ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
電網木村書店 Web無料公開 2000.8.4
第3部 隠れていた核心的争点
第5章:未解明だった「チクロンB」と
「ガス室」の関係 3
「発疹チフス」予防用「殺虫剤」の「チクロンB」で人を殺せたか
「発疹チフス」は決定的に重要なキーワードである。「発疹チフス」がユダヤ人強制収容所で大流行したことを知らないと、「ホロコースト」物語の謎はとけない。もうひとつの重要なキーワード、「チクロンB」も、「発疹チフス」と密接な関係がある。
「ホロコースト」の犯行現場は、強制収容所の「ガス室」ということになっているが、「ガス室」は「場所」、または「装置」でしかない。たとえ本当に「ガス室」があったとしても、そこで殺人用の「ガス」、正確にいうと「致死量を超える殺人用の毒ガス」を所要時間内に吸入させることができなければ、虐殺はおろか、一人の人間も殺せない。
ではまず、「大量虐殺」の決定的な物的証拠、「凶器」そのものの「毒ガス」は、いったい何だったというのだろうか。
「ガス室」で使用された「毒ガス」は「チクロンB」だとされ、そのラベル入りの缶はあらゆる映像作品に出現する。
だが、シュテーグリッヒ判事は、「チクロンB」があったことを「虐殺」の絶対的な証拠であるかのように主張する論理にたいして、それなら「斧」を持っていたら殺人者か、という皮肉な質問をなげかえしている。
わたしはそれに、あらたな論理をつけくわえて考えたい。たしかに薪わり用の斧でも果物ナイフでも殺人は可能である。しかも、相手の抵抗さえなければ、殺人者の身に危険はない。ところが、毒ガスの場合には、必殺のために濃度をたかめればたかめるほど、それだけ殺人者の側も危険になる。だから、毒ガス、または毒ガスを発生する「チクロンB」が「連続大量殺人用の凶器」になるためには、「濃度」「場所」「遮蔽」「換気」といった精密な条件を完全に満たさなければならないのである。
さて、すでに第二章でも簡単に紹介したが、「チクロンB」は一九二三年に開発された「殺虫剤」である。第二次世界大戦当時のナチス・ドイツの集中キャンプでは、大流行中の「発疹チフス」の病原体の微生物、「リケッチャ」を媒介するシラミ退治につかわれたものなのだ。ただし、あるドイツ人の医師によると、「チクロンBをつかったのは失敗だった」とのこと。どうやら「チクロンB」では、衣服の縫い目の奥底に卵を生みつけたりするしぶといシラミを、完全に退治することができなかったらしい。『医学大辞典』の「リケッチャ」の項目には、「自然界では節足動物に共生的に寄生しており、経卵的に垂直伝播」などという難しい説明がある。要するに「リケッチャ」は、シラミなどの成虫を全部殺しても、すでに生みつけられていた卵を通じて子孫に代々つたわるのである。
シラミの駆除には、その後、アメリカ製のDDTが決定的な効果を発揮した。そのためもあってか、DDT以外のシラミの駆除に関する文献の有無は、だれに聞いても分からない。ただ、平凡社の『世界大百科事典』を見ると、「殺虫剤」の項目の前に「殺ダニ剤」があって、そこにはこう書いてある。
「殺ダニ剤には殺卵性、殺幼虫性、殺成虫性と異なった生育ステージに効果を発揮するものもあるので、使用にあたってはこの点も十分配慮する必要がある」
薬学の専門家に、シラミの駆除についてもおなじことがあるのだろうか、と質問してみたところ、「シラミのデータは見たことはないが、卵というものは一般的に外部からの影響をうけないように保護する役割を持っている」という返事だった。
そのためでもあろうか、つぎに紹介するような「チクロンB」の効能書きにもかかわらず、明らかにナチス・ドイツは「発疹チフス」の予防に失敗している。なぜなら結果から見て、「発疹チフス」による死者の数は激増の一途をたどっているからだ。つまり、「チクロンB」ではシラミの完全な駆除ができなかったらしいのだが、そんな性能の「殺虫剤」で本当に大量殺人ができたのだろうかという疑問が生じる。
わたしの判断の一部だけをさきに表明しておくと、いささかまわりくどいが、「人を殺すのは不可能ではなかった」ということになる。
なぜならまず、「チクロンB」の主成分は、人間にとっても猛毒の「シアン化水素」(気体状態の通称が「青酸ガス」)だからだ。問題になった『マルコ』記事のリードは編集部責任の作文だが、「しかもガス室は密閉性に欠け、使用されたガスは科学者の眼から見ると、とても大量殺人に使用できぬものであった」となっている。「ガス室」の構造を別にすれば、後半の部分の表現は「科学者の眼」を持ちだすわりには不正確である。「青酸ガス」が発生するのだから、それを使用する場所の「ガス室」さえ適格な構造になっていれば、使用者側が安全な「大量殺人」も不可能ではないはずだ。もちろんそれ以前に、さまざまな条件の検討が必要であろう。
「再審」を想定する議論は、このような条件のひとつひとつを正確に、厳密に押さえる作業から、はじめなければならない。