ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
電網木村書店 Web無料公開 2000.9.9
終章:核心的真実 1
「六〇〇万人の神話」の出発点は「見さげはてた即物的課題」か?
本書のテーマはおおくの日本人、とりわけいわゆる平和主義者にとっては、たしかに刺激が強すぎる問題にちがいない。序章でしるした事例は、決して他人ごとではない。わたし自身が本当に直接、知人から露骨に「不快感をしめされ」たり、「真顔でおこりだされ」たりしたのである。相手が長年の知人の場合にはわたしのほうでも、「おれの考えかたが信用できないのか」といかりを爆発させたくなる場面もあった。
だから正直にいうと、いきなり核心にせまるわけにはいかなかった。ある程度の順序を立てて資料をしめし、最後に「本音の真相」をあかかすという段どりを工夫せざるをえなかった。そうしないと、最初から反発を買ってしまい、話を聞いてもらえなくなるおそれがあったのだ。
たとえば、「ホロコースト見直し論の父」として紹介したフランスのポール・ラッシニエの場合を考えてみよう。
ラッシニエは、レジスタンス運動にくわわって、ナチス・ドイツのフランス侵略とたたかった。ゲシュタポに逮捕され、二年間にわたるナチ収容所での生活を経験した。戦後にはフランス政府から勲章を授与され、下院議員にもなっている。その「抵抗運動の英雄」のラッシニエが、みずからの実体験にもとづいて「ガス室はなかった」と主張し、各種の著作についての実証的な調査を積みかさね、自分でも何冊かの著作を発表していたというのに、なぜその主張がいままで少数派の憂き目を見ていたのだろうか。
すでに紹介したように、ラッシニエは、『ヨーロッパのユダヤ人のドラマ』(『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』所収)と題する著作のなかで、つぎのように断言していた。
「(ホロコーストの犠牲者数の計算は)しかるべき死体の数によって、イスラエルという国家にたいしてドイツが戦後一貫して毎年支払い、いまも支払いつづけている莫大な補償金の額を正当化するための課題でしかない」
ラッシニエはさらに、「それは単に、純粋に、そして非常に卑劣なことに、即物的な課題でしかないのだ」という表現をもちいている。一九四八年までは存在していなかったイスラエルという国家にたいして、一九四五年以前の問題についての補償金を支払うという「イスラエル協定」については、その法的矛盾を指摘するとともに、「いかなる言語でも“詐欺”としか表現できない」という告発までしている。
このラッシニエの告発は、決して突拍子もないものではなかった。永井清彦も『ヴァイツゼッカー演説の精神』のなかで「イスラエル協定」について、つぎのようにしるしている。
「この協定は日本では普通、『賠償』協定と呼ばれているが、実はボツダム協定にいう賠償の枠を越えた、『償い』の協定であった。イスラエルはかねてから、ドイツからの賠償を要求していた。しかし、戦時中には存在していなかったイスラエルに、賠償請求権があるかどうかについては法的な疑問がある、というのが戦勝四大国の立場であった」
ラッシニエの言葉はたしかにきつい。だがわたしは、みずからの生命をナチス・ドイツとのたたかいで危険にさらした立場だけに、その上前をはねようとする策動へのいかりが、人一倍強かったのだと理解する。
朝日新聞の特集記事「問われる戦後補償、下」(93・11・14)によると、一九九三年現在で、一九四九年以来イスラエルがドイツからうけとった金額は、九〇四億九三〇〇万マルク[一九九四年現在の交換レートで約五兆七九〇四億五二〇〇万円]に達している。協定の期限の西暦二〇〇〇年までの支払い予定の残額は三一七億六五〇〇万マルクで、あわせて一二二二億六五〇〇万マルク[おなじく約七兆八二四九億六〇〇〇万円]になる。そのほとんどはイスラエル、ユダヤ人組織、ユダヤ人個人向けである。
イスラエルは、砂漠地帯に給水設備をめぐらせつつ、国際的にも非難されている「占領地域」にまで入植し、いまや三〇〇発以上の核弾頭を保有するという事が公然の秘密とされている超々軍事国家である。人口の増加は、軍事的な意味でも必死の課題だが、移住者をむかえるためにも資金が必要である。イスラエルの経済はもともと、ドイツやアメリカからの資金援助なしには絶対に成り立たなかったのである。
だから当然、以上のようなラッシニエのきびしい糾弾の言葉は、「イスラエルという国家」、またはシオニストにとって致命傷となりうるものだった。
