『アウシュヴィッツの争点』(3)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.1.7

はしがき・資料編 3

原著はしがき 1.

 本書の内容は、第二次世界大戦以後の半世紀の世界史の重要な部分についての、公式的ないしは常識的理解を根本からくつがえす主張と、それをめぐる論争の争点を紹介しようとするものである。

 当然、準備段階から、「かならず物議をかもしだす」と予期していたし、本文にもその点についての覚悟をしるしている。本書の内容の大部分は一九九四年の秋頃に書き上げ、年末には現地取材で補強し、入稿をすませていた。明けて一九九五年は第二次世界大戦終結の五〇周年に当たる。だから、好むと好まざるとにかかわらず、当然、本書を、戦後五〇年の論議への一石として投じるものとして意識せざるをえなかった。その一月末には実際にアウシュヴィッツ収容所解放の記念集会などが行われたが、そういう日程の予測はもちろん最初から念頭にあった。

 一九九五年の一月半ばには最終校正のゲラが上がってきた。その直後に発生したのが『マルコポーロ』(95・2、以下『マルコ』)廃刊事件である。廃刊決定の発表は一月三〇日だった。

『マルコ』廃刊事件の報道(以下「マルコ報道」)において、マスメディアは「一時的かつ表面的」な特徴を遺憾なく発揮した。廃刊の真相や背景の究明が不足していただけではなくて、問題の記事、「ナチ『ガス室』はなかった」の中心的な論拠であり、この問題の核心的争点である「ガス室」と「チクロンB」に関する事実関係の議論までが、まるでおこなわれていない。それなのに総ジャーナリズム的バッシング報道の嵐は、同年三月二〇日に発生した地下鉄サリン事件以前に、早くもすぎ去ってしまった。

『マルコ』の発行部数は公称二五万部、実売一〇万部そこそこだったという。問題の二月号は廃刊決定と同時に「回収」となった。回収の実績は不明だが、いずれにしても問題の記事そのものを実際に読んだ読者の数は、何百万から何千万単位の複数の新聞やテレビ報道の受け手の数にくらべれば、ごくごく少数である。圧倒的多数の受け手は、実物の記事に接することなく、大手マスメディアの情報のみに頼って、事態を判断することになる。

 そのマスメディアは商業性であり、その商業的生命は速報性にある。だが、問題の記事の内容の判断はだれがするのか。とくにこの場合、失礼ながら、ほとんどのジャーナリストも歴史家も、急場の間に合うような予備知識を持っていなかった。相手が「タカ派の文芸春秋」だから適当な談話で良いというものではないはずだ。それなのに速報マスメディアはせっかちに「判断」をもとめる。このような場合のマスメディアの世論誘導効果には、必然的に政治的、ないしはファッショ的傾向がさけがたいものとなる。

 その傾向がもっとも極端に現われたのが、火元の文芸春秋である。もともとかつての大日本帝国時代からの国策的出版社で、いまも社内体制は根っからの「タカ派」だから、こういう場合には露骨に正体をあらわにする。特徴的な現象は、記事内容に責任を持ち、いちばん事情に詳しいはずの『マルコ』編集長と執筆者本人の意見を聴取することなしに、「上御一人」的な廃刊方針が決定され、まかり通ったことだった。そのこと自体がすでに、記事内容とその根拠の調査を、いささかもしなかったことの立証になっている。

 わたしは、二月二日に行われた文芸春秋とサイモン・ウィゼンタール・センター(以下SWC)の共同記者会見の席上で、「ガス室」と「チクロンB」に関する数度の調査結果の存在(本文で紹介)など、いくつかの重点的事実を指摘し、「そういう事実を調べた上で廃刊を決めたのか」と質問した。そのさい、田中健五社長(当時)の顔色は急速に青ざめた。わたしが回答を催促すると、上半身をフラフラとぐらつかせながら、「そんな細かいことをいわれても、わたしにはわからない」と、おぼつかなげに回答している。この態度と回答内容は、事実関係の調査をまったく行わなかったことの自認にほかならない。なお、わたしだけができたと自負するこの質問と田中社長の回答状況について、わずかに報道したのはスポーツ紙だけであって、大手マスメディアの報道はまったくなかった。

