『アウシュヴィッツの争点』(44)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.8.4

第3部 隠れていた核心的争点

第5章:未解明だった「チクロンB」と
「ガス室」の関係 4

「青酸ガス(チクロン)」フォア「害虫駆除(消毒)」の順序

「チクロンB」と「ガス室」の問題については、すでに「世界ではじめての科学的・法医学的な実地調査」をおこなったアメリカ人、フレッド・ロイヒターの報告書と法廷での証言がある。『六〇〇万人は本当に死んだか』を頒布して有罪に問われたカナダのツンデル裁判の鑑定証拠であるが、ツンデル裁判についてはのちにその経過をくわしく紹介する。

 わたしの手元にあるA4判六七ページの『ロイヒター報告』は、それらを要約したものである。

「チクロンB」が「殺虫剤」だというのは、「珍説」や「奇説」どころか、「新説」ですらない。『ロイヒター報告』には、カナダのツンデル裁判で証拠として提出されたたくさんの資料のコピーが収録されている。「チクロンB」のくわしい資料としては、本来の製造元であるドイツのデゲシュ社が作成した「チクロンB」の業務用のとりあつかい説明書(以下『デゲシュ説明書』)と、戦後にナチス・ドイツを裁いたニュルンベルグ裁判の記録と、二種類の英語訳の資料がある。

 ニュルンベルグ裁判の資料には、本来の業務用のとりあつかい説明書とめだってちがう部分がある。端的にいえば「青酸ガス」の強調である。

 まずは標題だが、ニュルンベルグ裁判の資料のほうの標題は、『害虫駆除(消毒)のための青酸ガス(チクロン)の使用法の指示』となっている。英語の順序を日英のチャンポンでしめすと、「使用法の指示」オブ「青酸ガス(チクロン)」フォア「害虫駆除(消毒)」であり、「青酸ガス(チクロン)」のほうがさきになっている。本来の業務用のとりあつかい説明書の標題は簡単で、『チクロン』と副題の「害虫制御」だけである。『青酸ガス(チクロン)』とは書いてない。

 つぎは内容だが、ニュルンベルグ裁判の資料のほうでは、とりあつかいかたの説明を簡略化して後半にまわし、いきなり冒頭に、業務用のとりあつかい説明書にはない「一、青酸ガス(シアン化水素)の特性」という大項目を立てている。「青酸ガス」の毒性、とりわけ人を殺す「特性」があることを強調したいという意図が、作成者の側にあったのではないだろうか。連合軍当局の要請に応じて構成を変えたものではないかと思えてならない。しかし、執筆責任は「プラハのボヘミアおよびモラヴィア保護領の衛生協会」である。一応の専門家の仕事だからデタラメではないだろう。

「暖血動物への有毒効果」の項目には、「人間を殺すには体重1キログラム当たり1ミリグラムで十分」とある。平均体重を六〇キログラムとすれば、致死量は〇・〇六グラムとなる。

約二五〇人に一、二鑵の「チクロンB」というホェス「告白」

 最大の問題点は、人間を殺すための致死量の何倍が「チクロンB」の一缶にふくまれているかであるが、たとえば『夜と霧』の日本語版にも、すでに紹介した元収容所長ホェスの「告白」にもとづくつぎのような解説がある。

「衣類を脱がされた囚人たちは、警備の指図で一回に二百五十人くらいずつ部屋に連れ込まれた。扉には錠が下され、それから一、二鑵の『チクロンB』が壁に特殊に造られた隙間から注ぎ込まれた。『チクロンB』ガスはこのような目的のために用いられるものであり、青酸の天然の化合物を含んでいるものなのだ。犠牲者を殺すに要する時間は天候によって異なるが、十分以上かかることは希であった」

 つまり、約「二百五十人」が「一、二鑵の『チクロンB』」によって「十分」程度で死んだという「告白」である。だがこれで、「致死量をこえる殺人用の毒ガス」という条件がみたされているのだろうか。すくなくとも、そういう厳密な研究の成果をつたえる文章にお目にかかったことはない。

『デゲシュ説明書』によると、「チクロンB」は、木片、チョーク、硅藻土、酸性白土などの粒に青酸ガスを吸着させ、缶に密閉したものである。ホェス「告白」では、「チクロンB」をさきの引用のように「青酸の天然の化合物を含んでいるもの」としたり、「結晶化された青酸」と表現したりしている。これは明確なまちがいである。もしかするとホェス、またはホェスを尋問して調書を作成した担当者は、「チクロンB」を見たことがなかったのかもしれないのである。

サハリン中央部とおなじ北緯五〇度の気候で「あたためる話」なし

『デゲシュ説明書』によると、空気をあたためて換気装置で室内にいきわたらせる方が効果的である。デゲシュ社は、温風を室内に送りこむための装置や、温風装置付きの移動式消毒室さえ製造販売していた。ただし、『デゲシュ説明書』には、「かならずしも事前に室内をあたためなくてもいい」とも書いてある。温度がひくければ、それだけ気化がおそくなり、消毒作業の時間がかかるだけのようだ。デゲシュ社の商売としては、「温風あり」と「温風なし」の二段がまえだったのだろう。「暖めよ」の指示があるのは、一五度C以上の室温を必要とする残留ガス成分テストにかんしてだけである。

 以上の温度の問題をも正確に認識しておく必要があるだろう。まず、シアン化水素の沸騰点は二五・六度Cである。ただし、沸騰点一〇〇度Cの水が〇度C以下の氷の表面からでも蒸発するように、シアン化水素(または「液体青酸」)も沸騰点以下で気化して「青酸ガス」とよばれる状態になる。問題の『マルコ』記事では「長時間の加熱」を必須条件のように強調しているが、それはいいすぎである。

 それにしても、『夜と霧』の解説のなかのホェスの「告白」に、「殺すに要する時間は天候によって異なる」とあるだけなのは、いかにも簡単すぎる。そのほかの関係書にも「あたためる話」はまったくでてこない。

 アウシュヴィッツの地理的位置は、北海道の北のサハリン中央部とおなじ北緯五〇度である。日本の気候なら北海道なみで、二五・六度C以下の時期のほうが長いはずなのに、この点も不可解である。わたしは、一九九四年の現地取材で一二月六日から一一日までポーランドに滞在していたが、その際、温度計を日本から持っていった。いわゆる「ガス室」の内部もふくめて随時たしかめたところ、連日五度C前後であった。平凡社発行の『世界百科事典』によると、ポーランド中心部の首都ワルシャワの一月の平均気温はマイナス一度C、七月の平均気温は一九度Cである。アウシュヴィッツもマイダネクも、ワルシャワよりはすこし南だが、そんなに差はないはずだ。


(45)死亡「一○分」除去「二○分」「気化」「換気」の所要時間は?