「ユダヤ人戦争犠牲者の再定住」資金獲得のための必死の工作
それだけではない。すでに第一章で紹介した『ホロコースト/双方の言い分を聞こう』でのマーク・ウィーバーの指摘を、もう一度くりかえしてみよう。
「ホロコースト物語がこれだけ長つづきした主要な理由の一つは、諸強国の政府が[イスラエルと]同様に、その物語の維持に利益を見いだしていたことにある。第二次世界大戦に勝利した諸強国~~アメリカ、ソ連、イギリス~~にとっては、かれらが撃ちやぶったヒトラーの政権をできるかぎり否定的にえがきだすほうが有利だった。ヒトラーの政権が、より凶悪で、より悪魔的に見えれば見えるほど、そのぶんだけ連合国の主張が、より高貴な、より正当化されたものと見なされるのである」
元レジスタンス闘士のラッシニエが、「ガス室はなかった」、「六〇〇万人は神話だ」と主張しはじめたころのフランス政府は、「第二次世界大戦に勝利した諸強国」のトップを切るアメリカの「マーシャルプラン」、具体的にはドルの援助にささえられていた。ラッシニエの主張は、反ユダヤ主義よばわりをされる以前に、反米的だったのである。
わたしの脳裏では、ラッシニエがおかれていた政治的構図が、当時のモノクロのフランス映画、マルセル・カルネ監督の『夜の門』の情景と重なって見えてくる。
『夜の門』の主役は若いころのイヴ・モンタンである。元レジスタンス闘士が戦場からパリの街にもどる。親友の死をその妻につたえるためだ。かれはパリの街角で豪華なみなりの紳士に会い、その連れの女性としたしくなる。二人はうらぶれた庭のなかで、まだジャック・プレヴェールによる歌詞がつくられる前の名曲、『枯れ葉』のメロディーにのって、ゆるやかに踊る。
豪華なみなりの紳士は武器商人だった。かたや戦争でこえふとった成金、かたや青春をたたかいにささげつくした文無しの復員兵士。ドラマは知りあったばかりの女性の死でおわる。フランス映画らしい散文詩的なすじがきの場面を、ハンガリーうまれのジョン・コスマ作曲の、やるせない音楽がつないでいた。
ものの本には、この映画でイヴ・モンタンが「枯れ葉を創唱した」などとしるされているが、わたしがNHKの3チャネルで見た時の記憶では、歌声はなかったような気がする。もしかすると、あとで録音しなおしたのだろうか。どちらでも大差はないが、わたしには、歌声なしの「枯れ葉」だったほうがいいように思える。これはわたしなりの「回復した記憶」なのかもしれない。
それはともかく、戦争がおわり、勲章が授与され、あたらしい戦後秩序が再開した時、レジスタンスはすでに過去の物語となってしまったのだ。フランスでは『夜の門』の客のいりはわるく、日本でも劇場公開はされなかったようだが、わたしは、この映画でマルセル・カルネが、いかにもカルネらしく、戦後のフランスの裏側の断面をみごとに切りとって見せてくれたと感じた。
そのころのパリで、具体的には一九四五年一二月二一日、ドイツから取りたてる賠償金の配分を決める会議が開かれていた。『移送協定とボイコット熱1933』では、ユダヤ人自身の国際組織、「世界ユダヤ人評議会」が一九四八年にニューヨークで発行した活動記録、『離散の中の統一』の記述にもとづいて、この会議の経過を要約している。
第一次世界大戦後の高額賠償金請求はドイツの経済を破壊し、ヒトラーの登場をまねいた。だから今度は金額は低くおさえられた。「二五〇〇万ドル」と「中立国でさしおさえたドイツの資産」および「ドイツで発見された金塊」が賠償金の基金となった。最初は、ユダヤ人への賠償という考えは、連合国首脳の頭のなかにはまったくなかった。世界ユダヤ人評議会はアメリカ政府に強力にはたらきかけた。その結果、最初の段階では、賠償金の配分を「ドイツの支配下で非常にくるしめられたもの」に優先するという原則が決まった。だが、そのときにはまだ「ユダヤ人」の名はでていなかった。以後、翌年の一九四六年一月一四日にいたるまでの「ユダヤ人組織のきびしい努力の結果、やっとのことで」、「二五〇〇万ドル」と「金塊」の九〇%、「相続者のいない資産」の九五%がユダヤ人に配分されることになった。その使用目的は、ユダヤ人組織の代理人が持ちだしたもので、「ユダヤ人戦争犠牲者の再定住」のための資金にあてるという計画だった。
「ユダヤ人戦争犠牲者の再定住」、すなわちイスラエル国家の建設である。このための資金の獲得こそが、ラッシニエが「純粋に即物的」と表現した具体的な課題だったのである。「六〇〇万人の神話」は、まず最初に「しかるべき死体の数」として提示され、ドイツからの賠償金の配分獲得に役立ったのだ。