると全体で約二〇万人前後といったところであろう。おなじ計算でアウシュヴィッツ・メインキャンプだけの内数を出すと、約二万四千人から約三万八千人になる。クリストファーセンの「二万人」という記述は、これに近い。展示板の「一棟に五〇〇人から八〇〇人」という説明の仕方には、「過密」を強調したいニュアンスが感じれらたので、もしかすると、実数はそれ以下だったのかもしれない。
一応、二〇万人の人口で平均寿命を五〇歳に設定すると、一年平均の死亡者が四〇〇〇人、一日平均では約一一人になる。だが、実際の収容所での死亡率はあきらかにたかかったようだ。シュテーグリッヒは「伝染病の流行」を指摘しつつ、「ある時期には一日の死亡数が六九から一七七になった」という医師の報告を紹介している。
マンデルバウムが何度も死体をはこび、何度も焼いたのは、おそらく事実であろう。
だがいったいかれは、どういう手段で、それらの死体が、たとえば発疹チフスによる病死者のものではなくて、「ガス中毒死した死体」であることを確認したというのだろうか。みずからも一介の「収容者」だったというかれが、どうやって法医学者のような作業をすることができたのだろうか。解剖をしたり、ロイヒターがおこなったような「青酸」反応のテストをやったうえでの「証言」なのだろうか。
わたしの推定では、マンデルバウムには、そのような技術的資格も物理的条件もまったくなかったはずだ。わたしのこの推定が誤りであることが確認できないかぎり、マンデルバウムの「証言」は、解説のセリフが断定しているような「正反対の主張」にはなりえないのである。
アウシュヴィッツ博物館を訪問したわたしの目的の一つには、マンデルバウムとのインタヴュー計画があった。そのための手はじめに、歴史部主任のピペル博士への第二の質問として、マンデルバウムを知っているかとたずねた。ピペルは強くうなずいて、知っていると答えた。わたしはNHKのカタカナのスーパー文字で「マンデルバウム」という氏名を知っただけなので、メモ用紙をさしだしてローマ字のつづりを聞くと、サラサラとメモしてくれた。マンデルバウムに会いたいのだがというと、「かれはアメリカに帰った」と答えた。
ピペルはたんに、マンデルバウムを知っているというだけではなかった。マンデルバウムはピペルの重要な情報源だったのだ。そのことは、ピペルとの会見の直後に博物館の売店でもとめたピペルの著書の抄訳英語版をひろげてみたら、すぐにわかかった。その七ページには、つぎのように書いてあった。
「ゾンデルコマンド[収容所内の地下組織、特別分遣隊の意]のもう一人のメンバーだったヘンリク・マンデルバウムは、一九四四年六月から一九四五年一月まで死体の焼却にあたっていたが、“仲間の話によると、全期間を通じて四五〇万人がアウシュヴィッツで死んだ”と証言した」
ピペルと会見したときのわたしは、まだこの文章を読んでいなかった。しかし、ピペルがマンデルバウムをよく知っているという感触をえたので、ズバリとこう聞いた。
「日本のNHKが放映したデンマーク・ラジオの作品のなかで、マンデルバウムは、はこんだ死体の死因はガス中毒だと語っている。しかし、一収容者のマンデルバウムには、外科的、または法医学的な、死因を特定する手段はなかったはずだが、どう思うか」
ピペルは、わたしの疑問を否定しさることができなかった。無言で何度かうなずいたのちに、おおきく両手をひろげて、ゆっくりとこう答えた。
「かれは、そのように観察(オブザーヴ)したのです。かれは目撃証人(アイ・ウィットネス)なのです」
ピペルの回答にたいしては、これ以上のコメントをくわえる必要はないだろう。その後にピペル自身の著書の文章で確認したが、かれ自身、マンデルバウムが「焼却」した「死体」について、「ガス中毒」とは表現していない。
そこで最後にわたしも、マンデルバウムの発言を「ロイヒター報告」にたいする「正反対の主張」だと断定するデンマーク・ラジオとNHKの「迷」解説に対抗して、とっておきの問題点を指摘しよう。この作品でも、さきの『ニューズウィーク』の記事と同様に、「チフス」という決定的に重要なキーワードが一度もでてこなかった。なぜだろうか。