 再度強調するが、この問題の最大かつ核心的争点は、「ガス室」と「チクロンB」の関係にある。わたしが質問のなかで指摘した「数度の調査」の結果は、裁判の例でいえば「新証拠発見」に当たる。それを提出することによって「再審」を請求するような事態なのだ。マスメディアの報道は、結果として、この「新証拠」が持つ意味と位置づけを吟味しようとせず、争点をそらしたままで終わっているのである。

 以下、まずはわたし自身と「マルコ報道」とのかかわりをのべつつ、典型的な問題点を指摘しておきたい。

 問題の『マルコ』記事の筆者、西岡昌紀は一九九四年春、拙著『湾岸報道に偽りあり』(汐文社)を読んで、わたしに電話をかけてきた。拙著の関係箇所はつぎのようになっていた。

「ナチス・ドイツによる大量虐殺についても、数字の誇張ありという疑問が出されている。『ユダヤ人』自身の中からさえ『シオニストの指導者がナチ政権と協力関係にあった』という驚くべき告発がなされている。事実、第二次大戦がはじまるまでのナチ政権は、『ユダヤ人』に対して差別と同時に『出国奨励策』を取っていた。財産の大部分を没収するなどの迫害を伴う政策だったが、それでも狂信的なシオニストは、迫害をすら、パレスチナ移住を促進する刺激として歓迎したというのだ。(中略)シオニストの『被害者スタンス』には、かなりの誇張と巧妙な嘘、プロパガンダが含まれているらしい。『選民思想』も克服されていないどころか、一部では、さらに狂信の度を加えている。しかも、批判者には、『極右』武装集団による脅迫、殺人に至る暴行傷害が加えられた事実さえ報告されている」

 以後わたしは、西岡から大量の英文資料の提供をうけ、すでに問題の『マルコ』より五カ月前の『噂の真相』(94・9)に短文を発表していた。題は編集部がつけたものだが「映画『シンドラーのリスト』が訴えた“ホロコースト神話”への重大疑惑」であった。『マルコ』とは雑誌の性格がちがうせいか、それとも、のちにのべるように政治的には決定的にちがう視点にたつので、“ナチ・ハンター”ことSWCが、さわらぬ神にたたりなしと決めこんだものか、こちらにはなんらの抗議もなかった。その後わたしは、本書の完成に努力を集中していた。

 西岡は、文芸春秋が廃刊を決定する以前に意見をもとめられなかったことについて、心の底から憤慨していた。文章のできがどうだったかは別問題として、筆者の立場としては当然の怒りである。人格の否定にもひとしい仕打ちだからだ。

 わたしには西岡から資料提供をうけた借りがある。しかも、このままでは、こちらも動きがとれず、「ガス室」論議そのものが封殺されかねない。そこでやむなく、準当事者の立場を表明して文芸春秋とSWCの共同記者会見にでたり、三度も借金の自費で記者会見兼市民集会をひらいたりした。そのために、わたしの立場や主張が『噂の真相』(前出)の記事の場合も西岡と「まったく同じ」(宝島30、95・4)であるかのように、極端な誤解をうける例もあった。多少の誤解をうけるのは覚悟のうえだったが、決して同じではない。わたしがいちばん重要だと考えている政治的スタンスのちがいは、実物を比較検討すればすぐにわかるはずだ。いくつかの重要な相違点についてはのちに説明するが、この問題の構造は単純ではない。本物の理解に達するためには、複雑さをふまえたうえでの冷静かつ綿密な長期的論争が不可欠なのである。

