ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
電網木村書店 Web無料公開 2000.7.4
第2部 冷戦構造のはざまで
第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 7
「ユダヤ人問題の最終的解決」の意味するもの
もっとも根本的な疑問は、「ユダヤ人絶滅」が果たして強制収容所の目的であったのかいなか、または「ユダヤ人絶滅」という「計画」が本当にあったのかいなかである。
ナチス・ドイツの文書類は、すでにニュルンベルグ裁判の項で紹介したように、戦後ただちに収集され、「記録センター」で整理されている。アメリカ軍が押収した分だけでも一、一〇〇トンに達するという。だが、それらの文書の中からは、ただのひとつとして「絶滅計画」計画の証拠になるような公式文書は発見されていない。「証拠湮滅」説もあるが、わたしはとらない。その理由はのちにくわしくのべる。
「ユダヤ人問題」の「最終的解決」という政策上の表現が、絶滅説の根拠になっている。だが、この言葉自体には「殺す」という意味はないが、ニュルンベルグにおける軍事裁判以来、英語で「エクスターミネーション」と同義語の取りあつかいを受けつづけている。
『六〇〇万人は本当に死んだか』によると、問題の「エクスターミネーション」がナチス・ドイツのユダヤ人問題で使われだしたのは、一九三六年の反ナチ宣伝書以来のことだった。当時のナチス・ドイツの対ユダヤ人政策は「移住」だった。つまり、最初は「移住」政策が「抹殺」につながるとして非難していたのだ。さらには『移送協定とボイコット熱1933』によると、すでに一九三三年、アムステルダムで「ドイツ商品ボイコット」の宣戦布告を協議した「世界ユダヤ人経済会議」の決議文では、ヒトラーの政策がユダヤ人を「結果的にエクスターミネイト」するものだと表現していた。
いずれにしても、単語の解釈だけでは水かけ論か、よくある口喧嘩の難癖のつけあいになりかねない。やはり実際におこなわれたことと照合してみる必要がある。
ヒトラー、またはナチ党の政策の目玉はゲルマン民族浄化のための「ユダヤ人排除」だった。一般庶民の胸の中にあったユダヤ人資本への不満を、そういうウルトラ民族主義のさけびであおり、首尾よく政権を獲得したのだ。だから、「ユダヤ人排除」のさけびは、庶民的かつ戦闘的でなければならなかった。
事実経過をたどると、ユダヤ人の「東方移送計画」はすでに一部が実行にうつされていた。ナチス・ドイツ当局は一九三三年に、アングロ・パレスチナ銀行のロンドン代表部と、数通の書簡からなる「移送協定」をむすんでいた。パレスチナへの移住ばかりでなく、そのさいのユダヤ人資金の移送にも協力していた。その作業は第二次世界大戦の勃発まで公然とおこなわれていた。しかもそのかげには、ナチ党とシオニスト機構中央との知る人ぞ知る密約の関係があった。
「歴史見直し研究所」をおとずれる以前にも、わたしの手元には、この事実を指摘する『移送協定とボコット熱・1933』という論文など、シオニズムとシオニストについての大量の英文資料があった。厚めの単行本のコピーも二冊分あった。レニー・ブレナー著の『総統の時代のシオニズム』はA4判で二七七ページある。ジョージ・ロブネット著の『パレスチナ構想』は、やはりA4判で四〇八ページもある。この二冊を全部読み通す時間はないので、要所を見るだけにした。「歴史見直し研究所」発行の雑誌論文の方は短いから全部読みとおした。ところが、実際に研究所をおとずれてみると、この関係だけであらたに七冊の単行本を購入することになってしまった。とても目をとおしきれない。関心のある皆さんにカタログでもくばって、共同研究をよびかける以外に方法はないだろうと観念した。本書の巻末にもリストをのせる。
ただし、これまでに一応目をとおした資料の範囲だけから見ても、基本的な事実関係は明らかである。事態はまさに複雑かつ怪奇である。まずは大筋の年代を追ってみよう。
一八七八年のベルリン条約以後、ロスチャイルド家がパレスチナ地方の土地を逐次買収し、ユダヤ人移民を送りこみはじめた。
一八九八年にはユダヤ人にとっての最初の国際組織、シオニスト機構(のちに世界シオニスト機構と改称)が設立された。
一九三二年、まさにヒトラーが政権をにぎる一年前に、世界ユダヤ人会議の準備会が開かれ、一九三六年には恒常的組織としての世界ユダヤ人評議会の結成にいたった。
つまり、世界中のユダヤ人を組織対象とする組織が二つできたわけだが、この二つの世界規模のユダヤ人組織が第二次世界大戦の裏側でおりなしてきた歴史を要約して紹介するのは、まさに至難のわざである。稿をあらためて検討したい。とりあえず指摘しておくと、ナチ党と「東方移送計画」の作業についての密約関係をむすんだのは、世界シオニスト機構の本部とシオニスト・ドイツ同盟である。