『アウシュヴィッツの争点』(34)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.7.4

第2部 冷戦構造のはざまで

第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 4

反ナチ・ユダヤ人救助のレジスタンス闘士が「見直し論」の父

 フォーリソンもそうだが、「ホロコースト」にたいして疑いの意見を提出しはじめたのは、一般につたえられているような「ネオナチ」などではなくて、むしろ「左翼」なのであって、いわゆるユダヤ系の学者までがくわわっている。

 この点では、日本での、または日本にながれてくる報道のありかたも問題にしなくてはならない。日本国内では、ネオナチの宣伝にたいする規制としてしか、発言処罰法の問題は報道されていない。だが、事件の表面にあらわれた法的判断の裏には、非常に複雑な歴史的事情がひそんでいる。もともと不勉強な狂信的ウルトラ右翼や、右翼団体の集会で講演したりする軽率なイギリスの作家、アーヴィングなどは、それらの研究に便乗しているにすぎない。むしろ、この問題の複雑な内容や経過を考慮にいれると、狂信的ウルトラ右翼を煙幕に利用するための意図的なヤラセさえ疑ってかかる必要があるだろう。すくなくともネオナチの動きが、たくみに煙幕として利用されていることだけは間違いない。

 ただし、この場合の「左翼」の事情は複雑である。「左翼」とはいっても、一般に「左翼」という言葉から連想されるような「組織」ではない。ソ連は、すでに指摘したように、一九四七年の国連によるパレスチナ分割決議、およびイスラエルの建国を支持していた。当時のソ連の思惑にはさまざまな憶測があるが、ともかく、イスラエル建国支持の底流には「ホロコースト」物語の承認があるし、ソ連当局はその立場だった。

 ナチス・ドイツの収容所での「ガス室」の存在を否定した最初の人物は、フランス人の元レジスタンス闘士で「左翼」の歴史地理学教授、ポール・ラッシニエ(一九六七年没)である。ラッシニエの主要著作を再編集した「歴史見直し研究所」発行の英語版、『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』の著者紹介によると、一九〇六年に農夫の息子としてうまれている。歴史地理学の教授になったのち、一九三四年には社会党にはいり、戦争がはじまった一九三九年にはベルフォール地方の最高責任者になっていた。第二次世界大戦中には、ドイツの占領下にあったフランス北部で非合法の対ドイツ抵抗運動(レジスタンス)にくわわった。しかも、注目すべきことにはラッシニエが参加した「北部解放」の組織活動の中には、スイスにユダヤ人避難民をおくりこむ「無抵抗のレジスタンス」がふくまれていた。ラッシニエが「反ユダヤ」主義者などであるはずがない。

 ラッシニエは一九四三年に悪名たかいドイツの秘密警察、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年の終戦までは、ブッヘンヴァルトなどのナチス・ドイツの収容所にいれられていた。二年間にわたる何カ所かのナチ収容所経験の持ち主である。戦後には社会党から下院議員に選ばれたが、収容所生活でチフスにかかり、健康をそこねていたので一年で引退した。フランス政府からは、レジスタンス活動にたいする最高の勲章を授与されている。

 第二次世界大戦の直後には、「ホロコースト・タブー」とよばれる状況があったらしい。ナチの犯罪追及が熱心におこなわれている時代のことだから、その最悪の犯罪として話題の中心になっていた「ホロコースト」に疑問をなげかけるのは、「タブー」だったのだ。

 その社会状況にあえて挑戦したラッシニエは、没後の現在、「ホロコースト・リヴィジョニズムの父」とよばれている。

「リヴィジョニズム」を「修正主義」と訳している例がおおい。だが、「修正主義」という言葉は、いわゆる「中ソ論争」のさいにソ連への批判として派手につかわれていた。もっぱら非難の意味が強いし、手垢がつきすぎている。日本の歴史学の場合には、一九六九年(明治二年)に発布された「修史の詔」によって、いわゆる「皇国史観」による歴史の偽造がおこなわれている。「修正」も「修史」も、「修正インク」のように、「偽造」のイメージが濃厚だ。

 だからわたしは単語の原意をとって、「見直し論」と訳すことにする。


(35)西ドイツ当局がアウシュヴィッツ裁判傍聴で入国を拒否