 誤解が生まれた基本的な原因は、文芸春秋との関係であろう。

「マルコ報道」のゆがみの根本原因は、なんといっても文芸春秋という出版社の世間周知のタカ派体質にあった。記事の内容がはらむ政治性の大きさを考えれば、発表の場の選び方は重要だった。その意味では、西岡は発表場所を間違えたことになる。わたしにたいしても「発表場所についての監督責任」を追及する知人がいたほどである。だが、西岡とわたしの間には二〇歳の年齢差はあっても、そのような上下関係はない。

 文芸春秋のタカ派体質にくわえて、「地雷原好み」と評される『マルコ』編集長(だった)花田紀凱の無責任ぶりがある。かれはなぜか、アマチュアの文章にほとんど注文をつけもせず、無防備のままのせている。しかも、「ナチ『ガス室』はソ連の捏造だった」などというオドロオドロしい電車の中吊り広告をうっている。いかにもスキャンダラスな「売らんかな」丸だしの姿勢である。このような粗雑な仕事ぶりから見ると、この問題がはらんでいる重大な政治的背景や意義を理解していたとはとうてい思えない。

 つぎには、この件に特有の感情的になりやすい問題点を整理しておこう。

 わたしは、文芸春秋とSWCの共同記者会見で質問に立ったさい、「ホロコースト見直し論者」の立場を説明した。わたしの発言の要旨はつぎのようであった。

「ユダヤ人の三千年の歴史の悲劇をいちばん良く知っているのは、わたしたちだ。しかし、その悲劇の解決の過程に誤りがあったとすれば、また新たに千年の恨みが残り、悲劇は終わらない。諸民族の真の和解は、事実の確認の上にしか成り立たないのではないか」

 最後の「事実の確認」の部分では、発言中に会場の記者席から拍手がひろがり、「そうだ!」という何人かの賛同の声がひびいた。文芸春秋の廃刊決定は、だれの目にも「カネ」の力によるファッショ的な言論圧殺として映っていたし、記者会見の設定とその進行の仕方には、いかにも手打ち式でございという濃厚な臭いが立ちこめていたからである。

 わたしは、この問題の真相がユダヤ人自身の手で明らかにされることが、最良の解決法だと考えている。ユダヤ人のホロコースト見直し論者は、すでに何人もいるのだ。

 文芸春秋の斉藤禎社長室長は「(『マルコ』の記事が)「ユダヤ人社会及びユダヤ人関係者に深い悲しみと苦しみを与えたことを遺憾とし、反省しています」(産経95・1・30夕)と語ったようである。だが、ここでいちばん重要なのは、だれが「ユダヤ人」を代表しているのか、という問題なのである。

 文芸春秋に対しても、日本政府の窓口としてのワシントンの大使館に対しても、抗議したのはSWCだけである。もちろん、個人的な抗議の声は挙がったであろう。しかし、アメリカ・ユダヤ人委員会といったようなユダヤ人社会を代表する伝統的組織は動いていない。イスラエル大使館は文芸春秋に抗議したが、日本政府なり外務省に対する公式の抗議をしていない。

 わたしが自力でひらいた三度の記者会見兼市民集会の内、後半の二度に出席にしたデイヴィッド・コールは、ハリウッドの住宅地区、ビヴァリーに住むアメリカ国籍の「ユダヤ人」である。来日当時の年齢は二五歳だが、アウシュヴィッツやマイダネクなどの元ナチ収容所の「ガス室」の矛盾をビデオ映像で明らかするという新しい試みによって、話題の的となっていた。しかも、アメリカ全土に放映される視聴者数千万の『ドナヒュー・ショウ』と『シックスティ・ミニッツ』に出演し、「ホロコースト」見直し論の立場で発言しているから、この点でも、当時の日本国内における論調、すなわち、『マルコ』が「ホロコースト」見直し論を取りあげたこと自体が「国辱的な暴挙」であるといった愚論への、実物による反撃にもなりえた。かれは、SWCが日本で行った言論弾圧に憤慨して、西岡あてのファックス通信で「飛行機代は自費でまかなえるから何かやらせてくれ」と申しでてきたのだ。わたしはさらに、それをうけて日程を調整した。最初は、文芸春秋とSWCの共同記者会見の先を越すために急遽設定した二月一日夕刻の当方の記者会見に駆けつけられるかと問い合わせたのだが、かれの予算では間に合う切符が取れなかった。

 そのために、その後の二度の集会をつづけて設定したのだが、大部分の大手新聞の記者がそこに出席したにかかわらず、「ユダヤ人」のコールがSWCとは反対の立場で来日したことを報道した大手新聞は皆無だった。これはまさに、わたしが湾岸戦争以来提唱しつづけている用語、「マスコミ・ブラックアウト」の典型的発動にほかならない。

 その一方、「マルコ報道」では奇妙なことに大新聞などで「両論併記」の必要性がしきりと強調された。「奇妙」というのは第一に、それらの大新聞自身が普段から「両論併記」を十分に行わず、偏った報道をしてつづけているからであり、第二には、大新聞の「マルコ報道」自体が、さきにのべたように、決して「両論併記」にはなっていなかったからである。「両論併記」の義務は本来、公共の電波を独占的に使用する認可をえた放送の場合に法律的に定められたものであって、大新聞ならばいざしらず、小規模の活字メディアにまで強要できるものではない。しかも、この問題の場合には、「ホロコースト」があったという「絶滅説」(国際的な議論での用語)の主張は半世紀もの間、巷にあふれつづけてきたのだから、わざわざ「併記」しなくても読者にはわかるし、当の『マルコ』記事自体にも絶滅説の概略がちゃんと紹介されていた。「ホロコースト」見直し論者の立場から逆にいうと、むしろ、戦後一貫してマスメディアが一方的な戦時プロパガンダばかりを無批判に繰り返しつづけてきたからこそ、いまだに真相が究明されていないのである。

 もちろん、「両論併記」を必至とする主張の裏には「問題が大きいから」という意識もあるだろう。もうひとつの側面として「被害者の視点の無視」を強調する主張もある。「生き残り証人」の問題は本文で論じるが、その証言やインタヴューの必要性を絶対視する論調もある。しかし、これらのすべての論議の仕方には詭弁が潜んでいる。順序を逆にすると、「六〇〇万人の民族皆殺し虐殺」という古今未曾有の歴史的大罪を告発した側にも、それだけ「問題が大きい」のに、それだけの立証努力をしたのか、と問い直す必要がある。この場合、いわゆる「被害者」側を代表する「生き残り証人」は被害の告発者でもあるのだから、しかるべき立証責任を免れることはできないはずなのだ。「ホロコースト」に関してのみ特別にいかめしく、「立証をもとめること自体が不当」という論理がまかり通ってきたことも不可解である。「被害者」側の一方的な告発だけで犯罪の認定が終了するのなら、人類数千年の法の歴史は無意味となる。しかも逆に「ホロコースト」が、もしも、見直し論者が主張するような情報操作(一種の情報犯罪)だったとしたら、本当の被害者は、その情報操作の結果によって被害をこうむった側のことになるのだ。

 それなのになぜ、この問題に関してのみ、「この歴史を検証すること自体がまちがい」だとか、「守るべき言論の自由ではない」とか、「言論の自由をはきちがえている」とかいう、いかにもおごそかな強調が学問の名をかりてまかり通っているのだろうか。古今東西、およそ「タブー」のうらに虚偽がひそんでいなかった例があるのだろうか。「タブー」の歴史的役割をも、あらためて問いなおす必要がある。

「マルコ報道」の経過が明らかにしたのは、むしろ、この問題の政治的な重要さと、それを論じる側の政治的スタンスの重要性であろう。おおくの論者の思考過程の出発点にも、政治的判断が横たわっているにちがいないのである。この点こそがまさに、『噂の真相』(前出)のわたしの文章と『マルコ』記事との決定的な相違点である。文芸春秋のタカ派体質にくわえて、『マルコ』記事の政治的スタンスが不明確だったから、政治的で一方的なバッシングの対象にされてしまったのである。


(4)原著はしがき2.